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「南島」へ/「南島」から(下) | 小原真史
To the South Islands/ From the South Islands (II) | Masashi Kohara
掲載『10+1』 No.50 (Tokyo Metabolism 2010/50 Years After 1960, 2008年03月30日発行) pp.39-43

1

一九七一年一一月一一日、沖縄返還協定批准抗議全島ゼネストの渦中に起きた警官死亡事件を読売新聞が「過激派がめった打ち 警官火ダルマ死ぬ」という見出しと共に報じた。そこに掲載された写真を唯一の証拠として、覆面のデモ隊の中で素顔のまま写り込んでいた松永優という青年が「殺人罪」として不当に逮捕・起訴された。沖縄の施政権が日本に「返還」される約半年前の出来事である。
彼の裁判支援のために当時映像全般における先鋭的な批評で知られていた写真家、中平卓馬が沖縄を訪れることになった。写真それ自体が語るのは「松永優らしき青年が倒れた警官の傍に片足を上げて立っている」という過去形の存在証明だけなのであって、それが警官に暴行を加えている身振りであるのか、火をもみ消そうするものなのかは判別不可能なはずであった(実際は後者であったのであるが)。中平は中立性を装う報道写真が実際は製作者側の恣意的操作下にあり、それ自体は「象徴的ゼロ」であることを訴えながら、写真が〈真〉を写すという映像信仰の幻想について、あるいは断片にすぎぬ写真がそのような全体性を表象しえないことを主張していった。カメラによって切り取られた写真がその機械的正確さによって、いともたやすく国家権力に操作され、流通してしまったことは、写真が写真家の手を離れ、見る者との不確定のコミュニケーションを挑発する媒介たることを希求していた中平のシャッターを押す手を硬直させることになる。
そして「『見る』とは、ただ視覚にとどまるものではなく、みずからの身体をもそこにつつみこまれた全体的な行為」であり、曖昧極まる写真よりも「肉眼の方がはるかに信頼するに足るものだという確信が生まれてきた」とカメラ・アイそれ自体への不信さえ語るなかで、そのような写真の限界を自作のなかで露呈させていった。一九七一年に発表された「言葉」というタイトルの真っ黒のコンタクトプリントと「宮古島保良海岸1974.3.27 10:43A.M.」というキャプションが付された青一色の「青空」★一は、添えられる言葉によっていかようにも変容する写真の可塑性を反映させたものであり、そのような言葉と写真の関係を写真自らが言及するようなメタ写真、つまり「写真についての写真」であったといえる。

2

一九七二年の「復帰」を境に中平卓馬を写真の道に引き入れた東松照明をはじめ、「本土」のカメラマンたちが沖縄を被写体とするために押し寄せ、新聞や雑誌に沖縄に関する記事が載らない日がないほどあまたの注目を集めていた。しかし「写真を撮る者」ではなく「写真を見る者」として沖縄入りした中平は、松永優裁判にかかわることがなければ、決して自ら行かなかったであろうことを告白しており、「沖縄に出会うこと、それは私の存立基盤を根底から揺り動かされるだろうという予感が私にしつようにまといついていた」★二とも書いている。
中平に先立って沖縄を撮影していた東松はそこで「目に見えないモノ」に出会い、そのような領域に対する写真の無力に向き合うことで、写真家としてのアイデンティティを苛烈に問われていた。さらに七三年から移住した宮古島で「ヤマトンチューのカメラは、沖縄を見せ物として晒す。それは差別する者の眼だ」という撮られる側から「イメージの盗賊」たる写真家への異議申し立てを受けた彼は、カメラを持つ自分は一体何者であるのか、あるいは「沖縄のため、ぼくにできることは何か」と自問し、そこから「対象を真正面から見据え、全身を目にして世界と向き合う、見ることに賭ける人間、それが写真家なのだ」と徹頭徹尾見続けるしかない写真家の存在を再定義することによって、改めて写真の可能性を模索していった。東松は沖縄において「目に見えないモノ」や「強靭かつ、広大な精神の領域」に惹かれたが、中平の反応はそれとは違っていた。
『日本読書新聞』に寄せられた「わが肉眼レフ 一九七四・沖縄・夏」には沖縄においてはすべてが「あまりにも鮮明」であり「可視的に存在する」と執拗に「目に見える」という言葉が繰り返されている。眼球を直接射るような光を感じながら中平は次のようにいう。

すべては可視的だ。そして、東シナ海沿岸の海洋博工事による海の破壊、厳(げん)として存在する米日両軍基地。それらも同ように疑いをさしはさむことのできないように可視的に存在する。


