RUN BY LIXIL Publishingheader patron logo deviderLIXIL Corporation LOGO

HOME>BACKNUMBER>『10+1』 No.45>ARTICLE

>
視点の錯綜と親密さ──「噂の娘」と「T邸」 | 乾久美子
The Intricacy and Intimacy of Perspective: 'UWASA NO MUSUME' and 'T House' | Inui Kumiko
掲載『10+1』 No.45 (都市の危機/都市の再生──アーバニズムは可能か?, 2006年12月発行) pp.48-49

プランをマイクロソフトウィンドウズのロゴマークのようにゆがめてみること。四人家族のための住宅「T邸」のために、このような方法を試してみた。基本となるプランはグリッド状である。パブリックな性格をもつ場所を中央に寄せ、プライヴェートな個室などを周辺に配置している。きわめてノーマルなレイアウト。それ全体をゆるやかに揺らす。できたプランは、3Dモデルのモデリングメッシュのようなものにもみえたり、ダーシー・トムソンの『生物とかたち』の魚のメッシュを彷彿とさせたりもするものとなった。平面図という俯瞰的視点からみると、こうしたゆらぎははっきりとわかる。だけど、平面図を離れるとどうだろうか。アイレヴェルにおいて、こうしたわずかな揺れなど、無いに等しい。特にインテリアでは、わずかな曲率をもつ壁は直行する壁で分断されるので、カーブの存在がほとんどなくなってしまう。そして通常の直線の壁と同じように、壁沿いに家具が並べられることを受け入れる。つまり、室内の風景はほとんど四角のプランとかわらない。それでも平面図を揺らしてみようとしている。
多くの場合、家具は部屋の軸線に沿って置かれる。ある程度の大きさ以上の部屋であったり、また部屋が変形であったり、また意図的に斜めの配置を選びとらない限り、私たちは部屋の軸線にアフォードされるままに素直に家具を置き、そしてそれを快適に使用する。室内における私たちのふるまいは、部屋の軸線が律しているわけだ。ここでもダイニングルームのダイニングセット、リヴィングルームのソファセット、カップボード、ベッド、カウンター、もしくは駐車場の車、それらは部屋の軸線に沿いながら配置される。そしてそれぞれの部屋の軸線は、ひとつづきのカーブに沿いながらすこしずつずれている。だから家具は、それぞれがお互いに、わずかにそっぽを向きながら点在し、そうした姿は間仕切り壁にあけられた開口部を通して眺めることができるようにしている。間仕切り壁に穿たれた開口部は、住宅スケールの開口部より大きめにしているのだが、機能にしたがって分割しつつも、ワンルームのように一体感ももたせようと考えたからだ。そのうえで、住宅の中で行なわれるさまざまなふるまいのプライヴァシーを感じさせつつも、隠さない、という状態をつくりたいと考えている。部屋のゆがみから導きだされた家具の軸線のずれが、わずかであるが、家具を中心としたふるまいのそれぞれの固有性を強調し、つながりつつも離れているような関係を結ぶ。

ひとつの空間を複数の人間がシェアする。中ではそれぞれが好きなことを、好きな場所で、そして自分のペースでやることができる、そうした場であること。いま公共空間の多くはそうしたパブリックを目指すものとしてつくられているが、私たちは「T邸」において、同様の空間のあり方を目指している。組織だった空間を、慣習的なプログラムどおりに提供するのではなく、ただ場所だけを提供するようなあり方といえばいいだろうか。空間にはヒエラルキーがない、もしくは非常に見えにくい。家族がヒエラルキーのない集合体としてあることのほうが自然に感じるようになっているので、公共空間と同様の均質さを求めようとしているのかもしれない。公共空間にせよ、住宅にせよ、空間にヒエラルキーを必要としていない、そういった点でふたつのスキーマの境界線があいまいになりつつある。どの時代においても、プログラムの差を超えて共通する空間概念というものはあるのだろう。しかし本当に重要なのは、それらが似ているということよりも、どのように微妙に違うのか、ということだ。

