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フィクションとアレンジメント | 日埜直彦
Fiction and Arrangement | Hino Naohiko
掲載『10+1』 No.37 (先行デザイン宣言──都市のかたち/生成の手法, 2004年12月発行) pp.44-45

真に現代的と言いうる建築家にアレンジメントへの強い関心が見られるようになってきているのではないだろうか。ダイアグラムは九〇年代から建築を構想するうえで重要なツールとなってきたが、これと相前後して、抽象的な模型がプレゼンテーションの主役を担うようになっている。こうした模型が提示している建築の三次元的な構成をここで特にアレンジメントと呼んでいる。アレンジメントは建築を単純化し、建築の成り立ちとその姿を、言葉によるのではなく、具体的なカタチによって提示する。かつて建築の模型は、俗に「白模型」あるいは「木模型」などと呼ばれるように、比較的地味な単一素材で作られることが多かった。これに対し最近のそれは、しばしば実際の建物よりも強い印象を与える特別な素材で作られ、しかもいくつかの素材を組み合わせることで、提案されているアレンジメントがなにを実現しようとしているかを雄弁に語る。

アレンジメントが建築の構想のうえで重要な意味を担うようになった背景には、その三次元的な形態が言葉で表現するにはあまりにも複雑すぎるというような現実的な事情もあるだろうが、より根本的には現代の建築を取り巻く状況の変化への対応という側面があるのではないだろうか。
前回述べた編成的指向とは、共有されたフィクションに基づいて進行する構想のプロセスであった。国家のような地域的なものであれ、世代的なものであれ、あるいは職能集団的なものであれ、どのような共同体にもそれを結びつけるフィクションが存在する。なにも神話のような物語的フィクションばかりではない。現実のある解釈としてのフィクションは、会話し、合意し、協調する社会的基盤として個人に還元できない集団的水準を持つ。フィクションはそれと意識されることなく現実と表裏一体になり、それなしには現実を見ることができないようなものである。しかしそのようなフィクションが懐疑の対象となり、つねに他者のフィクションを意識せずにはいられない状況──現代的状況をこのようなものとして捉えることができるだろう。
フィクションはリアリティに対するある解釈であるが、これに対してアレンジメントは解釈されるべき、いわばより低次の対象である。あるアレンジメントをどのように解釈するかはその立場によって異なる。しかしどのみち立場を超越して俯瞰的に全体を見ることなど誰にもできないのであれば、各々の立場から勝手にそれを理解し、不満がないことさえ確認すれば、その解釈が相互にどれほど食い違っていようと問題はない。アレンジメントは、最終的に実現するであろう建築と同様に、それぞれの立場からそれぞれに認識・評価されるような対象である。
リサーチ、分析、ダイアグラムのような手段が現代の建築の構想における重要な手段になったということは、建築の前提としての社会それ自体がむしろ検証されなければならないということを意味している。社会そのものが全体性を喪失し、いたるところに不可視のゾーンを孕んでいる。けっして整然とした組織だったものではない。むしろ不均等で、相互に矛盾し、思いもよらぬところに非公式な連絡が見られるだろう。そのような状況において建築に体裁のよい全体像が自ずと浮かび上がるわけもない。事実アレンジメントの威力が発揮されるのは、一種の離れ業、大胆な三次元的構成と、取り繕う余裕などないむきだしの構成においてである。アレンジメントを前にして問うに値することは「これは果たして機能するだろうか?」ということ、それ以上でも以下でもない。そこに現われるのは、伝統的な意味における建築の全体像というよりもむしろ、単なる姿である。フィクションはそもそも現実の複雑性を縮減する機構であり、一貫性のあるホモジニアスな全体像の原基である。これに対しアレンジメントにそのような包括性は期待されない。というよりもむしろ、アレンジメントはそのような縫合ができないからこそ必要になる。フィクションの一貫性に対して、アレンジメントにおいては内部の複雑な関係性が前景化するだろう。ヘテロジニアスなブロックの組み合わせがどのような固有の可能性を実現するか、アレンジメントは独特の固有性をそれぞれに提示しているのである。
ルイス・カーンが厳かにフォームギバーとしての自負を語っていたとき、彼はあらゆることが語られた後にそれを昇華するフォームを与えた。それはまさしく決定的であり、そこで営まれる生活に形式を与える包括的な基準として示された。しかしいまやフォーム(≒アレンジメント)は最初に与えられ、その後にあらゆることが始まる。不平を言うのも、魅了されるのも、すべてその後の話だ。気に入らなければ捨て去られ、気に入ればそこからすべてが始まる。こういう言い方が許されるならば、それは善悪の彼岸にある。選び取られ、肯定されるべきものとしての生、あるいは生きられるべき実験としての生、なかばニーチェ的、あるいはドゥルーズ的生のイメージと言ってもよいかもしれない。思いつく限りのアレンジメントからある特定のアレンジメントを選択すること、アレンジメントは箇条書きにされた潜在的な可能性のひとつであり、どのような潜在性を現実化するべきかが選択される。

