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「ゲーム」について | 木村覚
Games | Satoru Kimura
掲載『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32, 2007年12月25日発行) pp.61-63

ゲーム化した即興演奏

結成一年で、今秋開催されている「六本木クロッシング二〇〇七:未来への脈動」展に招聘されるなど★一、瞬く間に音楽界内外問わず注目を浴びる存在となったd.v.dは、三人組のバンドである。バンドと言っても、演奏者はドラマーが二人のみ。もう一人はヴィジュアルの制作と操作を担当という相当変わった編成。ドラム、ヴィジュアル、ドラムの名のとおり、舞台上では、スクリーン(ヴィジュアル)を挟んで二台のドラムがセットされている[図1]。
なぜそのような変則的な編成なのか。理由は、彼らが音楽をプレイすると同時にゲームをプレイするからなのである。ゲームのプレイが結果として音楽のプレイになっている、と言うべきか。ピンボールやテニスのような最初期のテレビゲームに似た画像の映るシンプルでカラフルなスクリーンに目をやりながら、二人のドラマーがコントローラーと化したドラムを叩き、対戦をする。演奏者はゲームのプレイヤーを演じ、戦いの最中に鳴らされた音が音楽となる。そう、ここに起きているのは、音楽×ゲームという、あるいは聴覚×視覚という異種交配であり、その結果立ち現われたのは、ゲームというストラクチャーをともなった豊かで画期的な即興演奏の姿なのである。
三月にはじめて彼らのパフォーマンスを見た。とても印象的だったのは、演奏者の様子だった。失敗が許されない演奏というものにつきものの緊張感は希薄で、コントロールミスに苦笑いを見せるなどリラックスしている演奏者に、いままで見たことのない種類のパフォーマーの身体を見た気がした。
それを可能にしたのは、ゲームというストラクチャーに違いない。目を瞑り内側から吹き出してくるなにかを捕まえようとしているような即興演奏の通俗的なイメージとは異なり、ゲームという外側からの拘束があることによって、演奏は、観客にとっても演奏者本人にとってもオープンなものとなっている。それによって演奏者は、過度に内向的な存在になることから免れているのである。

ゲームの争点は、客体に主体の存在と表象を刻印するかわりに、客体が主体の不在と消滅の場となるようにすることができるかどうか、にある★二。


ボードリヤールがこう言うように、ゲームのスクリーンを注視する二人のドラマーは、その客体(スクリーン)の前で、表現する主体としての存在を消滅してしまっているだろう★三。それでいいのだ。主体なるものが舞台上で顕現しなくとも、即興演奏は立派に成立しているのである。

1──d.v.dのパフォーマンス(2007.5.4@UNIT) 撮影=Emiko Morizaki

1──d.v.dのパフォーマンス(2007.5.4@UNIT)
撮影=Emiko Morizaki

ゲームとタスクの違い

ゲームはプレイヤーを外側から拘束する。その意味においてゲームはタスクの一種ではある。ジョン・ケージがチャンス・オペレーションの作品に関して言うのに似て、タスクとしてのパフォーマンスの特徴は、プレイヤーが自らを演奏の中心に置けない状態にするところにある。

《易の音楽》の場合、演奏家の機能は、建築家の青写真にしたがって建物を建設する請負業者のようなものである。《易の音楽》がチャンス・オペレーションで作曲されたことによって、作曲家はたまたま起こる事態と一体化した。しかしその記譜があらゆる点で確定していたために、演奏家にはそのような一体化が許されない。(…中略…)演奏者は、みずからを中心において演奏することが出来ず、書かれたままの作品の中心とできるかぎり一体化しなくてはならないのである★四。


