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データベース映画 1 | 堀潤之
Database-Cinema 1 | Junji Hori
掲載『10+1』 No.37 (先行デザイン宣言──都市のかたち/生成の手法, 2004年12月発行) pp.31-32

レフ・マノヴィッチは、製作面でコンピュータ化が目に見えて進行した近年の映画において何が本当に新しくなりうるのかを分析した最近の論文で、デジタル特殊効果をふんだんに用いたハリウッドのスペクタクルと、低予算のデジタル・ヴィデオを用いた「ドグマ95」のような動きを最近の対極的な流れとして捉え、それらが映画史において必ずしも新しいものではないとしたうえで、記憶メディアに貯蔵された膨大な量の情報と、それにアクセスするためのインターフェイスからなる「データベース映画」の可能性を示唆している。各種記憶メディアの容量が飛躍的に増大した現在、たとえば「何千もの登場人物の完全なeメール・アーカイヴ」や、「監視ヴィデオ、デジタル化された旧来の映画、ウェブカムの伝達情報、その他のメディア・ソースの巨大なアーカイヴ」を生のまま保存しておき、それらの素材からソフトウェアがリアルタイムで物語やショットを生成する「小説」や「映画」が、理論的には実現可能であると言うのだ。実際、マノヴィッチは〈ソフト・シネマ〉という、データベースからの一種の自動物語生成プログラムを試作している★一。
しかし、データベース/インターフェイスの二層構造という発想は、取り立てて新しいものではない。話を映像作品の文脈に限っても、たとえばグラハム・ワインブレンが八〇年代初頭から構想していたインタラクティヴ映画も、潜在的な複数の物語の流れが用意されていて、鑑賞者の操作によって、そのうちのひとつの流れが顕在化するという仕掛けだった★二。そもそも、マノヴィッチも言うように、古典的な映画作品は、撮影した全素材からなるデータベースが提供する無限のモンタージュ可能性から、ただひとつの可能性だけが顕在化したものにほかならない。その意味で、すでに映画というメディアそのものが、データベース/インターフェイスの二層構造を潜在的な形で含み込んでいるのである。
映画史にはしばしば、その潜在的な構造に自覚的で、「データベース」と「ナラティヴ」という対極的な要素を融合させているような作品が存在する。マノヴィッチは、リニアなナラティヴを回避し、数によるデータの配列を好むピーター・グリーナウェイの作品(『英国式庭園殺人事件』といった映画作品から、一九九五年にミュンヘンで映画誕生一〇〇年を記念して行なわれたインスタレーション《階段、ミュンヘン、プロジェクション》まで)と並んで、ジガ・ヴェルトフの『カメラを持った男』(一九二九)を「モダンなメディア・アートにおけるデータベース的想像力の最も重要な事例」としている。大雑把に言って、一九二〇年代のモスクワなどにおける都市生活の断片的映像の集積からなるこの作品は、「通常は静態的で客観的な形態」であるデータベースを、「動態的かつ主観的」なものに転じているという★三。
かつてメディア・アートの領域でよく見られた分岐構造型のインタラクティヴ映画は、記憶メディアの容量の増大に伴って、データベース型の作品に移行しつつある。そのような動きが、今後、映画と融合していく可能性は少なくないだろう。しかし、その時、アクセスされるべきデータベースが単なる「静態的で客観的」なデータの集積であっては、いかにインターフェイスに工夫が凝らされていようと、作品としてはおもしろみに欠けるのではないだろうか? マノヴィッチが映画の未来的な形態のひとつの可能性として提示しているヴィジョンが、果たして有効なものたりえるのかどうかを、ここでは映画史に存在する「データベース」の事例からいくつかを取り出しながら吟味してみたい。