ホモジニアスな全体からヘテロジニアスなアレンジメントへの移行の、別の領域における実例として、ミハイル・バフチンがドストエフスキーの小説から抽出したポリフォニックな詩学はきわめて示唆的である。古典的文学のモノローグ的性格、つまり作者が作品全体をコントロールし、作者の表現のために作品の各部分が奉仕するようなあり方に対して、バフチンは登場人物がそれぞれに独特の内面を持ち、その関係が結果としてひとつの作品を構成するようなあり方を提示した。

ポリフォニーの本質は、まさに個々の声が自立したものとしてあり、しかもそれらが組み合わされることによってホモフォニー(単声楽)よりも高度な統一性を実現することにある★一。


古典的な建築に一種のホモフォニー性というものが想定できるとすれば、それに対してアレンジメントを鍵とする現代的な建築をポリフォニックと形容することもできるのではないか。「高度の統一性」という表現が現代建築にふさわしいかどうかは別としても、バフチンが言うポリフォニーは建築におけるアレンジメントの可能性を評価するうえで重要な尺度を与える。アレンジメントの各要素、すなわち個々のブロックは固有の論理をそなえ、建築はそれらが結び合わされるフィールドとなり、アレンジメントにはブロックに還元されない固有の可能性が現われる。
そうしてみたとき、現代建築が構成主義を中心とした初期の近代建築を参照してきたことは意味深く思われる。構成主義は新たな条件を反映した新しい現実の創出に向けた試みであった。当時の生産手段を反映してそのエレメントはあくまで単純なヴォリュームであった。しかしそこにいかなる要素でも代入することができるとするならば、ポリフォニックな建築はそこからそう遠くはない。斜行し湾曲したスラブ、リフトされた表層の凝った量塊、各機能部分を浮かす媒質、あるいは強引に全体をかたちづくる大屋根やラッピング。異物であることを強調された多彩なブロックを貪欲に併呑していく現代建築は相当な悪食である。風変わりなものであれ見慣れたものであれ、ブロックはそれぞれに当為にかなうようにしつらえられ、ブロックの自律的性格が強まることで分裂的な内圧が高まる。それらを統合する形式はもはや静的なシステムとはほど遠く、機能の大胆な機能的構成が強引にブロックを結びつけ、いたるところ不均衡な空間があちらこちらに析出する。かつて全体の秩序を刻印していた要素の分節は、ブロックの異質性を露悪的に見せつけるだろう。アレンジメントが現出させる固有の姿が、現代建築に独特の強度を与えている。それは古典的な建築の調和からはほど遠く、一種の機械状の組織をなす。
こうして見たとき、現代建築は、八〇年代の「ポストモダン建築」よりもよほど正当な意味で、ポストモダンな世界へと足を踏み入れていると言うことができるのではないだろうか。われわれはそのことを現在どれほど意識しているだろうか?


★一──『ドストエフスキーの詩学』(望月哲夫+鈴木淳一訳、ちくま学芸文庫、一九九五)四五頁。

>日埜直彦(ヒノ・ナオヒコ)

1971年生
日埜建築設計事務所主宰。建築家。

>『10+1』 No.37

特集=先行デザイン宣言──都市のかたち/生成の手法

>ルイス・カーン

1901年 - 1974年
建築家。