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環境採取装置としてのiPod | 田中浩也
The iPod as an Environmental Collection Device | Hiroya Tanaka
掲載『10+1』 No.42 (グラウンディング──地図を描く身体, 2006年03月発行) pp.113-115

携帯電話とiPod

「携帯電話」ではない「ケータイ」が大ブレイクした。iPodである。衣服のポケットサイズまで極限にコンパクト化されたiPodは、かつての「ウォークマン」以上に急激な広まりを見せている。従来の「音楽」コンテンツの流通形式・聴取形式をまるごとひっくり返しただけでなく、PodCastingという仕組みでネットラジオをはじめとする「音声」コンテンツ全般のあり方までも再編成している。ここで放送されている番組は、トークショー、ニュース、コメンタリー、ドラマ、コメディ、インタヴュー、講演、朗読、各国語による海外の番組など、あらゆるジャンルの音声情報である。個人の日記であるテキストベースのBlogに変わってAudioBlog(音声日記)さえも始められている。このデヴァイスによって、私たちが聴収する音は、都市の雑踏ではなく、各々が求める(快適なあるいは役立つ)音環境へと変更されていく。

しかし、iPodで音楽を聴きながらフィールドワークをする人はまずいないだろう。現時点でこのデヴァイスは「人と都市のインターフェイス」としては使えない。iPodは、都市を「採取」できないのであるから。「携帯電話」が、単なる人と人とのコミュニケーションの次元にとどまらず、フィールドワーク・ツールとしてデザイナーにも興味深く取り上げられたのは、内蔵された小型カメラでミクロかつ断片的な都市現象を「いつでも写真に撮る」用意ができたこと、つまり日常的に都市を「採取」することができる側面が大きいだろう。デザイナーの福間祥乃氏は赤瀬川原平氏の「超芸術トマソン」に影響を受けつつ、デザイナーたちの採取するデジタル写真を「超デザインJPG(チョウデザイン  ジェー・ピー・ジー)」と呼んでいる。氏は「都市のなかで、今までのデザインを超えるために、まだ今は環境のなかに『ズレ』や『隙間』のように放置されていてデザインされていない情報を『デザイナーの個人的デジカメ都市画像』から見出そう」という説明で、この呼称へと辿り着いた思考について説明している(ただしこの文章で氏は「携帯電話」と限定せず「デジカメ」という広い括りで述べている)★一。私たちが常時携帯するデヴァイスは、例えばこのように、都市を遮断するのではなく、都市を採取するために用いたとき、より開かれた「まなざし」を有し始めるのだろう。では未来のiPodは、都市を採取できるようになるのだろうか? 以降、この小論では、私が実験的に行なった小さな加工/改良について報告してみたいと思う。

都市を採取する/環境を録音する

改良の方針はきわめて単純である。iPodを録音装置として使うのである。しかも、音を録音するのではない。さまざまな環境情報を、音に変換して録音し続けるのである。
電気街に行くと、現在では小型化された環境センサーが数百円といった安い値段で売られている。温度センサー、湿度センサー、光度センサー、磁力センサー、加速度センサー、気圧センサー(これは「標高」を取得するのに使う)、匂いセンサーなど多様な環境センサー群。これらはいずれも、環境中のあるパラメータを電圧に変換する部品である。この電圧を音(周波数)に変換すれば、私たちはとりあえず「環境情報を録音」できる。具体的には、iPodのマイク「i-Talk」をセンサーに取り替えるというちょっとした細工を行なう。そこで採取される環境情報は、デジカメのように都市のあるお気に入りのシーンを選んで撮ったものではない。数時間移動する間じゅう、常に身体に付随し、環境の経験を取得し続けるのである。このシークエンシャル(時系列)なデータをPCに取り込んで「音の波形」として眺めてみると、そこには確かに私たちが「経験してきた環境」が残っている。そして同時に、そのデータは実は私たちの身体そのものの記録でもある。まるで音楽のように、環境を身体がスキャンしたスピード・テンポ・リズム・ピッチ・グルーヴといった、「地表と私の関係性」が記録されているのだ。

