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多様性 その一 | 日埜直彦
Multiplicity 1 | Hino Naohiko
掲載『10+1』 No.45 (都市の危機/都市の再生──アーバニズムは可能か?) pp.46-48

「諸体系の体系」、つまりそのなかでは、それぞれが他のすべての体系を条件づけ、同時にまた他のすべての体系から条件づけられているという、そういう一つの体系★一


これまでカルヴィーノの講義が扱ってきたのは、多かれ少なかれ文体に還元可能な文学の質だと言ってもよいだろう。例えば軽やかな文体、俊敏な文体、正確な文体、視覚的な文体といった具合に。だがカルヴィーノが次に取り上げる多様性はそれとは少々異なる。多様でありうるのは文体というよりも、ある種の網羅性と包括性を持つように構築された「作品世界」である。これまでカルヴィーノは例えば軽さを問題とする時に同時に重さの価値にも目を向けていた。軽さは重さの対立項としてその相対的な効果を発揮するもので、にもかかわらずとりわけ軽さを取り上げたのは、近代小説が背負い込んだ重さの霊から文学の可能性を解き放つがためであった。しかし多様性を扱うこの講義において、単純性のようなその対立項は登場しない。カルヴィーノがここで提起している多様性とは、文学の長い歴史のなかで比較的最近開拓された新しい領域だからである。
「多様性」というタイトルには注意が必要かもしれない。一般に多様性と言えばおおむね英語のdivercityに近い意味になるだろう。だが今回の講義の原題はmultiplicityであって、多数性とか多面性というようなニュアンスも含む。つまりここで問題になっている多様性とは、文学作品が内に秘める「作品世界」の様相の複雑さ、多層性、その広がりのことである。
一個の文学作品が独特の世界観を持つこと自体はさして珍しくない。あらゆる言葉は使い回しの紋切り型であるほかなく、どんな言葉も日常的な言語使用に裏打ちされてはじめて意味をなす。しかしそれがある文章に結びあわされ、叙述が積み重なって一個の文学作品となったとき、そこに固有の内的世界が立ち現われるだろう。その作品独特の世界観、こんな世界があるかもしれないというイメージ。なにもファンタジーやSFばかりがそうであるわけではない。事実に基づくルポルタージュの類いであっても、結局は広く共有されている現実感覚を共感の基礎としているだけで、しばしばそれも通俗的フィクションでしかないのだ。文学は多かれ少なかれある視野の提示であり、その視野がいくらか世界観に似ても不思議はない。
だがこうした可能性を徹底的に押し広げ、単なる視野の提示にとどまらず、作品を世界そのものと同じほどに複雑で豊かなものとしようと試みる文学作品がある。固有の自律的ダイナミクスを備えて物事が進み、どこか荒唐無稽なのだがそれなりの首尾一貫性を備えて、結局世界と同じほどに緻密に編み上げられた文学作品だ。カルヴィーノがここに引き合いに出しているのは、ムージル、プルースト、ヴァレリー、ボルヘス。ムージルの『特性のない男』やプルーストの『失われた時を求めて』が遂に決定稿に至らなかったように、それらはしばしば作家の一生を賭す長大な作品となる。例えばドストエフスキーの長編小説が物語の終結へと向かうドラマツルギーに方向付けられているのに対して、そこでは筋書きなどさして重要ではなく、ただひたすらある世界、ある人物、ある生が展開する。

プルーストもやはり、その百科全書的な長編小説の完成を見ることが出来ません。しかしそれは構想がなかったというのではなくて、というのも失われた時の探求という考えそのものが、始まりも終わりも全体の流れも、すべて一緒に生まれてくるものだからなのですが、その生命力を持った仕組みそのもののせいで、作品はその内側からどんどんと生い茂り、枝分かれしてゆくというためなのです★二。


