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異化される脳 | 美馬達哉
Catabolized Brain | Tatsuya Mima
掲載『10+1』 No.50 (Tokyo Metabolism 2010/50 Years After 1960) pp.47-49

ニューロエシックスという言葉

日本でも乱用が問題になったリタリンのような精神刺激剤の類似薬が「頭の良くなる薬(スマートドラッグ)」として開発され、仮に副作用がほとんどないとすれば、どう対処すべきか。
嘘発見機を進化させて脳科学技術と組み合わせることで、マインドリーディングが可能となった場合に、司法のなかに利用すべきか。
脳科学技術によって簡単かつ正確に認知症が予測できるようになっても、根本的な治療法が開発されていないとすれば、そうした個人情報をどう扱えばよいのか。

いま、脳科学の研究や応用技術に関わるバイオエシックスはひろく論じられ、目新しい言葉で「ニューロエシックス(Neuroethics)」とよばれることもある。
「ニューロエシシスト(ニューロエシックス研究者)」であるジュディス・イリスによれば、脳や神経を表わすニューロという言葉とエシックス(倫理学)を組み合わせたこの用語そのものは、一九八九年に初出らしい。だが、新しい学問分野として社会的に認知されるようになったのは、二〇〇二年五月一三、一四日にサンフランシスコで、「ニューロエシックス──領域をマップする」というシンポジウムが開かれたことをきっかけとしている。
その仕掛人は、ニューヨークタイムズにコラムなどを執筆する政治ジャーナリストのウィリアム・サファイアだった。シンポジウムの開幕において、彼は次のように参加者に語りかけている。

私の辞書にあるニューロエシックスとは、医療実践と生物学的研究の結果として生じる良いことと悪いことを考察するバイオエシックスのなかの独特の一部門である。しかし、脳科学に関する特別なエシックスは、ほかの臓器に関する研究に比べてきわめて重要だ。扱われているのは、私たちの意識(自分という感覚)であり、それは私たちの存在の中心であるといえる。


もちろん、少しでも新しい現象や問題が現われるたびに、エシックスという言葉に接頭語をつけて新しい学問分野を立ち上げようとしているかに見えかねない姿勢に批判がないわけではない。たとえば、生理学者コリン・ブレイクモアは、男性の性的機能を理解し変化させることに関わる倫理的諸問題を検討する学問として「ファロエシックス(男性生殖器をファルスと呼ぶことからの派生語!)」も今後必要になるかもしれないなどと自嘲気味に述べている。
脳科学における生物医学研究あるいは脳外科・神経内科・精神科などの医療に関わる倫理的諸問題は、バイオエシックスのなかでしばしば論じられてきた議論であって、けして新しいものではない。「脳死」問題や慢性的意識障害状態(いわゆる植物状態)での医療をどう考えるかなどの問題は、その好例だろう。
だが、ニューロエシシストやニューロエシックスに関心をもつ哲学者たちの多くが考えていることはもう少し野心的といってもよく、バイオエシックスとは異なった新しいなにものかへと向けられている。

「脳科学のエシックス」から「エシックスの脳科学」へ

脳科学者マイケル・ガザニガの『脳のなかの倫理──脳倫理学序説』には、こんな一節がある。

これまでのところ、脳神経倫理学における議論もやはり科学者ではない人々が中心になってきた。そろそろ脳神経科学者がこの喧々諤々のなかに飛び込むときだろう。私は脳神経倫理学をこう定義したい──病気、正常、死、生活習慣、生活哲学といった、人々の健康や幸福にかかわる問題を、土台となる脳メカニズムについての知識に基づいて考察する分野であると。