環境を聴収しながら歩く

録音中の環境情報を、リアルタイムにヘッドフォンで聴きながら(聴覚にフィードバックしながら)都市を歩く場合、私たちはある意味で一時的に別の「感覚体」になっている、と言えるだろう★二。センサー・iPod・ヘッドフォンからなる一連の「ギア」は、身体と地表との相互作用からなる関係の一部を取り出して拡大し、また身体の運動へフィードバックする(新たな行動を喚起する)回路を作り出していく。例えば、「加速度センサー」を取り付けて、それを音として「聴き」ながら歩いてみよう。私たちが路地の「カーヴ」を曲がる経験は、じわじわと大きくなるノイズ音とともに耳に飛び込んでくる。加速度センサーは横向きの遠心力をも取得するので、走って通過すれば高い音とともに、歩いて通過すれば低い音とともに、強く印象づけられる。左右に蛇行した道を歩くという運動は、ここですでに一回性の音楽になっている。こういった、身体と環境が相互作用して起こる物理現象は、普段は気がつかないが実は「常に起こっていること」である。ちょっとしたギアを使って私たちの経験を拡大し、顕在化させ、再認識することは、一旦「視覚」や「意味」を括弧に括って、ダイレクトに「環境の手応え」をあぶり出そう、という試みでもある。

環境観測装置としての身体

人間のセンサーはいわゆる「五感」のみではない。私たちの皮膚は、例えば乾燥してカサカサになったり肌が荒れたりというように、光や湿気を受け止めていつも「化学変化」を起こしている★三。また、骨格と筋肉の全体を使って、姿勢(傾き)や歩行速度を変えたり、振り向いたりという「物理変化」をも起こしている。そういった、環境と身体の中間に位置する「フィジカル=物理」と「ケミカル=化学」な現象や経験を、通常の五感でも受容できる情報に変換して定量的に取り出そうというのが、実はこの試みの本質的な意図である。とりあえず「感覚のチャンネルとレゾリューションを変えてみる」ということ。誤解を恐れずに言うならば、これはある種の野生的な経験である。普段、肉体は確かに感じているが脳までは到達してこない情報を引き受けてみると、普段とは別の都市が顕われてくる。私たちは今、望みさえすれば、時計のみでなく温度計や湿度計や気圧計を「常時携帯」できるような状況にいる。私たちが時計という外部を身にまとったことで生態的な体内時計を「再発見」したように、各種センサーが記録する外部環境をまずは受け止めることで、体内の潜在的な「ネイティヴ・センス」をも再発掘することに繋がっていくのではないだろうか。
このような思考に至った時点で、もうiPodはひとつの手段にすぎない。ただ、iPodという便利な流行デヴァイスと、小型センサーを組み合わせれば、比較的簡単に誰もがそのような都市の位相を経験できる状況が、すでに整い始めているのである。水・空気・熱・光といった環境に対するまなざしが、都市的な携帯デヴァイスの側からも発現していくことがあれば、地表の身体経験はもっと豊かになる。


★一──福間祥乃「超デザインJPG・デザイナーの個人的デジカメ画像からみる都市」(『季刊d/sign』No.10、「特集=写真とデザイン」、六八─七五頁)。
★二──「異なった生物は異なった知覚様式によって世界をフィルターし、異なった〈環境〉(Umwelt)を生きている」というユクスキュルの議論を参照。ユクスキュル『生物から見た世界』(日高敏隆+羽田節子訳、岩波文庫、二〇〇五)。
★三──傳田光洋『皮膚は考える』(岩波科学ライブラリー、二〇〇五)。

>田中浩也(タナカ・ヒロヤ)

1975年生
慶応義塾大学環境情報学部准教授、国際メディア研究財団非常勤研究員、tEnt共同主宰。デザインエンジニア。

>『10+1』 No.42

特集=グラウンディング──地図を描く身体