金井美恵子の「噂の娘」という小説がある。パニエ、シャンタン、ボートネックなどの、多くの読者(特に男性)にとって意味不明な手芸/洋裁用語がちりばめられていることと、時制や人称が複雑に入り組んだ構造をもっているために、大変に読みにくい。舞台は五〇年代、どこかの街に入院した父、その父に会いに行く母は、主人公の「私」と弟を懇意の美容院に預ける。むせ返るほどの女性性にあふれる美容院という空間で、さまざまな噂話が時制や文脈の連続性を欠いたまま飛び交うなか、他人の噂にまじって義理の祖母である元女優の噂、そして父と母の噂がささやかれる。絶対的な基盤であるはずの父と母の関係が、他の男女と同様に非常にあやういものとして語られるのを聞く子供の「私」は、いま他人の家に預けられていることの本当の理由をおぼろげながら察知し、そして漠然とした不安をかかえたまま発熱してしまう。物語は最初、子供の「私」がいる時間と視点を中心としたものに見えるが、読み進めているうちに、大人の「私」(おそらく五〇代ぐらい)からの回想であることが、少しずつわかってくるようになる。つまり入れ子状の構造をもっているわけだ。しかし時制などもさることながら、地の文と会話文の区別もないあからさまにわかりにくい構造の小説だから、かなり注意深く読まない限り、入れ子状などの構造を俯瞰する視点を獲得する以前に、いつ、だれが話した内容なのか、まったくわからなくなり、錯綜する噂の渦のなかに溺れてしまう。

物語中で語られる噂はおたがいに関係がなく並置されている。そして噂を俯瞰する視点はない。複数の噂がおしゃべりのなかに浮かんでは、時に連想によって他の噂を引き起こしながら、いつのまにか会話から消えてゆく。そうしたことの繰り返し。すべての記述が必ず「誰か」の視点を経由していて、さらに「誰か」の経由が複数にわたる。噂は、つまり、さまざまな人物の視点のなかをさまよっているのだ。「私」は、子供としてそれらの噂を敏感に受動する立場としているか、その場から遠く隔たった時間のなかにいて傍観しているかのどちらかである。いずれにせよ、その場に明確な意志をもった存在ではない。ただしすべての噂は「私」に聞かれており、そしてその「私」もまた、今の「私」から見られている存在である。弱く、繊細でありながらも、全体を彼女の視線が貫く。しかしその「私」もまたひとつの噂の中心に存在するというように、語り/語られること、また、見る/見られることの関係が重層的に錯綜する空間が織りあげられる。この空間はたしかに読み解きにくい。しかしどうだろうか。噂の空間の記述として、これほどまでに自然に感じるものはなかなかないのではないか。少なくとも私はすんなりとこの空間に侵入し、ひたることができる。

こうした並置でも包含でもあるようなものごとの関係を、「T邸」では住宅における家族間の関係性に適用してみようとしている。家族はそれぞれが個人である。しかしながら日々の関わりによって、それぞれが独立した個人とはいいがたい不可分な関わりがつくりだされる。そうした家族というあつまりの、両義的なあり方にふさわしい住宅の形態を探しているのかもしれない。ソファにすわる。そのまわりにソファを中心としたひとまとまりのしつらえに囲まれる。ふと周りをみる。開口部の向こうには、勉強机が斜で見えている。そこでは子供が勉強をしている。ふたりは物理的に隔てられていない。だけどわずかな角度の差が、おたがいのふるまいの心理的な距離を強調する。そして、ソファにすわる人物は入れ替わる。ソファから見られていた自分は、今度はソファから見ている。ふるまいは空間にばらまかれているようである。しかし行為と視線は交錯し、時間の経過とともに重層的な光景を生み出す。私たちがいま、自然に感じているはずの家族間の距離に自然に沿うのは、そうした並置でも包含でもあるような関係を結ぶことができる光景なのだと思う。機能であるとか、最小限であるとか、そうした建築的説明で語ることのできない光景をどのように言葉のうえで肯定していくのかわからない。ただ、「噂の娘」の空間が、私にとって非常に自然であるように、「T邸」が家族にとって自然なものとしてあればよいと思っている。視線の交差、錯綜、それが許される家族のための空間である。そうしたものは公共には生まれえない。というより、必要とされない。親密な場であること。やはり住宅というのは、そのことを担保すべきプログラムなのだから。

座標変換から生じる生体変形のモデル 引用図版=ダーシー・トムソン『生物とかたち』 (東京大学出版会、1973)

座標変換から生じる生体変形のモデル
引用図版=ダーシー・トムソン『生物とかたち』
(東京大学出版会、1973)

「T邸」平面図 提供=乾久美子建築設計事務所

「T邸」平面図
提供=乾久美子建築設計事務所

>乾久美子(イヌイ・クミコ)

1969年生
乾久美子建築設計事務所主宰。建築家。

>『10+1』 No.45

特集=都市の危機/都市の再生──アーバニズムは可能か?