「本土」では半ば隠蔽された「占領」がこの地ではおくめんもなく露出しており、「復帰」後も依然として沖縄は「基地の中の沖縄」としてあり続けていた。松永優裁判を機にたびたび沖縄へ足を運ぶようになった中平は、『朝日ジャーナル』誌の連載「解体列島」に「陳列される貧困」「流出する若い労働力」「CTS──収奪される自然と人間」「沖縄──忘れられゆく基地の存在」と題された写真と文章を発表し、「復帰」という急激な“世替り”に晒される沖縄の様子をレポートしている。
沖縄経済の起爆剤とされた海洋博を間近にひかえ、「本土並み」という言葉に彩られた見せかけの近代化によって、「青い海・青い空・白い砂浜」という書割の風景に急速に塗り替えられていった沖縄は、日本の「南島」として、あるいはパスポートのいらないリゾート地として「収奪」「陳列」され始めていた。それは経済振興の名の下に行なわれる大規模な自然破壊と地元産業の解体にほかならなかったが、そのような「復帰」にともなう深刻な社会不安を日米両国によって巧みに演出された観光・沖縄が希釈していった。そして来たるべき海洋博に焦点を合わせていく過程で、まざまざと存在していたはずの軍事基地・沖縄は後景に引いていったのである。
かかる「可視的な危機」は東松照明が沖縄から南へと向かう過程でいつのまにか置き忘れていったものであり、中平が過剰に繰り返した「可視的」という言葉はおそらくそのような身振りへの批判を含んだものであった。「目に見えるもの、疑いをさしはさむことのできぬ赤裸々な現実」★三を素通りし、遥か古代の「原日本」へと越境するのではなく、あくまでも可視的な領域に踏みとどまることで直近の過去、つまり日本近代の射程のなかで沖縄を捉えようとしていたのではないだろうか。なぜなら近代国家として船出した日本が始めに統合(処分)したのが沖縄(琉球)であり、七二年の「復帰」にともなう日本国民化もまぎれもなくその延長線上にあったのであるから。
「復帰」後のこの地で中平の視線の先にあったのは東松が注視した「アメリカニゼーション」ではなく、「アメリカニゼーションを拒み続ける強靭かつ、広大な精神の領域」でもなく、ほかならぬ「本土」による「第三次琉球処分」ともいうべき事態であった。そしてその言葉が「いやおうなくヤマトンチューであるわれわれに耐えがたい沈黙を強いる」と告白している。

これほどの破壊、これほど可視的な危機を前にして沖縄の人々は一体何を考えているのか。沖縄人民の反攻は何故に噴出しないのか? しかしこの問いはあまりにも傍観的な問いであることを私は知っている。われわれは、われわれのステレオタイプ化した思考を彼ら、沖縄の人々におしつけようとする。それは日本独占資本、そしてまたいわゆる「日本左翼」に共通している。これは無惨な逆説である。われわれの発するそのような性急な問いは、沖縄のどまんなかに吸収され、その行方もさだかではない★四。


写真家とは絶えず見られるものの外側に視点を設定するような、中平が自ら「傍観的」といわざるをえない場所に立つ者であった。ファインダーによって、撮影者は常に対象世界から疎外され続けるが、写真装置に内在するその距離が沖縄にあってはそのままヤマトンチューとウチナンチューとの距離でもあった。中平が自らの手段としたカメラは世界を合理化し、秩序化しながら「風景」を創出する近代的な遠近法装置そのものとして露出していた。そしてカメラを構えた瞬間から不可避的に発生してしまうそのような隔たりについて問う中で、写真が撮れない写真家であることを自嘲した中平の口をついたのが「肉眼レフ」という言葉であったのだろう。中平はすぐれて近代主義的なカメラの構造それ自体と苦闘し、「一眼レフ」ではなくせめて自らの「肉眼レフ」で沖縄の現実を注視しようとしていた。
この頃の中平がどこへ行ってもそこに生きる人間や事物の中に溶け込みながら、カメラを身体の一部のようにしてシャッターを切ってしまう木村伊兵衛の「なにげない視線」に惹かれたのも、沖縄でカメラを持ち続けることに疲れ果てていたためであろう。
かつて「風景に向かって火炎瓶を投げつけるような」と評されたような「アレ・ブレ・ボケ」といった中平の写真の特徴は沖縄を被写体とした「解体列島」の紙面では避けられ、スタンダードなルポルタージュという方法が選ばれているのもおそらくこのことと無関係ではない。
ブレたりボケたりした荒々しい映像は自らに敵対するものとして立ち現れてくる「風景」を切り裂き、権力によって一様に塗り込められた「風景」をそのまま表象することを拒否したことの結果であった。それゆえ彼にとってブレてボケた映像が最も「肉眼に近い」ものであり、写真に「リアリティ」を付与するものとしてあったのである。そして中平の苛立ちはこの内面と癒着した「風景」を否定し、乗り越えようとする身振りこそが新たな風景を生み出してしまうというジレンマから来ていた。しかし彼が沖縄において出会ったのはそうした内面性とは無縁の、いかんともしがたい外面性(=可視性)であった。中平がいうように「沖縄の疲弊と解体、沖縄の人々の生活の破局はすべて眼に見え、あらゆるあいまいなものをさしはさむ余地はない」★五のであるから、そこでは「風景」の拒絶という身振りさえもが成立しえない。沖縄はいかなる内面化も許さない他者として可視的に存在していたのである。中平の撮ったNEW KOZAの壁には「ヤンキー帰れ」という文字と共に「大和人の代理支配を許すな!!」「沖縄に真の独立を」と大きく書かれていた。