そして、同様の意味をこめてケージは、より端的にここでの「楽器奏者の機能は、ただ命じられたままに働く労働者のようなものだ」★五と、やや批判をこめて述べているのである。
前回「『タスク』について」で述べたように、タスクはダンスからダンサーの自己表現の要素を抜き取るのには貢献する一方で、指令をただ遂行するだけであるがために、不確定的な要素を乏しくする点がある。それは、タスクライクなパフォーマンスの限界が露見するポイントかもしれない。
確かに、ここでケージが問題にしているのは、スコアの確定性の程度が、演奏者に与える影響である。偶然を志向する作曲法であっても、それが演奏者にとって確定的である限り、演奏者はその指示を黙々とこなす「労働者」以上の存在にはなりえない。融通無礙の状態を理想とするケージとしては、演奏者が偶々起こった出来事に心をさし向けられるように、不確定性が作曲のなかに組み込まれていなければならない。
確定性と不確定性の違い。これは、非ゲーム的なタスク(狭義のタスク)とゲーム的なタスク(ゲーム)の違いを明らかにするのに有効なポイントとなろう。プレイヤーがルールに従う点ではゲームもタスクである。ただし、ルールがゲーム性を帯びるためには、不確定な要素がなければならない。課題を実行する/しないというだけではなくどう実行するのかを問うことのできる自由裁量の余地が、あるいはインタラクティヴな状態がなければならないのである。たまたまくだされる一回ごとの判断が次の状況を生み、そこから新たな課題が浮上すれば、その都度、機転をもって応答する。サッカーなどプレイヤーの自由度が高い対戦型のスポーツのように、あるいはチェスや将棋のように、インタラクティヴな要素を含んだ不確定性がプレイのゲーム化、バトル化に向けて用意されていることで、d.v.dのドラマー二人は、内向的ではない即興の可能性を手に入れたわけである。
敵の行動だけが不確定性を与えるわけではない。例えば、サッカーを見ていると、味方からのパスにどう脚を合わせ受ける(シュートする)か、ドリブルからどうシュートに移るかは、蹴るばかりか走る道具でもある二本の脚をどう目下の状況に調和させるかという点に成否のかかっているのがわかる。踏み出した一歩が次の一歩の可能性を規定する。「テトリス」的と言おうか、こうした不確定の要素に、サッカーのゲーム性は潜んでいる。そして、こうした性格こそ、ゲームのゲーム性を示す重要なポイントに違いあるまい。

「ゲーム」としてのダンス──トリシャ・ブラウンの試み

ゲームに不確定性は必須である。とはいえ、なにも確定されていなければ、ゲームは成立しない。ゲームが充実するか否かは、ストラクチャーによってプレイヤーをどうやってどの程度コントロールするかにかかっている。
ジャドソン・ダンス・シアターのメンバーだったトリシャ・ブラウンは、ダンスの分野でこうした問題に取り組んだ数少ない振付家である。ブラウンは、一九六〇年頃、他のジャドソン派の人たちと同様、ケージの知人であったロバート・ダンのワークショップに参加し、作曲に関するケージのアイディアを受容していた。ブラウンは実験を繰り返した当時をこうふり返っている。

