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建築の四層構造 | 難波和彦
Four Layers of Architecture | Namba Kazuhiko
掲載『10+1』 No.45 (都市の危機/都市の再生──アーバニズムは可能か?) pp.225-233

今回はサステイナブル・デザインの理論的根拠について考えてみたい。そのために、まず建築を総合的にとらえるマトリクスを提案することから始めよう。
ローマ時代の建築家ウィトルウィウスは、建築を三つの条件によって定義している。「強・用・美」つまり、強さ、実用性、美しさである。ウィトルウィウスによる建築の定義は、そのまま近代建築に移すことができる。「強」は構造、「用」は機能、「美」は形である。これを建築用語に翻訳すれば、構造とは建設技術、機能とは社会的用途やビルディング・タイプ(建物類型)、形とは表現、広い意味で文化といってよい。僕の考えでは、サステイナブルな建築の条件として、三つの条件にもうひとつ「エネルギー」を加えるべきだと思う。サステイナブルな建築は以上の四条件によって成立する。この四条件から、建築を次の四つの視点でとらえる以下のような仮説が導き出される。
一:建築は、物理的な存在である。
二:建築は、エネルギーの制御装置である。
三:建築は、生活のための機能を持っている。
四:建築は、意味を持った記号である。
なぜこの四つの視点なのか。これ以外にいくらでも見方があるのではないかと思われるかもしれない。しかし僕の考えでは、建築を総合的にとらえるにはこれで必要かつ十分である。四つの視点は大きく二つに分けることができる。前二者は建築のハード面をとらえ、後二者はソフト面をとらえる。ハードウェアとソフトウェアといってもよい。ハードウェアとソフトウェアという定義から直ちに連想するのはコンピュータだろう。事実、この四つの視点はコンピュータをモデルにしている。四つの視点をコンピュータに当てはめると以下のようになる。
一:コンピュータは、まず何よりも物理的な存在である。
二:コンピュータは、電気エネルギーの制御によって駆動する。
三:コンピュータは、さまざまな内部機能のネットワークによって働く。
四:コンピュータは、最終的に、記号を表現手段として意味を伝える。

以上から建築とコンピュータを相似的にとらえることができることがわかる。建築をとらえるのに、なぜコンピュータ・モデルを用いるのか。それはコンピュータが現代の最も進んだ技術だからである。コンピュータをトータルにとらえることができないようなモデルは現代には通用しない。現代建築の様相を明らかにするには、コンピュータをモデルにするのが最もふさわしいと考えられる。コンピュータは「考える機械」である。それは人間の脳をモデルとしてつくられている。したがって四つの視点は、そのまま人間の脳にも当てはめることができる。脳もこの四つの視点でとらえることができる。要するに建築を見る四つの視点を成立させているのは、脳を備えた人間なのである。これを図式化すると以下のようになる。
一:脳は、特定の物理的構造を持った脳細胞のネットワークである。
二:脳は、脳細胞のネットワークを流れる電気エネルギーによって作動する。
三:脳は、それぞれ働きの異なる機能によって成立している。
四:脳は、記号を操作し、意識現象をうみ出す。

以上からわかるように、四つの視点は建築、コンピュータ、人間を同じモデルでとらえることを可能にする。つまり四つの視点によれば、建築と人間の相互作用を相似的にとらえることができるのである。
以上の所見をマトリクスに整理すれば、表のようになる。

建築の4層構造:サステイナブル・デザインのためのマトリクス

建築の4層構造:サステイナブル・デザインのためのマトリクス

マトリクスの列(横)は建築をとらえるさまざまな局面を表わし、行(縦)は四つの視点から見た局面の層を表わしている。それぞれの視点(層)から見た建築の様相は、以下のようになる。
一:第一層は建築の物理的な側面である。この層は建築を物理的なモノとしてとらえる視点である。
二:第二層は建築のエネルギー的な側面である。この層は、建築をエネルギーの制御装置としてとらえる視点である。エネルギー性は物理性とは独立して扱うことができる。
三:第三層は建築の機能的な側面である。この層は、建築を社会的な機能を果たす存在としてとらえる視点である。機能は人の流れ、部屋の広さ、用途といった人間活動に関係し、物理性やエネルギー性とは独立して扱うことができる。
四:第四層は建築の記号的な側面である。この層は、建築を文化的な意味や価値を担う記号としてとらえる視点である。建築の記号性は他の三層とは独立して扱うことができる。