1──国境・吐噶喇列島(1976) 引用出典=『原点復帰──横浜』(オシリス、2003)

1──国境・吐噶喇列島(1976)
引用出典=『原点復帰──横浜』(オシリス、2003)

2──沖縄(1978) 引用出典=『原点復帰──横浜』(オシリス、2003)

2──沖縄(1978)
引用出典=『原点復帰──横浜』(オシリス、2003)

3

「とりあえずは肉眼レフで」★六という一九七四年に書かれた文章のなかで、中平は以前のように夢中になって写真を撮らなくなり、それよりももっぱら評論やエッセイなどの文章を書く仕事に専念し始めていることを告白しており、その理由のひとつを『来たるべき言葉のために』という最初の写真集が自身の私的イメージを見る者に押しつけるような結果に終わってしまったという敗北感によるのだと語っている。また四角いフレームに切り取られた写真が不可避的に象徴性を帯びてしまうことは、部分を全体として象徴化したことで引き起こされた松永事件を経た彼にとって許容し難いものとしてあった。そして写真家としての立ち位置を厳しく問われる沖縄で疲れ切った中平の「肉眼レフ」を捉えたのは、沖縄戦を経験したであろう老人たちの沈黙であった。

老人達は黙々と彼らの物を売り続ける。彼ら、彼女たちの沈黙は何を語っているのか。あるいは、ウガンジュ(拝所)に座り込む老婆たちの沈黙は何を語っているのか。我々の問いは彼女たちの沈黙に吸い込まれたまま、宙空をさまよう。しかしこうした彼ら、彼女たちが語り始める時、その時こそ沖縄は沖縄としての言葉を持ちはじめるのではないか★七。


たとえ沖縄について語ることが苦痛と沈黙を強いるとしても、彼らのさらなる沈黙を前に、中平はその苦痛を「あえてひきうけることから出発しなければならな」かったのである。
「肉眼レフ」で沖縄の現実を仔細に見つめようとした写真家は再びカメラを手にし、沖縄本島から北上していった。それは日本と沖縄、そこから沖縄と東南アジアの同一性を求めて南下していった東松照明とは南北逆のルートを辿るものであった。一九七六年、奄美諸島を旅した中平は次のように書き記している。

沖縄での体験は、すでに沖縄が文化的にも政治的にも「日本」「本土」とはけっして同質ではないことを私に教えていた。今度、奄美諸島に出かけたのは、これらの島々に日本やまとと沖縄を分割する一本の見えない線を発見できはしないか、という思い込みであった。むろん、一本の線があるわけはない。それらは相互に入り組んだ不可視のゾーン、文化と文化が出会い、侵蝕し合うゾーンであるはずである★八。


「南島」において事物は中平の「思い入れを裏切るように強い日ざしをあびて静まりかえって」おり、訪れる人間に対して無関心にただそこにあった。奄美で撮影された中平の写真からは以前の情緒的なモノクロ写真は影をひそめ、カラー写真への移行がなされている。亜熱帯の圧倒的に可視的な光に突き動かされることにより、「夜の写真家」から「昼の写真家」へと、つまり「あらゆる陰影、またそこにしのびこむ情緒を斥けて成り立つ」★九「事物が事物であることを明確化することだけで成立する」★一〇写真へと向かおうとしているかのように見える。
奄美の島々では、死は生の近くにあった。時代を異にする多くの墓は廃墟のごとく自然の中に溶解しており、その形式は琉球文化とも「本土」文化からもはみ出した「文化の混交」であったと中平はいう。

