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討議:バルセロナ・オリンピック──都市の成長と発展 | 梅岡恒治+岩元真明+今浦友恵+今井公太郎+今村創平+日埜直彦+吉村靖孝
Barcelona Olympic, The Growth and Development of Barcelona City | Koji Umeoka, Masaaki Iwamoto, Tomoe Imaura, Imai Kotaro, Imamura Sohei, Hino Naohiko, Yoshimura Yasutaka
掲載『10+1』 No.43 (都市景観スタディ──いまなにが問題なのか?, 2006年07月10日発行) pp.64-72

梅岡+岩元+今浦──今回、「現代思潮研究会」においてオリンピックによる都市改造をテーマに研究がなされることになりました。そのなかで、都市がどのように成長・発展をし、どのように計画されてきたかを概観する必要性を感じたことから、オリンピックと関連するひとつの都市を取り上げ、研究することになりました。
そこで、今回はバルセロナの成長と発展を取り上げることにします。その理由としては、バルセロナが一九九二年のバルセロナ・オリンピックと関連して都市再生を果たしてきたこと、そしてその都市再生が世界的に評価されていることが挙げられます。今回は、バルセロナの都市誕生から現代に至るまでの都市史を概観することで、現代において都市を計画するということを考えてみたいと思っています。
それでは、以下バルセロナの都市史を概観していきたいと思います。
 

ローマ植民都市バルシーノ

B.C.一世紀に、地中海交易の要衝として、ローマ植民都市バルシーノ(Barcino)が生まれました。バルシーノは、バルセロナの基礎であり、現代に至るまで都市構造に影響を与えています。ほかのローマ植民都市と同様に、カルドとデクマヌスという互いに垂直な都市軸を持ち、最初の都市核は幅三〇〇m、一一haでした。南北軸に四五度振られた都市軸は、一九世紀後半の、バルセロナにおける最大の都市計画であるセルダ・プランの母胎と言えます。バルシーノの市壁は、三世紀頃に完成しました。
三─四世紀の間、バルシーノは発展を続けました。街はローマ市民権を獲得し、四世紀にはキリスト教が公認されて、バシリカが建設されました。しかし、五世紀以降、バルセロナには最初の受難が訪れます。アラブ世界とガリア世界の境界に位置するバルセロナは、抗争の中心となります。五世紀にはトゥールーズに支配され、その後シャルルマーニュの支配下に置かれます。八世紀前半にはムーア人の侵略を被ります。しかし、そのようななかでも九世紀にはムーア、フランク族の双方から自立した伯爵位が誕生し、バルセロナはカタロニアの中心都市として再出発しました。この頃、市壁の外でも郊外が発展を始めます。

中世都市バルセロナの拡張

しかし、九八五年、街の発展は中断されます。コルドヴァのカリフ、al-Monsurに侵攻され、街は破壊されました。街は、中世都市としての復活を余儀なくされます。
一二世紀半ばになると、「カタロニア」という言葉が定着しました。カタロニアの中心都市として、バルセロナの重要度は上昇します。一三世紀に一〇〇人審議会(The Counsil of 100 Jurors)が発足し、複雑化した街に自治がもたらされます。都市の発展とともに、市壁の内側の人口過密が問題となり、壁の外で郊外が東方へ拡張します。これら新しい開発を守るため一二六〇年から第二の市壁の建設が始まりました。一三〇haを囲い込む市壁の中では、カタラン・ゴシックが壮麗を極めます。
一三六五年に、初の人口調査が行なわれ、住居数七六四一、総人口三万四三八四人が記録されました。一三五九年には西部郊外を囲むべく第三の市壁の建造が始まります。一六世紀中盤に完成した市壁は幅六km、二一八haを囲い込み、ラバル(Raval)とシウタデラ(Ciutat Vella)という、現在に至る都市核を形成しました。二つの地域の狭間にはランブラ(Rambla)という、バルセロナ初の公共のオープン・スペースが創出されました。