この主張によれば、ニューロエシックスはバイオエシックスのなかの脳科学を対象とする一分野という意味ではなく、むしろ接頭語「ニューロ」の方に重心がある新学問で脳科学の一分野といえる。つまり、これまでは哲学や倫理学で扱われてきた文系の諸問題について、脳科学という理系の立場からアプローチするという趣旨だ。
こうした立場について、哲学者アディナ・ロスキースは論文「新たな千年紀にむけたニューロエシックス」(二〇〇二)のなかで、ニューロエシックスを「脳科学のエシックス」と「エシックスの脳科学」の二つに分類している。
彼女のいう「脳科学のエシックス」はさらに二つに分かれる。ひとつは、実践のエシックスであって、脳科学の研究にかかわる(従来どおりの)バイオエシックスに相当している。これは、インフォームド・コンセントや実験的研究の被験者の人権をどういう仕組みで保護するかということを論じる。もうひとつは、脳科学のエシックス的な含意に関わる研究である。脳科学の飛躍的な進歩が人間の精神や行動に対する理解を深めていくとすれば、それは、再帰的に、社会的価値観やエシックスの考え方や法律制度に大きなインパクトをもたらすだろうという議論である。たしかに、脳科学がエシックスにもたらす影響という視点は、エシックスの諸原理を臨床や研究の現場に適用するという側面の強い従来のバイオエシックスの枠をはみ出ている。
この「脳科学のエシックス」のもつ二番目の側面は、ロスキースの強調する「エシックスの脳科学」と密接に絡んでいる。それは、従来は哲学の領域で考察されていた諸問題、つまり自由意志や自己統御や人格の自己同一性や意図あるいは道徳や倫理を、脳機能という面から科学的に研究することを指している。
そうした研究の例として、しばしば取り上げられるのが、心理学者ジョシュア・グリーンらによる道徳的ジレンマの脳科学研究(二〇〇二)である。

1──マイケル・ガザニガ 『脳のなかの倫理──脳倫理学序説』(紀伊國屋書店、2006)

1──マイケル・ガザニガ
『脳のなかの倫理──脳倫理学序説』(紀伊國屋書店、2006)

暴走トロリーとファットマン

ここでいう道徳的ジレンマとは、ある状況下で行動の選択肢がいくつかあって、そのどれもが道徳的に望ましいとはいえないにもかかわらず、そのなかからひとつを選ばなければならないという状態を意味している。こうしたジレンマに直面した人間は、どちらを選んだにせよ、自分の判断に対して、罪悪感や羞恥心などの道徳的感情を経験する(いわゆる良心の呵責)。
グリーンが脳MRIで行なった実験は、古典的な道徳的ジレンマである「暴走トロリー」という問題を考えているときの脳活動を観察するものだった。それは、こんな設定だ。トロリー列車が暴走しており、その進路上には五人の人間がいる。そのままでは五人がはねられて死んでしまうが、線路の切り替えのレバーを操作すれば、トロリーは別の軌道に入って五人は助かる。しかし、もし切り替えたとすると、その先には一人の人間がいて、その人が犠牲となる。このジレンマでは、レバーを切り替えるかどうかをたずねられた人々の多くは、進路を切り替えて、五人を助けるために一人を犠牲にする功利主義的な判断が適切だと考えたという。
これを変形させた「ファットマン」問題が、次の問いである。今度は、暴走トロリーと五人の間の線路の上に鉄橋があり、そこに自分と太った男(ファットマン)が立っているとする。そして、見知らぬ大きいファットマンを線路上に突き落として犠牲にすれば、トロリーは止まって五人が助かると仮定する。あなたは、そのファットマンを突き落としますか?
一人を犠牲にして五人を助けるほぼ同じ設定であるにもかかわらず、ファットマンを突き落とすことが適切であると考える人はほとんどいない。それだけではなく、「暴走トロリー」問題と比べて「ファットマン」問題を考えている人々の脳では、前頭葉の感情に関わる部分(前頭前野)が強く活動したという。この脳活動パターンは、自分の行動が原因となって人間が直接的に傷つくことに対しては強い道徳的感情が湧くことに対応すると考えられている。いいかえれば、倫理や道徳に関わる判断においては、合理的で理性的な計算(五人対一人)だけではなく、感情が大きな役割を果たしているということになる。