4

一九七七年、中平は奄美のさらに北にあたる吐噶喇とから列島へと向かい「国境 吐噶喇列島──無人化する島々」と「大和南限」という写真と文章を発表している。標題からもわかるとおり、沖縄本島から「北島」へと向かう過程で沖縄と「大和」の接点にあたる知覚困難な境界を見ようとしていた。それは沖縄の北限=「大和」の南限にあたり、二つの文化を分かちながらもいずれでもないもの、つまり沖縄と「大和」との間に存在する接続詞の「と」にあたるような境界を探る旅であった。
吐噶喇列島のいくつかの島はすでに無人化しつつあり、人間の痕跡は廃墟の中に消えようとしていた。シケのため一週間以上閉じ込められた口之島で聞いた磯節のリズムが、かつて父親の故郷で幼い頃耳にした「本土」のものと寸分違わぬものであったという中平は、中之島─口之島という吐噶喇列島のわずかな海路が「ヤマト─琉球・奄美文化をへだてる境界線になっているかもしれない」★一一と書き記しており、視覚だけでなく、聴覚や記憶すべてを動員して「見えない境界線」の痕跡を補足しようとしていた。
「原日本」という想像的なもの(=「見えないモノ」)を介して「ヤマト」と沖縄を接続しようとした岡本太郎や東松照明に対して、中平は同一化不可能な差異を見出しに沖縄から北上したといえるだろう。つまり「ヤマト」と沖縄とを「日本」と「原日本」という同一性の枠内における差異として回収するような言説に対して、中平は「可視的」という言葉を対置したのである。かつて沖縄との出会いが自らの存立基盤を根底から揺り動かすであろう予感が語られていたが、岡本や東松が沖縄で出会ったような「目に見えないモノ」は中平にとって容易には受け入れ難いものであったはずであるし、そのような存在を自然に受け入れる沖縄の風土は彼を動揺させたにちがいない。そして自らが同一化できない、全き他者としての沖縄との出会いこそが、彼を「琉球・奄美」と「ヤマト」文化の境界へと導いたのではなかったろうか。おそらく中平は見えないがたしかに存在するような境界を、歴史の中で不可視化された「国境」を顕在化させようとしていた。吐噶喇列島の臥蛇島がじやじまを舞台にした谷川雁のエッセー「びろう樹の下の死時計」は中平の眼をこれらの島々に向けさせたもののひとつであったが、そこには次のように書かれていた。

私は何物かをほろぼさねばならないと決意した。それは何であるか。私たちが勝手に作りあげてきた時計であるか。わたしはいささかもそのような進歩の日時計を信じてこなかった。にもかかわらず、その死と同時にちくたくと刻みはじめる時計があったなら……私はそれで彼等の優しい寡黙を測ってみたい。おそらく彼等の体内にはそのような時計の幾百が微かな音を震わせており、そのためにあのびろう樹の下の時計は、まるで死んだひとでのようにじっと動かないのだ★一二。


「進歩の日時計」を滅ぼし、びろう樹の下に深く埋もれた死時計を稼動させること。それは近代において綴られてきた歴史の連続性とは別の時間を廃墟の中から呼び起こすことである。中平が試みたのは「かつてあった」ではなく、「すでにない」のでもなく、「ありえたかもしれない」という仮定法過去形における「国境」を、虚実のはざまにある写真によって現実へと回帰させることであった。

カメラによって切り取られた虚構の現実がもとの文化の文脈での現実、つまりわれわれがその中で生き、疑うこともない現実にひとつの拭いさることのできない疑問符をつきつける写真。こうして現実を相対化させ、願わくば現実そのものを反対に虚構化してしまう写真。そんな写真を私は夢想する★一三。


「虚構の現実」である写真が単線的な時間軸と均質な空間によって統合されてきた近代国家・日本という現実に不断の再考を要請し、歴史の線形性を撹乱する。それは未完に終わった過去の可能性の追求であり、現在の専制を異化しうるかもしれない。
中平が沖縄の島々から聴こうとした声なき声は、抑圧され、忘却された過去からの残響であり、そのような沈黙の声をカメラを通して反響させる者こそが中平の想定した写真家の姿だったのではないだろうか。忘却の淵に放置され、沈黙したまま過去の暗がりの中で眠っているネガのような時間が、回帰を遂げて現在へと参入すべく導き、ポジ像へと反転させる……。中平が虚実のはざまに、あるいは「沖縄」と「ヤマト」のはざまに見出そうとした「国境」とはおそらくそのようなものであった。『決闘写真論』には次のようにある。