巨大な遺跡に覆い被さった土ぼこりを刷毛で丹念に取り去っていくかのように、一ページ読み進めるたびにその威容はすこしづつ明らかになるのだが、その全体像はなかなか明らかにならないだろう。こうしてきりのないディティールを辿りながらその持続が世界の確固たる実在感を感じさせる。だが必ずしも長さそのものが絶対に必須であるというわけではない。ヴァレリーの『テスト氏』もボルヘスの多くの作品も短編小説集といった体裁であり、ほとんどの場合個々のテクストはせいぜい数十ページ程度に過ぎない。だがボルヘスが言うところの「無限の出来事を限界あるカタログに書き留める」離れ業は、こうした掌編にその物理的な長さにとどまらぬ無際限な感覚を与える。ムージルやヴァレリーの場合はほとんど数学か論理学の証明のような厳密さが行き渡り、透徹した精神がほとんど形而上的とでも言うべき世界を体現する。ボルヘスの場合はこれとはやや違って土地の伝承や奇譚が物語の濃密な背景をなし、あらゆることはあらかじめ定められた宿命であるかのように進む。いずれの場合も固有の世界を成り立たせている法則、因果が厳然と存在する。そうしたモノが作動することで、文学作品は物事の生起の記述であるよりも、むしろ物事の起こる場の成り立ちを組み立てるだろう。ある意味でこのような文学作品における独特の論理を、なにかのスポーツのルールのように考えることができるかもしれない。なにが起こりえて、なにが許されないか。時間の観念とはいかなるものか。悦びはどこにあるのか。こうしたさまざまなルールが体系的に絡み合い、それが稼働することであるゲームが構築される。もちろんスポーツと違ってそこに勝ち負けはなく、ただひたすら固有の世界が克明にそこに記されるだけなのだが。

ところでいつの頃からかはっきり言えないのだが、建築を説明する時にこれと同じようなスポーツのルールという例えを眼にするようになった★三。建築のプログラムとセットで存在する制度とは結局のところあるスポーツのルールのようなものではないかというわけだ。そのルールの束、つまり制度を一気に変えることは現実に困難をともなうが、解きほぐされた一つひとつのルールはちょっとした習慣に過ぎず、その変更はさほど難しくはない。そしてまたルールのちょっとした変更が触媒のように他のルールの機能を変質させることがあり、そうした連鎖がついにプログラム全体の様相を変容させるに至ることもある。もちろんルールの波及効果は場合によって強弱はあるだろう。それが空間にどれほど影響を及ぼすかは着目点次第だろうが、一般にその変更が具体的であればあるほど空間の質的変化も具体的になるようだ。
ルールという言葉をフィクションと言い換えてもよい。フィクションに則って人は生きることができるし、意識的だろうがそうでなかろうが実際そうしているのだ。建築は人間の生活を定める仮構=フィクションの一部であるだろうし、具体的な局面においてあるフィクションを受け入れるかどうか判断することはそう難しいことではない。あるオルタナティブなフィクションが提示されてしまえば、それまで疑いもしなかった決まり事がフィクションのひとつに過ぎないことが明らかになり、結局は選択の問題となってしまうのだから。
そうして変容を遂げた建築は言わばひとつのフィクション=現実と表裏一体となる。それを世界と言って据わりが悪ければ、環境と言ってもよいだろう。ひょっとするとこれはかなり画期的な変化なのかもしれない。というのもanthropomorphismという言葉があるように古典的な建築は基本的に主体の反映として組み立てられてきた。ケビン・リンチやシュルツのように建築が生活環境としてわれわれの世界を組み立てているという指摘は古くからあったが、しかしそれは言わば派生的な効果として意識されたにとどまるし、しかもそれは建築そのものというよりも建築を含むある風土において考えられてきたに過ぎない。だがわれわれは建築をそのまま一個の世界の具現化として作ることを意識している。建築はイデーの具現化ではなく、ある可能的な世界の実体化でありうるのだ。

パリの狭いアパルトマンに住むテスト氏の精神は完全に近代的人間のそれで、ミースが思い描いたように有限の身体の一方で自由理性の働きによって世界を生きようとする。彼の精神はユニヴァーサルスペースに生きていると言ってもよいだろう。しかしそうした生がある一方で、どことも知れる暗闇に、あるいは白々と明るい一室に佇むベケットの小説の名もなき登場人物は、最低の身体と最低の精神しか持ち合わせず、それにさえ倦みつくして、順列組み合わせめいた生を消尽する★四。このまったく異なる二人の世界の間にあらゆるグラデーションが位置付けられるだろう。ルールが機能するものである限り、いかなる選択も任意である。

ファンズワース邸現場写真
引用図版=八束はじめ『ミースという神話』(彰国社、2001)</画像>

★一──イタロ・カルヴィーノ『カルヴィーノの文学講義』(米川良夫訳、朝日新聞社、一九九九)一六五頁。
★二──前掲書、一七二頁。
★三──例えば『建築20世紀』(『新建築』二〇〇一年一一月号臨時増刊、新建築社、)一三五頁。
★四──ジル・ドゥルーズ、サミュエル・ベケット『消尽したもの』(宇野邦一+高橋康也訳、白水社、一九九四)。

>日埜直彦(ヒノ・ナオヒコ)

1971年生
日埜建築設計事務所主宰。建築家。

>『10+1』 No.45

特集=都市の危機/都市の再生──アーバニズムは可能か?