それぞれの層に対応して、それを扱う専門的な学問分野が存在している。建築の物理性を扱うのは材料学、構法学、構造学、生産学であり、エネルギー性を扱うのは環境工学や設備工学であり、機能性を扱うのは建築計画学であり、記号性を扱うのは歴史学や意匠学である。各々は独立した学問領域を形成している。

四つの層は、それぞれデザインによって解決すべき問題、すなわちプログラムを持っている。デザインの条件は四層のプログラムに分解することができる。第一層は、材料、構造、構法などの物理的条件、第二層はエネルギーや温熱環境などのエネルギーにまつわる条件、第三層は建物種別(ビルディング・タイプ)や用途などの機能的条件、そして第四層は形や空間などの美学的条件である。
さらにそれぞれのプログラムに対応して、それを解決するための技術が存在している。建築の技術には、物理的存在としての建築を作り上げるハードな技術だけでなく、平面計画、形態操作、解析技術、シミュレーション技術といったソフトな技術も存在している。現代の建築技術ではハードな技術とソフトな技術が緊密に結びついている。ハードな建設技術はソフトな管理技術に支えられているし、構造設計や環境設計はシミュレーション技術なしには成立しない。これを整理すると以下のようになる。
一:物理的存在としての建築を成立させるのは、材料、構造、構法を制御する「生産技術」である。
二:エネルギー制御装置としての建築を成立させるのは、環境を制御する「設備・環境技術」である。
三:建築の社会的機能を成立させるのは、用途や平面を組織化する「計画技術」である。
四:建築を意味を持った記号として成立させるのは、形や空間を操作する「表現技術」である。

四つの技術は、それぞれ独立した領域を形成している。それぞれの技術は自律的なサブシステムである。しかし自律しているといっても互いに無関係なわけではない。建築がひとつの存在として成立している以上、四つの技術は緊密に結びついている。たとえば、特定の材料と構法を使って建築をつくれば、それによってエネルギー的性能が決まり、空間のサイズも限定されるから、生活の機能も規定され、テクスチャーが決まるから空間の表現も決まる。しかしその決まり方は一通りではない。同じ材料と構法を使っても、多様な性能、プラン、表現が可能である。デザインとは四つのプログラム・技術を特定の関係に結びつけることだといってよい。

四つの層には、それぞれ時間あるいは歴史が埋め込まれている。しかし近代建築には時間の視点が決定的に欠けていた。これに対して、サステイナブル・デザインにおいては、時間と歴史を条件として取り込むことが重要な課題となる。それぞれの層において、時間と歴史がどのような様相を示すかを整理してみよう。
一:第一層の物理性においては、建築材料のリサイクルや再利用の問題となって出てくる。あるいは建築材料の耐久性やエイジング・ウェザリング(風化)の問題もそうである。材料の風化はこれまでマイナスに考えられてきたが、時間を経て風化すると美しく見えるような材料も存在する。材料に時間を刻み込むことが建築の価値になるわけである。材料の風化が美しく見えることは、第一層である物理性が、第四層の文化性に結びつくことである。
二:第二層のエネルギー性においても同じようなことがいえる。エネルギーを時間において考えることは、建設に必要なエネルギーだけでなく、完成後にそこで生活が展開され、最終的に建築が寿命を終えて解体されるまでに費やされるエネルギーについて考えることである。このように建物の寿命とエネルギーの関係について考えることが、サステイナブル・デザインの重要な条件である。
三:第三層の機能性においては、時間は決定的な条件となる。たとえば住宅として設計された建築が美術館に転用されるような場合がある。昔の建築で現在も残っているものは、用途が変わることによって生き延びている場合がほとんどである。サステイナブル・デザインにおいては、機能に対応した建築よりも、時間によって変化する機能を受入れるような建築を考える必要がある。既存の建物のコンバージョン(用途変更)やリノベーション(増改築)も時間の重要な問題である。こうした建築の機能性は、家族のライフサイクルやコミュニティといった社会的な側面と結びついていることはいうまでもないだろう。
四:第四層の記号性には、人々の記憶に残る建築や街並の保存というテーマがある。建築や都市が持続する最終的な条件としては、それが文化的な財産として根づくかどうかが決定的である。たとえば物理的な耐久性と機能的な用途転換によって生き延びる建築は多いが、たとえ物理的に脆弱でも文化的価値が認められれば建築は持続するし、さらには伊勢神宮の式年造替のように物理的存在ではなく文化的記号(意味)だけが持続するような場合もある。