私ではなく、世界が語り始めるその瞬間をいかに組織するか、それがたったひとつの写真家の仕事である。世界が、事物がみずから喋りはじめるその水路を切り開いてやること、盲目の世界、唖の世界に眼をあたえ、口をあたえること、それが写真家の仕事である。
私が視線による世界の、事物の工作者オルガナイザーというのは、そのような意味である★一四。


主観の側ではなく、あくまで世界をしておのずから語りださせる「工作者」としての写真家。『決闘写真論』ではこのような「工作者宣言」(谷川雁)がなされるのであるが、「これ以上書き続けるのはやめにしよう」と写真へと帰る中平の決意表明によって終えられている。
写真を撮ることから遠ざかっていた中平は写真とは何か、写真家とは誰かを言葉によって問う中で、写真家に舞い戻るための推進力を得ようとしていたはずであった。しかし一九七七年、急性アルコール中毒で倒れ、記憶と言葉の大部分を失うことになる。

確かに一九七七年に記憶を失った私の沖縄は、一九七〇年で止まり、私、その固定観念にこだわっているのかもしれない。だが、私、あえて自ら引き受けざるを得ない問題を引きずりつつ、二〇〇二年に沖縄に行って撮影し抜くことを考え始めた。沖縄県人なのか、琉球人なのか!そして、“琉球”はもうなくなり、沖縄は日本最南端の一地方になってしまったのか。その一点を考え始め、私、カメラを持って沖縄に出発します!★一五


沖縄本島から奄美、吐喇と北上し、精力的に写真を撮影し始めていた頃から約三〇年後の言葉である。記憶の大部分を失ってなお中平は写真家であり続け、倒れる直前に発した問いを未だ手放さずにいる。それはその記憶が七〇年代で止まっているだけなのか、あるいは沖縄の「可視的」な危機が依然として存在し続けているからなのだろうか。いずれにせよこの地が今なお中平卓馬の眼を捉えて離さないことだけは確かである。[了]

3──中平卓馬+篠山紀信  『決闘写真論』 (朝日新聞社、1995)

3──中平卓馬+篠山紀信
 『決闘写真論』
(朝日新聞社、1995)


★一──一九七四年、シミズ画廊で行なわれた『写真についての写真』展で発表された。
★二──中平卓馬「わが肉眼レフ──一九七四・沖縄・夏」(『日本読書新聞』一九七四年九月九日号)。
★三──同。
★四──同。
★五──中平卓馬「解体列島一六 CTS──収奪される自然と人間」(『朝日ジャーナル』一九七四年七月五日号)。
★六──中平卓馬「とりあえずは肉眼レフで」(『近代美術館ニュース──現代の眼』一九七四年九月九日号)。
★七──中平卓馬「わが肉眼レフ──一九七四・沖縄・夏」。
★八──中平卓馬「奄美──波と墓と花、そして太陽」(『アサヒカメラ』一九七六年二月号)。
★九──中平卓馬『なぜ植物図鑑か』(晶文社、一九七三、三一頁)。
★一〇──同、三二頁。
★一一──中平卓馬「大和南限」(『流動』一九七七年三月号)。
★一二──谷川雁『工作者宣言』(現代思潮社、一九六三、一七〇頁)。
★一三──篠山紀信+中平卓馬『決闘写真論』(朝日新聞社、一九七七、二四九頁)。
★一四──同、二二四頁。
★一五──「フォトネシア/光の記憶・時の果実──復帰三〇年の波動」展(二〇〇二)カタログより。


この論考は以下の対談を基にしている。
photographers’ gallery講座「再読・中平卓馬」小原真史+倉石信乃+北島敬三(『photographers’ gallery press』No.6所収)

>小原真史(コハラマサシ)

1978年生
東京藝術大学先端芸術表現科教育研究助手/東京ビジュアルアーツ非常勤講師。

>『10+1』 No.50

特集=Tokyo Metabolism 2010/50 Years After 1960

>倉石信乃(クライシ・シノ)

1963年 -
明治大学大学院理工学研究科新領域創造専攻ディジタルコンテンツ系准教授/近現代美術史・写真史。明治大学大学院理工学研究科。