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非古典的な時代の建築 | 日埜直彦
Nonclassical Architecture | Hino Naohiko
掲載『10+1』 No.47 (東京をどのように記述するか?) pp.45-47

おそらく建築と文学は人類の技芸として最も古い伝統をもつ分野だろう。長い時間をかけて系統だった建築的思考が形成された。それがいかなるものかつねに明示的であるわけではないにしても、多かれ少なかれわれわれはそれを暗黙の了解としている。例えばなんらかの幾何学により空間に秩序をもたらすこと。工学的知によってそれに必要な性能を与えること。そうしてそこにある質が実現されること。こうしたクライテリアには優に二〇〇〇年以上の歴史がある。
だが同時に建築はきわめて同時代的なものでもある。時代に条件付けられ、時代のなかで作られる。近代建築は過去の建築の伝統から自らを切断しようとした。西洋の様式建築を否定し、また土着的な建築を脱皮した地点に、新しい時代に見合った建築を求める革新があった。近代建築そのものがどの程度非古典的と言えるかはさておき、いずれにせよわれわれが過去の伝統の単純な延長線上に現代の建築を考えていないことはたしかだろう。それは絵画的伝統から切り離された視覚芸術という意味で、写真と類似した状況と言える。
長い歴史を持つという意味で建築は文学と似た文脈にあり、その歴史から切断されているという意味で建築は写真に似た文脈にある。これがこの連載の冒頭で見たことだった。そうしたアンビヴァレントで分裂的な歴史感覚が、方向感が喪失した現在の状況の根元にあるのではないだろうか。新しいトピックが次々に現われ、また目新しい建築に日々興味を惹かれはする。だがそんなめまぐるしさから一歩身を引いたところで、そこにどれほどの意味があるのかと、ふと首を傾げることはないだろうか。
こうした「主題なき時代」という状況は、だが現代に特有の状況というわけではないのかもしれない。例えば一五世紀の建築家にわれわれが言う意味での「主題」などはたしてあっただろうか。むしろわれわれがそう考えがちなのは、近代というイデオロギーの時代の終焉という誰もが認めざるを得ない状況の効果に過ぎず、むしろちっぽけなノスタルジーの一種なのかもしれない。だとすれば要するにこういうことだろう。どんな場所にでも穴を掘ることは可能だとしても、どの穴にも同じ意義があるわけではない。だとすればどこに掘り下げるべき豊かな鉱脈があるのか、われわれは冷静に見極める必要があるのだ。

この一連のテクストで参照してきた『カルヴィーノの文学講義』は、領域こそ異なれども、その意味で有効と思われる鉱脈を提示しようとしている。カルヴィーノの突然の死により果たされなかったが、六つのテーマについて講義が予定されており、それはおおまかに二つずつのペアになっていた。

まずひとつ目のペアは「軽さ」と「速さ」である。現実の担いきれない重さ、鈍重さをものともしない、フィクションの軽快さ、俊敏さである。例えばなにかの命題の証明のように、論理が積み上がり動かし難い塊となっていくようなタイプのテクストがある一方で、つむじ風のように軽やかな文学作品が文学史のあちこちに存在する。縁もゆかりもない事物を一気に結びつけ、一飛びにするフィクションの自由奔放さは、文学のメディウムとしての言語が秘めたひとつの野性的な可能性である。写真もまたモダニズムによって機械的視覚の客観性、真正さを背負わされ、真実を伝えるメディアとして強いバイアスのもと抑圧されてきた。だがモダニズムの退潮と歩みを揃えるように、写真のメディウムとしての野性的な可能性が剥き出しになってくる。一枚の写真は複製技術時代の芸術として記号化したイメージの奔流に巻き込まれた断片であるほかなく、移ろいやすい一瞬を定着する微分的な視覚を徹底していく。そうして定着された多様性とダイナミクスは、われわれの日常的な世界観を脅かすものとなる。おそらくメディウムとしての写真の野生的可能性はそこにある。
しかし建築において、「軽さ」と「速さ」は結局手の届かぬ憧れの対象であり続ける。軽やかな構造やダイナミックな形態という言い方はできても、建築は基本的に重く、また微動だにしない。ただごく稀に、物質的な重さを超越して軽やかさを感じさせる建築があり、静止したままで動き出し動きを誘うような建築があることもまた事実ではあるのだが。