建物の寿命について論じるときに、物理的な耐久性が問題にされる場合が多い。しかし実際に建物の寿命を左右するのは主として耐久性よりも機能性である。つまり使い物にならなくなった建物は物理的に丈夫であっても壊されるのである。だからコンバージョンやリノベーションによって機能的な寿命を長くすることが重要になってくる。あるいは文化的価値が認められれば、その建物はさらに延命するだろう。たとえば茶室は物理的には脆弱でも、文化的価値があるから保存されるわけである。住宅ならば、住人がそこに住み込み、家族の記憶が残っていれば、物理的な耐久性が限界であっても、それを壊そうとは思わないだろう。
このように何がサステイナビリティを左右するかは複雑な問題であり、単純に物理的な長寿命と省エネルギーだけによって解決することはできない。そこには家族やコミュニティの問題、文化の問題がすべて絡みあっている。これらの問題は右端の縦列にリストアップされている。サステイナブル・デザインとは、これらの複雑な条件をデザインにどう反映させるかという問題であることが、このマトリクスから理解できるだろう。

近代建築の四要素

ここまでは「建築の四層構造」(以下、四層構造と略称)とサステイナブル・デザインとの関係について論じてきた。次はこのマトリクスの歴史的背景について考えてみよう。
近代建築史を辿ると、そこにはさまざまなデザイン思想が展開している。モダニズム、ポストモダニズム、デコン、ハイテック、エコテックという建築思想の移り変わりは、いずれもそれ以前の思想を否定し乗り越える思想として位置づけられている。内実はともかく、少なくともその思想を担った建築家たちは、自分たちの歴史的立場をそのようにとらえてデザインを展開してきた。しかし新しいデザイン思想が以前の思想を否定し取って代わるという発想は、そもそもモダニズムがうみ出したものである。一方で、近代建築史家たちの研究は、新しいデザイン思想は以前の思想を否定しているように見えて、実は以前の思想に深く囚われていることを明らかにしてきた。表面では新しい思想が古い思想を否定し取って代わっているように見えても、それは漸進的に変化する歴史的底流によって支えられていることが明らかになったのである。歴史的変化には、変わる部分と変わらない部分がある。このような視点から見れば、近代建築のデザイン思想の移り変わりをひとつの見取図の中に位置づけし、その底流に潜む不変的な構造を明らかにすることが可能なのではないか。四層構造はそのような仮説的な見取図として構想された。
モダニズムは一八世紀以来の産業革命がもたらした鉄、コンクリート、ガラスという新しい技術によって建築の可能性を拡大する運動だといわれている。この建築史観は、技術が建築を決定づけるという意味で技術主義と呼んでいいだろう。一九世紀のカール・マルクスや二〇世紀初頭のワルター・ベンヤミンの「パサージュ論」に技術主義的な建築史観の萌芽を見ることができる。しかし建築家としてその主張をもっとも明確に展開したのは、いうまでもなくル・コルビュジエである。『建築をめざして』はその代表的な宣言文だといってよい。以下の文章は、ル・コルビュジエの技術主義的歴史観を宣言したものとしてあまりにも有名である。

工学技師の美学、建築、この二つは互いに連帯し相援けるものだが、前者はまさに隆盛を極めており、後者は情けない衰退に貧している。工学技師は経済の法則に立脚し、計算によって導かれて、われわれを宇宙の法則と和合させてくれる。かくて調和に達する。
ル・コルビュジエ『建築をめざして』(吉阪隆正訳、SD選書、一九六七)