失われた世紀、市壁への閉じこめ

一四世紀以降、バルセロナは地中海沿岸の主要な都市に成長します。郊外では、サント、オルタ、ポブレ・ノウ、サント・ゲルヴァーシなどの水利の良い街が急速に発展しました。しかし、一六世紀後半から、バルセロナは「失われた一〇〇年(The Lost Century)」を迎えます。カタロニアの自治は、マドリード主導の官僚支配と対立し、重税に苦しみます。反乱と弾圧の歴史がここには見られ、度重なる紛争のなかでバルセロナは地中海における支配権を失います。一八世紀に入るとスペイン継承戦争が勃発し、一七一四年バルセロナはフェリペ五世に敗北し、ハプスブルク家の支配下となりました。一七一六年に新計画法(Decreto de Nueva Planta)が制定され、この時点でカタロニアはその自治権を失いました。街の二〇%を破壊してシウタデラという要塞が建設され、軍事進入禁止区域が都市周縁に設置されました。また、シウタデラの要塞の外側では、大砲の飛距離で規定された幅一・二五kmの区域において、すべての工事が禁じられました。サント、ポブレ・ノウ、グラシアなどの周縁都市の、バルセロナに向かった成長は、軍事進入禁止区域によって止まります。街の西部のモンジュイック(Montjuic)の丘は、軍事進入禁止区域となったため開発が中止されました。一七〇〇年の段階でおよそ四万人が壁の内側に抑留されている状態であり、高密度が余儀なくされました。シウタデラの建設に伴う住宅の欠乏を補うべく、バルセロネタ(Barceloneta、ニュータウン)が建設されます。そこでは、フランスの技術者によって、人口制御のための兵舎モデルが採用されました。

1740年のバルセロナ 引用出典=Barcelona: The Urban Evolution of a Compact City

1740年のバルセロナ 引用出典=Barcelona: The Urban Evolution of a Compact City

バルセロナの近代化とセルダ・プラン

産業革命は都市史上最大の成長をもたらしました。街の人口は、一七八〇年代には一一万二〇〇〇人にも及びます。一九世紀初頭から近代化が始まると、人口密度の上昇は熾烈さを増しました。一八五六年、街は限界を迎え、市壁は歓喜のなか破壊されます。その時の人口は一五万人、ひどい住環境でした。衛生、生活水準は著しく低く、労働者階級の平均年齢は一九・七歳。この状況を打破すべく、一八五九年に都市計画の大規模なコンペが行なわれ、セルダの案が採用されました[図1]。
一八五四年から都市計画に着手していたセルダ・プランの特長は、「都市核の衛生・生活水準の向上」「近代的な交通網への適合」「バルセロナ平野への大拡張」の三点です。そのなかでも、均質なグリッドを用いた都市の大拡張は、特筆に値します。新計画法(一七一六)によって取り残されていた広大な軍事進入禁止区域が、バルセロナ史上最大の拡張を可能にしました。一一三・三m角のブロックと、幅二〇mの街路は、ローマ都市核のグリッドと同じく、南北軸に四五度振られています。
同時に、主幹道路、対角線道路などの大スケールの都市動線も計画されました。セルダ・プランは、一八六四年、一八七六年、一八九二年と、時を渡って法整備され、実現に向かっていきます。
同時期、郊外ではサント、ポブレ・ノウ、エル・クロートなど、主要な鉄道網に位置し、水利が良い街が工場地域として発展しました。