二つ目のペアは「正確さ」と「視覚性」である。「正確さ」とはこの野性的な水準を統御する内的秩序である。いわば道徳としての正確さではなく、倫理としての正確さであり、それによって混沌は一個の姿をなしていく。デタラメな言葉使用は可能だし、無作為的なイメージもまた可能である。ただそれが単に任意であるならばそれは無為に留まる。ある内的秩序によって輪郭づけられてそこに固有のものが成立するとき、その内的な秩序がカルヴィーノの言う「正確さ」である。単に客観的で明証的で真正であるだけでなく、むしろしばしば限界的な「正確さ」はギリギリの均衡へと作品を追いやり、野性的な世界と向き合うことを強いて、そこで局所的かつミクロな秩序の発見を促す。
文学や建築とは違って写真は根本的に視覚的なメディアである。写真的視覚の遠慮会釈のない無差別的性格はそれ自体で自己完結した一個の世界のヴィジョンを提示する。しかしそのような直接的な視覚と少し違う意味で、文学においては無味乾燥な文字の連なりのなかに生き生きとしたイメージが明滅し、魅力的なイメージが物語を牽引する。そうしたイメージは多面的かつ緊密に連携して作品を成立させている。それはたいてい一個のフィギュアとして自立する強度を備えているのだが、時には何の変哲もないありふれたイメージの反復が鍵のように機能することもあるだろう。
おそらく建築においても同様のことが言えるのではないか。われわれがスキームとかダイアグラムと呼んでいるものはまさにこれと同じように機能する。われわれはそれをプログラムが孕むさまざまな問題が焦点を結ぶ三次元的な原器として扱っている。図式的なダイアグラム以上のものであり、三次元的なコンポジションであり、視触覚的な物質性を備え、複雑に組み合わされた有機的な機械として機能する、固有のリアリティを形成するための仮説的なモデルである。

三つの領域それぞれに露呈している独特の野性的な可能性があり、そこに作品固有のフィギュアとそこから作品を展開させていく動因が提示された。そしてそれがある固有性を獲得するならば、そこに現われてくる可能性とはなんだろうか。そこでカルヴィーノが次に提起したのが「多様性」の問題であり、そして死に阻まれなし得なかった最終回の講義は「一貫性」を扱う予定だった。
もはやいかなる抽象化も受け付けないような多様性がフィクションにおいて胚胎する。ほとんど自律運動のように際限なく多様な世界の像が紡ぎ出され、世界そのものと同じほどに物語は拡張する。作家の人生を賭して書き継がれた長大な文学作品がある一方で、ほんの数ページの短編において全宇宙を封じ込めるような離れ業に挑戦する作家もいる。そこに描き出されているのはひとつの世界である。写真とはいささか異なるが写真と不可分のプロジェクトとして、ゲルハルト・リヒターの「アトラス」を、そうした挑戦の視覚芸術における例と考えることもできよう。もはやフィクションはストーリーの形式を取らず、むしろ世界そのものであろうとしている。
「一貫性」というテーマでカルヴィーノがなにを提示しようとしていたか想像することは難しい。メルヴィルの『書記バートルビー』を扱うことになっていたという夫人の証言からすれば、物語のダイナミクスが物語そのものを結晶化させるかのように切り詰めていき、遂に限界的な抽象にまで至るような、宿命的な一貫性を意識していたのかもしれない。途方もなく拡張するフィクションに対して、ある種の自動律に縮減していくフィクションとでも言うように。
ここに現われているのはフィクションの意味の変異、言わばリアリティそのものとなった「生きられたフィクション」である。その意味で、文学のフィクションはフィクションとしてそれ自体の可能性を尽くすことに専念し、一枚の写真は多様な世界の断片としてその意味においてフィクションとなる。
しかし建築はそこで独自の跳躍に挑むだろう。それは実際に建設され、世界そのもののなかに具現化されるのである。ドゥルーズの言い方を借りるなら、フィクションはヴァーチュアルにとどまるが、建築は乱暴にもヴァーチュアル/アクチュアルの壁を乗り越えて、世界そのものの一部としてそれを顕現させる。われわれはそこに生きることができるのだし、そこに住むことによってそれは世界そのものとなる。もはやリアリティというものが一方にあり、他方に潜在的な可能性があるというわけにはいかない。リアリティはさまざまな潜在性のモザイクによって構築されたものであって、そうしてつねに組み立て直されるものなのだ。平行宇宙論のようなイマジナリーな次元の問題ではない。ヴァーチュアルなものはもはやCGの世界にあるとは限らず、凡庸なヴァーチュアル・アーキテクチャーよりよほど奇怪な現実があるのだ。

ゲルハルト・リヒター「アトラス」 引用図版=『GERHARD RICHTER』(淡交会、2005)

ゲルハルト・リヒター「アトラス」
引用図版=『GERHARD RICHTER』(淡交会、2005)

>日埜直彦(ヒノ・ナオヒコ)

1971年生
日埜建築設計事務所主宰。建築家。

>『10+1』 No.47

特集=東京をどのように記述するか?