とはいえル・コルビュジエはこの文章に続いて、工学技師の美学に形態的な秩序を与えるのが建築家の役割であると主張し、さらに本書の後半では平面(機能)の重要性にも言及している。したがってル・コルビュジエが単純な技術主義者でなかったことは明らかである。技術主義を中心に据えて近代建築史の展開を辿ったのは、スイスの建築史家ジークフリート・ギーディオンである。彼の主著『空間・時間・建築』(太田實訳、丸善、一九六九)には、新しい技術がもたらした建築空間の可能性が数多く紹介されている。しかしギーディオンに代表されるモダニズム技術主義は、材料、構法、構造といった新しい建設技術に限定されている。そこにはエネルギー的視点は見られない。近代建築の巨大化、高層化には、空調、照明、エレベーターといった設備技術が不可欠であったにもかかわらず、モダニズムの技術主義には、設備技術が建築の可能性をもたらすという発想は見られない。ギーディオンは『機械化の文化史──ものいわぬものの歴史』(GK研究所、榮久庵祥二訳、鹿島出版会、一九七七)において、機械設備の発展を辿ってはいるが、エネルギー的視点による建築空間の可能性を探求するまでには至っていない。ただ一人、英国の建築史家レイナー・バンハムだけが『環境としての建築──建築デザインと環境技術』(堀江悟郎訳、鹿島出版会、一九八一)において、近代建築を支えてきた環境制御技術の重要性に注意を喚起している。しかし本格的にエネルギー技術が注目されるようになるのは一九七〇年代初期のオイルショック以降である。さらに一九九〇年代以降の地球環境問題は、エネルギー技術の決定的な重要性を明らかにした。しかしエネルギー的な視点からの本格的な近代建築史は、いまだに書かれていない。
モダニズムは同時に、一九世紀以降の資本主義の拡大がうみ出した新しいビルディング・タイプ(建築の機能類型)に相応しい空間を探求するデザイン運動だったとも考えられている。これは新しいビルディング・タイプ(機能)から建築の可能性を引き出すという意味で機能主義と呼んでいいだろう。一九世紀以前の建築では、ビルディング・タイプは特定の歴史的様式に結びついていた。一九世紀に入ると、古い歴史的様式が次々とリヴァイヴァルするが、これは既存の歴史的様式を新しいビルディング・タイプに適合させようとする作業だったといってよい。これに対しモダニズムは歴史的様式から装飾を剥ぎ取り、新しい機能を抽象的な形態に当てはめようとした。機能と形態とを直接的に結びつけようとするモダニストたちの模索は、一九世紀末から二〇世紀初頭にかけてさまざまなデザイン運動を引き起こした。アール・ヌーヴォー、分離派、未来派、デ・スティル、アール・デコ、表現主義などがそうである。ニコラス・ペヴスナーは『モダン・デザインの展開──モリスからグロピウスまで』(白石博三訳、みすず書房、一九五七)において、モダニズムの端緒をアール・ヌーヴォーとウィリアム・モリスに求めている。ペヴスナーが両者を取りあげた理由は、モリスが主張するデザインの社会的な役割(機能)に注目しただけでなく、アール・ヌーヴォーが鉄という材料の技術的可能性(展性)を追求することによって、旧来の歴史的様式を払拭したことにある。最終的に、抽象幾何学的な形態に機能を当てはめようとする即物主義が、モダニズムの主流として認められるに至ったが、こうした機能主義的なデザイン運動の多様性は、機能と形態の結びつきに歴史的な必然性が存在しないことを証明している。
技術が建築を決定づけるとする思想を技術主義、機能が建築を決定づけるとする思想を機能主義と呼ぶなら、モダニズムとは技術主義と機能主義の複合体だったといってよい。一九六〇年代後半になると、技術の急速な拡大がもたらす弊害が公害や巨大事故という形で出現し始める。技術の発展に対する反省は、技術が建築の可能性を拡大するという技術主義への疑問をもたらした。さらに機能主義は、都市を機能毎に分割し、象徴性に乏しい抽象幾何学的な建築で埋め尽くすことによって、単調で非人間的な都市空間をうみ出した。一九七〇年代に勃興するポストモダニズムは、モダニズムがもたらした矛盾に対する反省の産物である。しかし上でも述べたように、モダニズムからポストモダニズムへの転換は、モダニズムの否定というよりも、その補完あるいは修復だったと考えるべきだろう。モダニズムが技術と機能を優先させようとしたのに対し、ポストモダニズムは建築の形態を優先させようとした。ポストモダニズムはモダニズムが無意識のうちに抑圧していた形態の働きを明るみに出したのである。たとえばレイナー・バンハムは『第一機械時代の理論とデザイン』(石原達二+増成隆士訳、鹿島出版会、一九七六)において、一九世紀のアカデミックな建築教育における要素的なデザイン教育が、近代建築の抽象幾何学的なデザインに連続していることを明らかにしている。バンハムによれば、フランスのアカデミズムであるボザールを敵視していたル・コルビュジエでさえ、ボザールの要素的デザインの影響を受けているという。これはギーディオンやペヴスナーといったモダニズム歴史家たちの主張を真っ向から否定する主張である。さらにコーリン・ロウは「理想的ヴィラの数学」(『マニエリスムと近代建築』[(伊東豊雄+松永安光訳、彰国社、一九八一)]所収)において、ルネサンスの建築家パラディオとル・コルビュジエのデザイン・ボキャブラリーの共通性を明らかにしている。モダニズムの建築家たちは、一般的に過去の歴史様式を否定し新しい建築表現を追求したといわれている。しかし実際には、両者は見えない底流によって結びつけられていたのである。
以上のような歴史的経緯から、近代建築を構成する重要な要素として、技術、機能、形態という三要素を抽出することができる。技術を建設技術と環境技術の二つに分けるのは、現代建築の歴史的位置づけからである。モダニズムには環境技術への視点がなかったにもかかわらず、それに支えられて発展してきた。その意味でエネルギー要素は形態要素と同じように、モダニズムの無意識的な要素として潜在してきたと考えられる。さらに一九七〇年代以降エネルギー問題が勃興し、一九九〇年代以降の地球環境問題において大きくクローズアップされるようになったことも大きい要因である。以上の四要素にもとづいて近代建築史をひとつの構図としてとらえようとする仮説が「建築の四層構造」なのである。

