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戦場にて | 美馬達哉
On The Battlefield | Tatsuya Mima
掲載『10+1』 No.48 (アルゴリズム的思考と建築) pp.56-58

第二次世界大戦末期、敗色の濃くなり始めたドイツ軍と士気あがる連合軍の対峙する北アフリカ戦線。連合軍のもとに、米国からの軍事重要物資として細菌感染症への特効薬である抗生物質ペニシリンが届けられた。そのころ、欧州や中東に比べて医療環境が貧困だった北アフリカでは、治療のためのベッド数は十分ではなく、傷病兵で病院はあふれかえっていたという。そこに到着した画期的な新治療を最初に受けることができたのは、果たしてどんな人々だったろうか。
皮肉なことに、貴重なペニシリンによる治療が優先して行なわれたのは、戦闘によって名誉の負傷を受けた兵士たちではなく、街中で性病(主として淋病)に感染して入院していた兵士たちに対してだった。
一見すると奇妙とも感じられるこの選択は、戦場という場所においては、冷酷ではあっても合理的で正しいものである。戦争での勝利を第一の目標とする限り、できるだけ多くの戦闘員をできるだけ早く前線に戻すことが、軍医たちの任務だった。骨折やひどい外傷を負った傷病兵は、たとえペニシリンによる治療を受けて感染による悪化を防ぐことができたとしても、傷が癒えて戦闘に復帰するには長期間を必要とする。一方、淋病であれば、ペニシリンの筋肉注射で尿道炎の痛みや膿はすばやく改善し、数日のうちに退院して戦線へと復帰することができた。したがって、なによりも軍事的な勝利を優先する状況のもとでは、重症患者よりも軽症患者を優先して治療するという判断が下されたということだ。
これは、医療倫理学の大御所のひとりであるハーヴァード大学の麻酔科教授ヘンリー・ビーチャーが、その著書『研究と個人』(一九七〇)のなかで印象的に描き出している例である。ビーチャーはこれを「状況倫理」の例としてあげ、もし通常の病院のなかで行なわれたとすれば不適切であろうが、軍事的敗北が全員の死につながりかねない戦場という場所においては不公正とはいえない選択だったのではないか、と指摘している。

稀少な医療資源をどう分配するべきか、という問いは、バイオエシックス、なかでも医療倫理が論じられるときの定番のひとつだ。そして、こうした問題が語られる際には、正義の原理つまり、公正さや分配の平等性に関する哲学的な議論のなかに位置づけられることが多い。
しかし、ここでは、抽象的で普遍的な正義の原理へと結びつけるのとは少し異なったやり方で、ペニシリンの分配という問題に光を当ててみたいと思う。それは、バイオエシックスを、ある特定の時代の特定の状況すなわち「場所」から眺めてみることだ。体系化され制度化されたマニュアル的学問としてのバイオエシックスを「学び捨てる(unlearning)」ことによって、バイオエシックスの事例として語られてきたことがらを、具体的な場所のなかに位置づけ、ひとつの「状況づけられた知」として理解するために。

