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こころに入り込んだメス | 美馬達哉
The Knife Entering the Psyche | Tatsuya Mima
掲載『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) pp.69-71

一九三五年、ロンドンでの第二回国際神経学会議にて、脳破壊による動物実験の発表の直後、会場にいた六一歳のある医師が立ち上がって発言を求めた。

外科的なやり方で人間のこころの不安を取り除いたって構わんじゃないか?


会場から声をあげたのは、ポルトガルの医師アントニオ・エガス・モニス。
「精神外科(psychosurgery)」と呼ばれる手術法を創始した彼は、一九四九年に「ある種の精神疾患に対する前頭前野白質切断術(ロイコトミー)の治療的意義の発見」の成果によりノーベル賞を受賞する。psycheはギリシャ語での「こころ」、surgeryは外科だから、直訳すると「こころの外科」だ。
腹部外科、胸部外科、脳外科、あるいは肝臓外科はあっても、精神外科とは奇妙な言葉だ。臓器として手で触れることのできないこころにどうやってメスを入れるというのか。精神外科で使うメスは、もちろん他の外科手術同様の金属製だ。ただ、外科手術の対象となるのが、身体疾患ではなく精神疾患である点が異なっている。当初の定義であれば、精神外科とは「重度で他に治療手段のない精神疾患の症状の軽減のために、脳の一部を外科的に破壊すること」だった。そのため、後には精神医学的外科(psychiatric surgery)と呼ばれたこともある。
メスを入れる場所が脳という点は脳外科と同じだ。しかし、脳外科での手術対象となる脳が、がんや出血や梗塞や外傷のように病理学的に異常であるのとは対照的に、精神外科において行なわれたのは、当時では、他の脳の部分と区別がつかないで正常にみえる脳組織に対して外科的侵襲を加えることだった(なお、当時もいまも、てんかんやパーキンソン病や慢性痛に対しても脳の手術が行なわれるが、これらは精神疾患ではないため、精神外科とは呼ばれない)。代表的な手術法は、ロボトミーやロイコトミーと呼ばれている。
また、精神外科の流れを汲む医療として、精神疾患の治療の目的で、辺縁系という情動に関連する部位(解剖学的には脳の一部の扁桃核や帯状回など)を対象として、脳CTやMRIを利用してターゲットを絞った手術法(定位脳手術)やペースメーカーのような器具で脳刺激を行なう治療法が、医療倫理面や副作用に注意を払ったうえで現在でも一部では行なわれている。

さて、モニスが注目したサルの実験とは、C・ジェイコブセンとJ・フルトンによるもので、前頭前野(前頭葉の一部)を脳手術で破壊したサルやチンパンジーには、問題解決能力の障害が生じるという発表内容だった。ただ、その発表のなかでモニスを興奮させたのは、発表そのものではなく、粗暴で興奮しやすかった一頭のチンパンジーが脳手術後に穏和になったというひとつのエピソードだった。
会議から数カ月後の一一月一二日、モニスは最初の患者に対して「精神外科」手術を行なった(最初はメスではなく、前頭葉に注射器でアルコールを注入して組織を破壊した)。強度のうつ状態の六三歳の女性で、梅毒にも罹患しており、セックスワークに従事していたという。モニスの論文では、精神外科手術を行なった二〇名の患者で、この患者も含めて一四名の手術は成功して症状の改善や治癒があったと記されている。ただし、手術後の長期的な経過観察は行なわれておらず、手術者自身による評価はバイアスがかかるという批判もある。また、無治療でもうつ状態が(一時的であっても)自然治癒する率は高いという点も指摘されている。精神外科手術自体に一・五─六パーセント程度の死亡率の副作用があることも後には明らかになっている。それ以外にも、てんかん、知能低下、失禁など多くの副作用が報告されている。
効果判定や副作用の問題のために、精神外科は医学的治療としての意義を現在では否定されている。だが、それ以外にも問題視されたことが二点あった。ひとつは、動物実験からも予測できるように、脳手術が精神疾患治療だけでなく、その患者の人格そのものを変える(あるいは破壊する)ことにつながるのではないかという懸念である。もうひとつは、精神外科が、「破壊による治療」つまり正常な脳を傷つけることによって病気を治療するという手法だった点である。
「なにはともあれ、危害を加えるべからず(primum non nocere)」は、生命倫理や医療倫理の基本原則のひとつ(無危害原理)とされている。この考え方からすれば、精神疾患は脳の器質的異常に由来するという(証明されていない)仮説に基づいて、効果も不明確な精神外科手術を行なって、正常な脳を不可逆的に傷つけてしまうことは倫理的に許されない。実際、たとえば、うつ状態については、現在支配的な精神医学学説では、脳の器質的異常よりも神経伝達物質という脳機能異常が重要であると信じられているし、また、ある種の精神療法の有効性が科学的にも確認されている。当時にしても、精神分析をはじめとした精神療法的な手法が広く行なわれ始めた時期であって、精神疾患の原因を脳の器質的異常のみに求める説だけが有力だったわけではない。