図式としての四層構造

次に四層構造の理論的背景について考えてみよう。まず注意を喚起しておきたいのは、四層構造は建築それ自体に内在する属性ではないという点である。マトリクスの最初の列に「視点」を置いていることからもわかるように、四層構造は建築を見る視点の提案であり、建築を総合的にとらえ、デザインへと統合するための「図式」である。四層構造が視点の図式であることは、先に示したようにコンピュータや人間の脳にも適用できることからもわかるだろう。したがって四層構造に関して真偽を問うことにはあまり意味がない。重要なのは、建築を理解しデザインする場合に、四層構造が有効に働くかどうかである。当然のことだが、視点は普遍的ではない。さまざまな視点がありうる。視点は歴史的な制約を受けている。物理性・エネルギー性、機能性、記号性という四層構造を近代建築史から抽出したのは、その歴史的有効性を検証するためである。四層構造にもとづけば近代建築史を総合的にとらえることができる。
四層構造に込められた最も重要な主張は、建築に限らず、どのような現象でも、物理性、エネルギー性、機能性、記号性という四つの様相を備えているという点である。それぞれの様相は独立したサブシステムを形成するから、他の様相と切り離して単独に論じることができる。しかしそれぞれの様相において明らかにされた仮説や結論は、四層構造の中で他の様相との関係において再検証されねばならない。四層構造に込められたこのような主張の起源は、近代哲学の祖イマヌエル・カントに由来する。カントは『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』という有名な三批判を書いたが、これは古来の「真・善・美」やウィトルウィウスの「強、用、美」に重なり合っている。カントは『純粋理性批判』において、現象の内的な構造は、現象から人間への刺激─反応によってではなく、人間固有の図式(カテゴリー)を通じた現象への積極的な働きかけによってとらえられることを明らかにした。これがカントの主観的観念論の原点であり、いわゆる認識における「コペルニクス的転回」である。評論家の柄谷行人は「美学の効用」と題する論文において、カントの三批判を参照しながら、近代における美学のイデオロギー性について論じている。これは第四層(記号性)が独立した視点として成立する理由について述べたものとして読むことができる。