なんでもありという偉大なる未知にコントロールの一貫性と尺度を課すため、私たちは構造(「ルール・ゲームズ」としても知られる)を開発した★六 。


ダンスにおける即興性に興味をもっていたブラウンは、賢明にも、踊る主観の内発性を頼みにするだけでは即興の時間は混沌に陥るだけであることを自覚していた。そこで腐心したのは即興のためにストラクチャーをどう設定するかという点だった。ブラウンはそうして生まれた作品を「構造化された即興(ストラクチャード・インプロヴィゼイション)」と呼んだ。
ブラウンが発案したストラクチャーの例を挙げてみよう。《フォーリング・デュエット》(一九六八)は、横並びで歩き回る二人のダンサーの一人が不意に倒れ、もう一人がそれに気づいて抱える。それを繰り返すというストラクチャー。《リーニング・デュエッツ》(一九七〇)も二人一組、手を繋いで真っ直ぐ伸ばし互いの足の内側をくっつけもたれ合うと、紐で縛らない二人三脚といった外見で前に進む[図2]。また《ストラクチャード・ピーシズII》(一九七四)では、複数のダンサーが仰向けに寝て縦に並ぶと、身長丈の棒を各自もってその両端を頭と足の位置にいるダンサーの棒とそれぞれ接触させる。接触した状態を保ちながら、体を移動させる。
どのストラクチャーもいたってシンプルである。ただしその課題は、プレイヤーにとって必ずしも易しくはない。なぜなら、相手とのインタラクティヴな状況が設定されているからである。そしてそのことが、ダンスがゲームとなる条件となっている。
なかでもその名も《ルールゲーム5》(一九六四)は、インタラクティヴなルール設定によるゲーム作品である。床に七本のラインが引いてあり、ラインを跨ぐごとに、直立した姿勢を徐々に合計七回屈めていくというのが、ここでのゲームである。このゲームに他者は介在しない。とはいえ、手前で決めた高さが次の高さの制約となる点に、インタラクティヴな性格が現われていよう。例えば、あまりに急激に一回に屈むと残りのライン以降がきつくなるのである。その都度とった判断が次の判断に響いてくる。そうしたゲーム的ストラクチャーによって、プロセス(即興)の渦中にある身体のありさまが観客の前に引き出されてくるのである。
観客は、ゲームに身体を委ねたダンサーたちを、というかプレイヤーたちをここに見たことだろう。内面を表現する、あるいは身に付けた技巧を披露しようとする所謂「ダンサー」なるものはここにいない。ここでも、ゲームは主体の存在を消滅させるのである。ブラウンが試みたゲーム化するダンスは、そのために非ダンスと呼ばれることとなった。
とはいえ「ストラクチャード・インプロヴィゼイション」の発想は、七〇年代に、ブラウンのダンス仲間スティーブ・パクストンによって、コンタクト・インプロヴィゼイションとして展開し、今日までそのブームは続いている。パートナーとの身体的な接触を次の動作のきっかけにし、そうした受動と能動の連鎖を延々と続けていく即興。なるほど、それは確かにゲームのスリルを持ってはいる。ただし、d.v.dが生み出してしまった、プレイヤーのみならず観客を含めたすべての人間が共有するプレイフル・グラウンド(=スクリーン)は、コンタクト・インプロヴィゼイションにはない。ダンスの分野でこれに近似しているものを挙げるとすれば、DDR(ダンスダンスレボリューション)のスクロールする画面だろう。
しかし、そこに流れる矢印は、ダンサー(プレイヤー)にインタラクティヴなゲームを与えているとは言えない、それは「ここでこの位置を踏め」とシンプルなタスクを課すだけである。d.v.dのジョイフルなゲーム演奏が、そこに示された主体の出現なく駆動する身体が、そしてそれを生み出すスクリーンとそこに映るゲームが、ダンスのシーンにそしてまた他のさまざまな分野に波及して、無数の固定概念を破壊し、それによって今後新たな状況が切り開かれていくのかどうか? そのスタートボタンはまだ押されていない。

2──トリシャ・ブラウン《リーニング・デュエッツ》 引用出典=Roland Aeschlimann ed.,  Trisha Brown: Dance and Art in Dialogue,  1961-2001, MIT Press, 2002.

2──トリシャ・ブラウン《リーニング・デュエッツ》
引用出典=Roland Aeschlimann ed.,
 Trisha Brown: Dance and Art in Dialogue,
1961-2001, MIT Press, 2002.


★一──会場では、鑑賞者が演奏=ゲームを体験できる展示になっていた。
★二──ジャン・ボードリヤール『消滅の技法』(梅宮典子訳、PARCO出版、一九九七)二〇頁。
★三──d.v.dのさらに巧妙なアイディアとして無視できないのは、曲の前半に行なわれていたゲーム=演奏が後半からいわゆる純粋な演奏へ変貌するところ、即興と曲の演奏とが相殺することなくむしろ相乗効果をともなってなだらかに繋がっていくところである。
★四──ジョン・ケージ「プロセスとしての作曲2:不確定性」(『サイレンス』水声社、一九九六、 七二頁)。
★五──前掲書、七三頁。
★六──トリシャ・ブラウン「空が限界であるとき、いかにしてモダン・ダンスを作るのか」(『トリシャ・ブラウン──思考というモーション』中井悠訳、ときの忘れもの、二〇〇六、七一頁)。

>木村覚(キムラ・サトル)

1971年生
日本女子大学専任講師。美学、パフォーマンス批評。

>『10+1』 No.49

特集=現代建築・都市問答集32