では、なぜ、いまでは医学的に間違っていただけでなく「人格を破壊する」倫理的に邪悪な手術として歴史のなかに封印されてしまった精神外科が、当時は最先端の生理学的知識に基づいて、精神疾患を治癒させることのできる医学的福音として華々しく登場したのだろうか。精神外科による精神疾患の治療は、またたく間に全世界へと普及し、その頂点がモニスのノーベル賞受賞だった。
精神外科が受け入れられた背景としては複数の要因がある。ひとつは、当時は、重度の精神疾患に対する他の治療法があまりなかった点である。現在の抗精神病薬の最初のものであるクロルプロマジンが実用化されるのは一九五〇年代半ばで、薬物療法の導入後には、精神外科は激減している。もうひとつは、米国のウォルター・ジャック・フリーマン医師らによって、簡単な手術法(経眼窩的ロボトミー=眼の奥からアイスピックのような器具を脳底部につっこんで前頭葉を破壊した)が開発され、ときには日帰り手術さえ可能になったことであった。
フリーマンは、三〇〇〇─四〇〇〇人の精神外科手術を行なったとされ、批判者からは「脳切りジャック」などと揶揄されている。彼によれば、標準的なロボトミー手術後の患者の状態は次のように描かれている(一九四四)。

もっとも顕著な特徴は自己意識の欠如であり、自分の態度を表現するときに子供じみた様子を示す。自分自身についてのことを真面目に受け取っていない。侮辱されたと思うことはなく、誰になんと言われようと反撃しない。何でもないことで笑い、ちょっとしたことや不満で急に怒り出す。可能な限り、快になることを楽しみ、人生での嫌なことを避けようとする。内省しようという欲求をほぼ完全に取り除くことによって、人生は驚くほど単純なものになる。基本的知能は保たれ、計画能力はあるが、洞察力は直接的で、決断は唐突で、物事を受け入れる点では現実的で、情動反応は生き生きしているが、表層的で深みに欠ける。


手術を成功と自負し、治療効果に対して信念をもっている医師たちによる記載であるにもかかわらず、手術を受けた人びとの精神に「無危害」とはいえない結果を生じていることは明らかだろう。
さて、「人格を破壊する」あるいは「生命の輝きを失わせる」という点は、たしかに、精神外科批判の大きな論点となっていた。だが、批判者が精神外科の非人道性を強調しようとする意図からにせよ、手術後の状態をあたかも「廃人」であるかのように描写する場合があったことにも問題がある。もし、人間の尊厳という言葉に意味があるとすれば、それは脳に傷つけられた人間の尊厳をも含んでいなければならない。手術後の人びとを一方的に「廃人」と見なす感性は、人間の尊厳を序列化している点において、重度の精神疾患患者に対して無危害とはいえない精神外科手術を安易に行なった医師たちの発想と通じ合う。

一九六〇─七〇年代当時の巨大精神病院の非人間性を描いた映画『カッコーの巣の上で』(ミロシュ・フォアマン監督、一九七五)において、収監を逃れるために精神疾患を装って入院させられた主人公マクマーフィ(ジャック・ニコルソン)は、批判精神旺盛に精神病院のなかをかき回し、入院者たちを彼なりのやり方で元気づける。だが、病院スタッフとのトラブルがもとで、精神外科手術を受けさせられたマクマーフィは、無気力な寝たきりのような状態となって、もとの病棟へと戻ってくる。その姿を見た友人の「チーフ」(というあだ名の入院者)は、マクマーフィを窒息死させ、精神病院から脱走する。
しかし、ここで考えてみたいのは、映画の結末とは違うもうひとつのシナリオ、すなわちマックマーフィが精神外科手術後も「廃人」として「慈悲殺」されることなく生き延びていたら、という可能性だ。
一九六〇年、一二歳のときにフリーマン医師によるロボトミー手術を受けたホワード・ダリーの自伝は、そんなことを感じさせてくれる一冊だ(Howard Dully and C. Fleming, My Lobotomy: A Memoir, Crown, 2007.)。自伝のもとになった二〇〇五年に放送されたラジオインタヴューで、現在では結婚して息子もいるという彼はこう語る。

奇跡なのかもしれないが、ロボトミーを受けたからといって、私はゾンビになったわけでもなく、精神を破壊されたわけでもなく、殺されてもいない。


そう、どんなに鋭利なメスでも、人間のこころのすべてを切り刻むことはできない。こころの棲まう場所は脳ではない、少なくとも脳だけではなく、その人をとりまく社会的諸関係でもあるのだ。
現在、脳科学の進歩による脳コントロール技術の応用の可能性は問題視され、「脳神経倫理(ニューロエシックス)」などという新語まで現われている。そんな倫理的議論のひとつの淵源となったのが精神外科論争だった。その当事者の肉声が現われつつあるいま、SF的に脳科学の未来を論じる前に、再びその議論をたどり直してみる必要があるのではないか。
過去の過ちを忘れる者は、同じ過ちを繰り返すのだから。

1──「アイスピック」を使った 経眼窩的ロボトミーの手法

1──「アイスピック」を使った
経眼窩的ロボトミーの手法

2──Howard Dully and  C. Fleming, My Lobotomy:  A Memoir, Crown, 2007.

2──Howard Dully and
 C. Fleming,
My Lobotomy:
 A Memoir, Crown, 2007.

>美馬達哉(ミマ・タツヤ)

1966年生
京都大学医学研究科助教(高次脳機能総合研究センター)。臨床脳生理学、医療社会学、医療人類学。

>『10+1』 No.49

特集=現代建築・都市問答集32