一八世紀後半に出現した美的態度にかんして、最も透徹した考察を与えたのはカントである。カントは、ある対象に対するわれわれの態度を、これまでの伝統的な区別にしたがって三つに分けている。一つは、真か偽かという認識的な関心、第二に、善か悪かという道徳的な関心、もう一つは、快か不快かという趣味判断。しかし、カントの区別がそれまでの考えと違っていることの一つは、彼がこれらに優劣の順位を与えず、ただそれらの成立する領域をはっきりさせたことである。それは何を意味するか。たとえば、ある対象物に対して、われわれは同時に少なくとも三つの領域で反応する。われわれはある物を認識していると同時に、それを道徳的な善悪の判断において、さらに快・不快の対象としても受け取っている。つまり、それらの領域はつねに入り混じった、しばしば相反するかたちであらわれる。このために、あるものが虚偽であり、あるいは悪であっても、快であることがあり、その逆も成立する。カントが趣味判断の条件としてみたのは、ある物を「無関心」において見ることである。無関心とは、さしあたって、認識的・道徳的関心を括弧に入れることである。というのも、それらを廃棄することはできないからだ。しかし、このような括弧入れは、趣味判断に限定されるものではない。科学的認識においても同様であって、他の関心は括弧に入れなければならない。(…中略…)また、道徳的レベル(信仰)においては、真偽や快・不快は括弧に入れられねばならない。こうした括弧入れは近代的なものである。それはまず近代の科学的認識が、自然に対する宗教的な意味づけや呪術的動機を括弧に入れることによって成立したことから来ている。ただし、他の要素を括弧に入れることは、他の要素を抹殺してしまうことではない。(…中略…)カントの考えでは、美は単に感覚的態度にあるのではない。といっても、それは無関心的態度にあるのでもない。それはむしろ「関心」を積極的に放棄する能動性から生じるのである。その場合、関心の括弧入れが困難である場合ほど、そうすることの主観の能動性が快として自覚される。カントの美学が主観的だというのは、そのことを意味する。
柄谷行人「美学の効用──『オリエンタリズム』以後」
『定本柄谷行人集  四──ネーションと美学』(岩波書店、二〇〇四)


柄谷によれば、美的態度(審美主義)は対象そのものからではなく、そこから受け取るさまざまな反応を括弧に入れる主観的な行為から快を得ている。しかしその括弧はいつでも外され、他の関心によって検証されねばならない。美的態度が自らの括弧を外さず、その内部に止まる時、それは現実を隠蔽するイデオロギーへと転じる。
このようなカント=柄谷の主観的美学論は、英国の建築史家コーリン・ロウの建築史論において見事に展開されている。最もエレガントな応用例は『マニエリスムと近代建築』に収められた小論「透明性」に見ることができる。この論文で、ロウはワルター・グロピウスのデッサウのバウハウス校舎と、ル・コルビュジエの国際連盟コンペ案を取りあげ、前者のガラス・カーテンウォールに見られる実(literal=文字通り)の透明性と、後者のシークエンシャルな空間体験によって得られる虚の(phenomenal=現象的な)透明性とを比較している。ロウは前者を物理的透明性、後者を知覚的透明性と考えている。しかし物理性と知覚性(記号性)を対置するのはカテゴリー・ミステイクである。正確に言えば、実と虚という対概念は、建築そのものに内在する属性の相違というよりも、それを体験する人間の内部に生じる現象の相違である。この点は二つの建築に四層構造を当てはめてみればよくわかる。どちらの建築も物理性と記号性の両面を備えている。バウハウス校舎のガラス・カーテンウォールは物理的にも記号的にも透明なので、単一の意味しか生じないが、国際連盟案の空間構成は物理的には不透明だが、記号的(経験的・現象的)に透明なので、そのズレがさまざまな意味をうみ出すと考えるのが、ロウの結論の正確な解釈である。
このようにカント=柄谷の主張は、そのまま四層構造へ当てはめることができる。認識的関心の対象は技術として、道徳的関心の対象は機能として、美学的関心の対象は記号としてとらえることができる。そこでは四層構造は近代がうみ出した図式であること。それぞれは独立した関心によってとらえられるが、そのためには他の様相を無関心において見る必要があること。しかし最終的に無関心の「括弧」を外し、再び四層構造においてとらえる必要があることが含意されている。
とはいえ柄谷のカント解釈は、主体の能動性(主観性)に重きを置きすぎているように思う。どの領域の関心であれ、対象=外界からの応答がなければ成立しない。主体の能動性は対象=外界との相互作用によって方向づけられる。真・善・美は主体と対象との間にうみ出される現象だといってもよい。さらに対象=外界は歴史的にも制約されている。したがってカントの主観的観念論は、歴史に関するカール・マルクスの思想によって補完されねばならないだろう。四層構造は建築を見る総合的な視点を与える図式であると同時に、対象からの応答を引き出すための図式だからである。