その点から、グリーンは、論文「神経における『である』から、道徳における『べきだ』へ」(二〇〇三)のなかで、道徳や倫理の基礎にあるのは、「客観的な道徳的真理」ではなく、感情的な反応を含めた個々人の価値観や道徳的態度ではないかと示唆している。こうした解釈が妥当なのだとすれば、いまや、特定の原理を絶対視することを否定して、他者の価値観に寛容で多元主義的なリベラリズムの正しさは、脳科学によって客観的に証明されたということになるのだろうか。
肯定するにせよ否定するにせよ、エシックスを脳科学に還元するという企てをどう位置づけるかという問いは、ニューロエシックスをめぐる根本問題だといってもよい。

2──グリーンによる実験結果(2001)

2──グリーンによる実験結果(2001)

ファットマン/イエスマン/ノーマン

もし、道徳的感情が脳という場所に限局された情動という脳活動であるという仮定を認めるならば、「エシックスの脳科学」の実験は、バイオエシックスを問い直す新しい営みとなる。だが、そうではなく、道徳感情が、個人の内面だけに見出されるものではなく、他者との関係性において構築されるプロセス(行為遂行性=Performativity)であるとすれば、エシックスを問題化する際に個人の脳のなかの機能だけをみるというアプローチそのものが的外れとなるだろう。
劇作家ベルトルド・ブレヒトの初期の戯曲『イエスマン』と『ノーマン』は、いわばファットマンの場所に置かれた主体における道徳的ジレンマを扱うことによって、他者との関係性としてのエシックスを再考させてくれる。
能の『谷行』を自由翻案したとされるブレヒトの『イエスマン』は次のような内容だ。ある村で疫病が流行し、その薬を遠くの町まで取りに行くために、困難な山越えをする一行が組織される。疫病に冒された母をもつ少年はその一行に加わるが、山越えの途中で病気となる。こうした場合に少年を連れて引き返す(その場合は村に治療薬を持ち帰るのが遅れる)ことを避けるために、その村のしきたりでは、一行が病人に「引き返さずに置き去りにして進んでもよいかどうか」とたずねて、病人が「イエス」と答えることになっていた。しきたり通りに、少年は「イエス」と答え、置き去りにされるよりも、即座に谷に投げ込まれることを希望する。その希望にしたがって、一行は少年を犠牲にして先へ進む。
対になる戯曲『ノーマン』の背景設定はほぼ似通っているが、病気になった少年は、この場合は「ノー」と答える。彼はしきたりを残酷すぎる慣習として批判し、引き返すことを主張する。その論旨に納得した一行は引き返し、村人に笑われながらも村のしきたりを変えることを提案する。
なんとも奇妙な二つの戯曲であるが、ブレヒトはこの二つを同時に上演することを指示している。そのねらいのひとつは、観客(および俳優)が、演劇を鑑賞することによって受動的に満足するのではなく、その奇妙さに触発されて、集団と個人の価値観の相克について能動的に批判的に考え始めるように仕向けることにあった。ブレヒトは、そうしたプロセスを異化効果(日常的でしきたりとなった事柄を、非日常的なものとしてみせること)と呼んでいる。
私の心のなかに想像された他者としてのファットマンではなく、突き落とす/突き落とさないという決断を下した私の前に立ちはだかり、自らの存在を賭けて、その決断に抵抗/同意する他者であるイエスマン/ノーマン。そんな現実の他者とのせめぎ合いにおいてのみ、エシックスの可能性が開かれるのではないか。そのとき、ニューロエシックスは、ニューロサイエンスでもバイオエシックスでもない何ものかへと生成変化し、脳内ではなく、脳の外あるいは脳と脳の間という場所で生じるできごとの周囲を旋回しつつ、脳を異化する身振りになるだろう。

〈私〉と言うのは脳である、が、〈私〉とは一個の他なるものである。
ドゥルーズ=ガタリ


[了]

>美馬達哉(ミマ・タツヤ)

1966年生
京都大学医学研究科助教(高次脳機能総合研究センター)。臨床脳生理学、医療社会学、医療人類学。

>『10+1』 No.50

特集=Tokyo Metabolism 2010/50 Years After 1960