ペニシリンによる治療の優先順位という例は、バイオエシックスでの正義に関する議論では、「功利主義」として語られる。つまり、医療資源が稀少であるときには、たんに平等に分配したり、もっとも治療を必要としている重症者から順に分配したりするのではなく、もっとも治療の有効性が高い患者に優先的に分配することで、結果として得られる有効性を最大限にすることを目標とするという考え方だ。ただし、この最大にすべき結果が、戦場においては、生命や人間の尊厳とはいえない戦闘能力の維持と増強であったことが、さきの例では問題となるところだ。
ここで興味深いのは、ペニシリンをめぐっては、優先順位の決定や分配という政治的問題が、バイオエシックスでよく取り上げられる臨床の現場での意志決定としてだけではなく、さまざまに現われていることである。
戦場という場所での傷病兵たちに対するペニシリンの分配とは異なるもうひとつの分配問題とは、交戦国の内部での戦場と銃後という場所の差異に関わっている。すなわち、戦時下での限られた有用物資を軍需と民生用に配分する政治的正当性という問題である。
この戦場と銃後という問題設定を理解するために、ペニシリンの発見から量産化への研究開発の歴史を簡単にたどってみよう。第二次世界大戦下の米国で行なわれたペニシリン量産化は、原子爆弾開発のマンハッタン計画と並んで、国家主導の巨大科学技術プロジェクトの時代を誇らかに示す象徴的な出来事だった。その研究開発は、医学者の個人的な才能と努力によって成し遂げられたのではなく、米国の国家意志として計画的に行なわれた総動員体制によって可能となったからだ。
ペニシリンは、一九二八年に英国のアレキサンダー・フレミングによって、青カビに含まれる抗菌作用をもつ物質として発見された。だが、この発見が臨床に役立つとわかったのは一〇年以上たった一九四一年、英国の医師ハワード・フローリーらが人間の感染症の治療に用いて成果をあげたときだった。このペニシリンを量産化し、その医学的有効性を評価する困難な作業を担ったのは、国力のすべてを投入した死闘(総力戦)となった第二次世界大戦を遂行するために、米国の科学者の総動員をはかる機関として作られた科学研究開発局(OSRD)であって、研究者個人ではなかった。歴史的には、これは画期的に新しいことだった。
こうして大量生産され始めたペニシリンの臨床的有効性を証明したのは、一九四二年一一月にボストンでおきたココナッツグローブ・ナイトクラブでの火災である。この歴史に残る悲惨な大規模災害では六〇〇人以上の死傷者がでている。一七三人の火傷などによる怪我人に対して、政府の化学療法等に関する委員会(COC)から提供されたペニシリンはわずか一三人分であったが、重症火傷の治療における効果を明らかに示していた。こうした結果を踏まえて、一九四三年七月に、戦時生産委員会(WPB)の指示によって、ペニシリン生産は軍の管轄下におかれることになった。
その結果、第一次世界大戦中の野戦病院では一二─一五パーセントに達していた入院した兵士の感染症による死亡率は、第二次世界大戦の終わり頃には連合軍では三パーセント程度にまで低下したという。鳩時計しか生み出さなかったと揶揄されるスイス的な平和とは異なり、第二次世界大戦によって生み出された米国での総動員体制は、新薬ペニシリンの量産化という恩恵を生み出したわけだ。だが同時に、米国本土では、画期的な新薬ペニシリンが民生用の医薬品としては払底するという事態が生じた。
生命を賭けて戦っている前線の兵士に優先して治療薬を提供するという考え方そのものは、銃後の米国社会でも広く受け入れられていた。しかし、個々のケースでは、とくに赤ん坊の母親や若者がペニシリンの必要性を、マスメディアを通じて訴えた場合などには、軍や政府の軍需優先の姿勢は冷酷な合理主義として批判されることも少なくなかった。当時は表だって語られることはなかったが、銃後でのペニシリンが厳格な選択基準によって、重症でしかもペニシリンが特に有効であるとされた病気の患者にだけ配分されたのに対して、戦場では軽症の性病患者に優先して用いられていたことは、バイオエシックスにおける「場所」の問題を象徴している。
薬学史家のデヴィッド・アダムズは、軍による官僚的な統制に対する批判には、第二次世界大戦の性格をどうとらえるかをめぐるイデオロギー的緊張があったことを指摘している(The Journal of the history of medi-cine and allied sciences Vol. 44, 1989, pp.196-217)。連合国側は、枢軸国側を軍国主義や全体主義として批判し、自らの側をヒューマニズム的な民主主義と位置づけていた。その視点からすれば、軍事目的を最優先する「合理的」なペニシリン配分の冷酷さは、悪と見なされた枢軸国側の非民主的なイメージと重なり合いかねないからだ。その一方で、ペニシリンを必要とする人々の声をすべて取り入れて、市場原理のもとで野放図にペニシリンの配分を放置してしまえば、結果が悲惨なものになることは容易に予想できる。
まさに、映画『第三の男』(一九四九)に登場するハリー・ライム(オーソン・ウェルズが演じた)は、戦後の混乱のなか半分廃墟と化したウィーンで、偽ペニシリンの闇販売で巨額の利益をあげ、多くの病人を苦しめた悪漢として描かれている。また、映画では、ハリーの悪を糾弾する友人ホリー・マーティンズが、本物のペニシリンが計画的に配分されていた米国出身の作家とされていたことは示唆的だ。

北アフリカに届けられたペニシリンのアンプルには、野戦病院での傷病兵の選別、戦時の総動員体制による研究開発の進歩、戦場と銃後の資源配分、枢軸国と連合国のイデオロギー的対立などが絡まり合いながら凝縮されている。アンプルを通して見える断片化して複雑な風景は、バイオエシックス(生命倫理)ではなく、バイオポリティクス(生政治)とよぶべきなにものかだ。

ノルマンディの野戦病院での手術(1944) 引用出典=Mark Harrison,  Medicine and Victory,  Oxford University Press, 2004.

ノルマンディの野戦病院での手術(1944)
引用出典=Mark Harrison,
Medicine and Victory,
Oxford University Press, 2004.

>美馬達哉(ミマ・タツヤ)

1966年生
京都大学医学研究科助教(高次脳機能総合研究センター)。臨床脳生理学、医療社会学、医療人類学。

>『10+1』 No.48

特集=アルゴリズム的思考と建築