人間は自分自身の歴史をつくるが、しかし、自発的に、自分で選んだ状況の下で歴史をつくるのではなく、すぐ目の前にある、与えられた、過去から受け渡された状況の中でそうする。
カール・マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日』(植村邦彦訳、太田出版、一九九六)


層の理論

四層構造の要素がそれぞれ独立したサブシステムであるとしたら、それらは相互にどのような関係にあるのだろうか。最後にこの問題について考えてみよう。各層の独立性は、カントが認識的関心、道徳的関心、美的関心はそれぞれ独立していると主張したことに対応している。しかし同時にカントは、それぞれの関心は最終的に他の関心と関係づけられねばならず、その際に、認識的関心と道徳的関心を調停するのが美的関心だとも主張している。これによれば、第四層の記号性が他の三層を統合するという論理が成立する。たしかに技術と機能は形態によって統合されるという論理が成り立つかもしれない。しかしこの論理は当たり前すぎて何も言っていないに等しい。
四層構造は四つの要素が層を成すという仮説である。先に、建築の四つの要素は頭脳=コンピュータをモデルにしていることを明らかにした。このモデルによれば、四つの要素はハードウェアとソフトウェアに分けることができ、両者は層を成していると考えることができる。このモデルを展開すれば、物質から生命が出現するという層から層への生物学的・進化論的モデルを考えることができる。つまり無機的な分子から有機的な塩基が、塩基からDNAが、そしてDNAから単細胞生物が発生し、単細胞生物が進化して最終的に人類が発生し、頭脳の進化が意識現象、文化、さらには社会組織を生み出したというプロセスを、モノから意味へと向かう四つの要素に重ね合わせるモデルである。このモデルは四つの要素の層的な構造を明らかにするが、相互関係は自然的であり、そこに人間の意志が関与する余地はない。進化論モデルは事後的な説明としては有効だが、デザイン行為のように四つの層を事前的に関係づける行為のモデルとしては不完全である。
さらに、経済学の所見にもとづいて、四つの層を下部構造と上部構造に分け、両者を関係づける「下部構造─上部構造モデル」を考えることもできる。これは下部構造が上部構造を決定するというマルクス主義的モデルと、逆に上部構造は下部構造から独立していると主張するマックス・ウェーバー的モデルとに分けることができる。四つの層の自律性を認めるのは後者である。これは単純でわかりやすいモデルであり、計画学の研究などではよく使われているが、デザイン・モデルとしては単純すぎる。しかし経済学的モデルを社会学や人類学にもとづいて展開し、下部構造と上部構造を自然と文化の関係としてとらえるなら、両者を同型の構造によって結びつけるという構造主義的な「記号発生モデル」を考えることができるかもしれない。たとえば人類学者のクロード・レヴィ=ストロースは、物体(もの)を記号化する行為を芸術の働きとしてとらえながら、こう述べている。

記号の域まで物体を高めることは、もしそれが成功したなら、記号と物体の両方の基本的な特性を表させるはずです。(…中略…)その基本的な特性とは、記号の中に顕示される構造であって、普通は物体の中に隠されているものですが、その造形的または詩的な表現のおかげで、突如として姿を現し、その上、他のあらゆる種類の物体への通路ともなってくれるのです。(…中略…)二重の運動があって、一つは文化へと向かいたがる自然の憧れ、すなわち記号と言語へ向かう物体の憧れであり、もう一つは、その言語的表現の手段によって、あたりまえならば隠されている──人間精神の構造と機能の様式と共通しているあの特性そのもの──を発見あるいは知覚することを可能ならしめる運動なのです。
ジョルジュ・シャルボニエ『レヴィ・ストロースとの対話』(多田智満子訳、みすず書房、一九七〇)