一九九四年に『シンドラーのリスト』を撮り終えたスティーヴン・スピルバーグは、同年、非営利団体「ショアー財団」(Survivors of the Shoah Visual History Foundation)を設立する。この組織は、ホロコーストの生き残りや目撃者へのインタヴューをヴィデオ撮影して、そのアーカイヴを作る目的で設立され、続く約六年間で、五六カ国に住むおよそ五万二〇〇〇人の人々のインタヴューが集められることになる。ひとりにつき、およそ一時間半から二時間のインタヴューがなされているため、収録時間の総計は一一万七〇〇〇時間に及ぶとされ、一日に八時間ずつ見ても、全部を見るには四〇年かかる恐ろしく巨大なデータベースである。
ゴダールの『愛の世紀』には、「スピルバーグ・アソシエイツ」なるハリウッドの映画製作会社の交渉担当者が、黒人の女性秘書を率いてブルターニュにやって来て、第二次世界大戦中にレジスタンスとして活動していた老夫婦の回想録の映画化権を手に入れるための交渉をするシーンがある。契約条項をチェックするためにその場に居合わせた老夫婦の孫で、法律家の卵であるベルトは、「アメリカ人作家」という言葉に突っかかる。彼女の言いがかりを要約すれば、南北アメリカ大陸の国々にはそれぞれ住民の名前がある(ブラジル人、メキシコ人、カナダ人……)のに、いわゆる「合衆国」の住民には固有の名前がない。だからこそ、彼らはヴェトナムで、サラエヴォで、他人の物語=記憶を買いあさるのだ、ということになるだろう。このゴダールならではの強引な批判は、直接的には『シンドラーのリスト』に向けられているが(交渉担当者は老夫婦にこの作品のカセットを渡すが、ベルトは「シンドラー夫人は一銭も払われずに、アルゼンチンで惨めに暮らしている」と毒づく)、暗にショアー財団のプロジェクトも揶揄の対象になっていると考えられる。
ゴダールが批判する通り、このプロジェクトはかなり問題含みのものだ。最大の問題点は、インタヴューの内容が、あまりにも画一化・形式化されていることである。まず、生還者や目撃者は、インタヴューを受ける前に、四〇頁にわたる分厚いアンケート用紙を渡され、生誕地、教育、戦時中の経験、家族構成などの項目を記入しておく。そこに、ショアー財団のトレーニングを受けたインタヴュアーが派遣されて、戦争の前、最中、後の状況についてインタヴューが行なわれ、それがヴィデオ撮影される。このようにして集められたデータは、デジタル化され、さらに町や村などの地名や、収容所生活の描写(時間感覚についてなど)のおよそ三万におよぶキーワードによって、インデックス化・カタログ化される。
もちろん、このプロジェクトが、真摯な目的意識を持って、デジタル・テクノロジーを有効に活用し、きわめて便利で意義のあるデータベースを構築していることは疑い得ない。教育目的のために、インターネット2を用いた配信なども計画されている。しかし、画一化されたインタヴュー方式およびカタログ化は、どこか警察が調書を取るときのような「権力の視線」を感じさせずにはいない。この膨大な証言データベースの一端は、財団のホームページ(http://www.vhf.org/)や、ハンガリー出身の五人の生き残りに焦点を当てた長編映画『最後の日々』The Last Days(ジェイムズ・モル監督、一九九八)で見ることができるが、後者の作品は、データベースから抽出された証言の内容に合わせて、ホロコーストのアーカイヴ映像がほとんどプログラムによって半自動的に選び出されているかのような様相を呈しており、それぞれの生き残りの固有性が、単なるデータに還元されているという印象を払拭することができないのである。
ショアー財団のプロジェクトが、デジタル・テクノロジーを駆使して、「静態的で客観的」なデータベースの構築を目指したものであるとすれば、クロード・ランズマンによる約九時間のドキュメンタリー映画『ショアー』(一九八五)は、それとは根本的に異なるコンセプトに基づいて作られている。まず、可能な限り、それぞれの生き残りの固有性が重視されている。インタヴュアーを務めるランズマンは、画一化された背景(主に生き残りの自宅)で撮影されるショアー財団のプロジェクトとは対照的に、各人の事情に合わせて、彼らが証言しやすいような、時にはつらい証言を強いるような状況を作り出している。第二に、ランズマンが三五〇時間分のインタヴュー映像を、九時間に編集していること。スピルバーグのショアー財団が、ひたすらデータを貯め込むことを目指しているとするなら、ランズマンの『ショアー』は逆に、徹底的にデータを切り詰める作業を行なっている。『ショアー』は、監督であるランズマンの徹底して主観的な立場からのデータベースの再構築が目論まれているのだ。彼は、傍観者であるポーランド人に対する批判的な姿勢や、親イスラエル的な立場(彼の三部作の残りの作品──『なぜ、イスラエルか?』と『ツァハール』──を通して見れば明らかだ)を隠していないが、逆に『ショアー』という作品は、バイアスのかかったデータベースを提供しているからこそ、作品として興味深いものになっているのである。
私がこの二つの「データベース」的な試みの対比を通じて問いかけたいのは、何らかの「記憶」をデータベースとして扱うとき、そのデータが画一的で整然としたものである場合、決定的な何かが失われてしまうのではないか、ということだ。「データベース」型の映像作品が増えつつある現在、単に記憶容量の増大に身を任せて膨大なデータを貯め込むだけでなく、あえてデータを「動態的かつ主観的」に切り詰めるほうがよほど効果的な場合もある、という当たり前の事柄を再確認しておく必要がある。

1──〈ソフト・シネマ〉のデータベース

1──〈ソフト・シネマ〉のデータベース

2──データベースから生成された動画作品 《Mission To Earth: Part 12c》 出典=レフ・マノヴィッチ〈ソフト・シネマ〉

2──データベースから生成された動画作品
《Mission To Earth: Part 12c》
出典=レフ・マノヴィッチ〈ソフト・シネマ〉

3──ジガ・ヴェルトフ『カメラを持った男』 出典=『MICHAEL NYMAN'S MAN WITH A MOVIE CAMERA』 (Asmik、2004)

3──ジガ・ヴェルトフ『カメラを持った男』
出典=『MICHAEL NYMAN'S MAN WITH A MOVIE CAMERA』
(Asmik、2004)


★一──レフ・マノヴィッチ「リアリティ・メディア──DV、特殊効果、ウェブカム」(『Inter Communication』No.50、NTT出版、二〇〇四)。また、〈ソフト・シネマ〉に関しては、マノヴィッチ自身によるホームページ(http://www.softcinema.
net/)で概略を知ることができる。
★二──グラハム・ワインブレン「物語の流れの海の中で」(『InterCommunication』No.51、NTT出版、二〇〇四)を参照のこと。
★三──Lev Manovich, The Language of New Media, MIT Press, 2001, pp.237-243.

>堀潤之(ホリジュンジ)

1976年生
関西大学文学部准教授。映画研究・表象文化論。

>『10+1』 No.37

特集=先行デザイン宣言──都市のかたち/生成の手法