物体としての建築材料を、記号、すなわち建築形態や空間の域まで高めるという行為はデザインそのものである。このモデルによれば、建築のデザインとは、四つの層に同型の構造をつくり出すことである。人間が自然から文化をうみ出したときに、あるいは芸術家が素材から作品をつくり出したときに物体と記号が同型となる。しかしどのようにすれば同型の構造をうみ出すことができるかについては、レヴィ=ストロースは何も述べていない。進化論、経済学、文化人類学から引き出すことができる結論は、どうやら四つの要素は層を形成しているということだけのようである。
この仮説からどのような方法論が提案できるだろうか。まず、デザインとは四層の要素すべてを関係づける行為だということである。どの要素を無視してもデザインは成立しない。さらに要素の間には優先順位はない。通常、建築デザインは機能を決定する平面計画から始めることが多い。これに対して四層構造は、デザインはどの層から出発しても構わないと主張する。しかし最終的には、すべての層を関係づけねばならない。残念ながら四層構造から導き出せる方法論はここまである。四層構造は分析の方法、あるいはデザインの与条件を整理する方法としてはきわめて有効である。しかし四層構造には統合の論理が欠けている。
とはいえ四層構造が主張するように、複数の要素を統合することがデザインだとするなら、そもそも統合の論理など原理的に存在しないというべきである。もし統合の論理が存在するなら、デザインを前もって予測できることになり、新しいデザインは生み出されないことになるからである。デザインとは連続的な展開ではなく不連続な跳躍だといわざるをえない。
科学哲学者のマイケル・ポラニーは『暗黙知の次元──言語から非言語』(佐藤敬三訳、紀伊國屋書店、一九八〇)において、言語化されない統合的知識である暗黙知について論じている。ポラニーによれば、暗黙知とは分析的で断片的な要素をまとめ上げ、創発的な全体へと統合する非言語的な能力である。要素を明示化し外から眺めたのでは暗黙知は働かない。つまり明示化することによっては、要素は決して統合されることはない。暗黙知が働くのは、複数の要素の集合の中に潜入し、それらを包含するように身体を拡大し、身体の内部に統合することによってである。「知的であろうと実践的であろうと、外界についての我々のすべての知識にとって、その究極的な装置は我々の身体である」とポラニーは主張する。したがって暗黙知は個人的な能力であり、明示化することによって伝えることはできない。デザインとはまさに暗黙知の働きのひとつだといってよい。それだけではない。ポラニーもいうように、科学の仮説形成や技術的発明も、暗黙知の働きの一種である。暗黙知が要素を統合するのだとすれば、建築を構成する要素の明示化した四層構造に統合の論理が存在しないのは当然である。むしろ四層構造は統合の論理に対立しているといってもよい。しかし同時に、暗黙知の働きを最大限に引き出すためには、暗黙知によって統合される要素を可能な限り豊かにする必要がある。さらに暗黙知によってうみ出されるデザインを社会に根づかせるには、統合される要素を可能なかぎり共有できるものにする必要がある。四層構造はそのために明示化され、共有された知識だと考えるべきだろう。
四層構造は明示化されているとはいえ、閉じた構造ではない。それは歴史的に制約されている点で開かれているだけでなく、論理的にも自己完結していない。四層構造の開放性をもたらすのは第四層の記号性である。記号性はあらゆる対象に潜んでいる。四層構造の他の層、物理性、エネルギー性、機能性でさえも、記号性のなかに取り込むことができる。四層構造は記号性のなかに折りたたまれているといってもよい。四層構造自体が記号性の産物である。しかし記号性は他の層なしには成立しない。このような自己言及性が四層構造の「可能性の中心」ではないかと考える。

*この原稿は加筆訂正を施し、『建築の四層構造──サステイナブル・デザインをめぐる思考』として単行本化されています。

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