1──セルダ・プラン 引用出典=Barcelona: The Urban Evolution of a Compact City

1──セルダ・プラン 引用出典=Barcelona: The Urban Evolution of a Compact City

大都市バルセロナと、カタロニアのアイデンティティ

バルセロナは、一八八〇年代に急速に経済発展を見せました。サント、グラシア、サント・アンドリュなどの都市は、急激な工業発展と人口増加ののち、一八九七年から一九二一年の間にバルセロナ市へと併合されます。周辺都市の併合に伴い、各セクターの結合が問題となり、一九〇三年には中心と周縁を結ぶ計画のコンペが行なわれました。一等となったLeon Jausselyの計画(Jaussely Plan)は、セルダ・プランの等方向性への明白な反抗であり、斜めや対角線要素を挿入することで都市間を結ぶ試みです。この計画は、形を変えながらも一九一七年まで実施されました。
都市の急速な成長は、カタロニアの民族意識をも高揚させます。一八八〇年代から、カタロニア復興運動が活発化し、建築家はカタロニアの「ナショナル・アーキテクチャー」を模索しました。一八八八年の万博は、そのひとつの到達点であり、ロマネスク建築にナショナル・アイデンティティを求めたElias Rogent(バルセロナ新建築学校校長)はカタロニア建築の礎をつくったと言えます。世紀末には、モデルニスモが興隆します。モデルニスモは地域的アール・ヌーヴォーの範疇にとどまらず、カタロニアのナショナル・キャラクターを探求します。また、その時までに八〇〇〇の住居を完成させていたセルダ・プランへの理解が見られます。ガウディ、ドメニク・イ・モンタネルがその代表格として活躍しました。
しかし、二〇世紀に入ると、モデルニスモへの反動が起こります。ノウセンティスム(Noucentisme)は、エウヘーニオ・ドールスによって命名された芸術運動で、古典主義的であり、理念として汎地中海主義あるいは国家主義を主張します。一九〇一年に政権を獲得したRegionalist Leagueの思想的根幹の一部であり、二〇世紀初頭にはノウセンティスムがカタロニアのアイデンティティを代表するようになります。モンジュイックの丘で行なわれた一九二九年の万博は、ノウセンティスムの影響によって、古典的色彩が強いものとなりました。

一〇〇万都市バルセロナ、GATCPACの活躍

一九二〇年から一九三〇年の間に、バルセロナでは人口が四一%増加し、一〇〇万人を超えました。一九四〇年まで地方からの移民は増え続け、都市周縁の工業地域は無計画を露呈し、スラム街が拡大します。未来派グループやダダイストは形骸化した、伝統主義的なカタロニア文化へ批判を集中させました。この新しい状況下で、三〇年代にモダニズムの建築家グループGATCPAC(Grupo de Arquitectos y Técnicos Catalanes por el Progreso de la Arquitectura Contemporánea=Group of Spanish Artists and Technicians for the Promotion of Contemporary Architecture)が生まれ、ル・コルビュジエの弟子、ルイ・セルトが中心となって、バルセロナの近代都市モデルを提案しました。その過程で、ル・コルビュジエも積極的にバルセロナへと関わっていきます。一九三二年には、アテネ憲章に結実したCIAM第四回会議「機能的都市」の準備会がバルセロナで行なわれました。その準備会に参画することで、バルセロナの若い建築家たちは、近代都市計画に感化されます。結果として、アテネ憲章が純粋に結晶化したような、マシア・プランというバルセロナのモデルが提案されました[図2]。
マシア・プラン(一九三二─三六)は、ル・コルビュジエのアルジェやブエノス・アイレスの計画に類似項を見せながらも、セルダ・プランを歴史的に再解釈する計画でもあります。セルダのグリッドのちょうど三倍のスーパーグリッドが、都市のヒエラルキーの最高位として導入されたのです。ここでは、アテネ憲章で強調されたようなゾーニングを積極的に用いつつも、既存の都市構造への研究と理解が見られます。
また、マシア・プランでは低層高密最小限住宅のプロトタイプが、ル・コルビュジエによって提案されました。

2──マシア・プラン 引用出典=Barcelona: The Urban Evolution of a Compact City

2──マシア・プラン 引用出典=Barcelona: The Urban Evolution of a Compact City

灰色の戦後、メトロポリスの形成

一九三四年に起こった政権交代により、フランコが実権を握るようになりました。そして、一九三六年から三九年まで市民戦争が起こります。このような混乱した状態のなかで、一九四〇年代には都市問題が看過され、住宅問題が大きな問題として浮上してきます。そのため、この問題を解決すべく一九四五年にようやく都市計画局が創設されることになりました。
戦後、このようにして都市計画が見直されるようになり、一九五三年広域計画、一九五九年部分計画が策定されました。広域計画は、市街部と広域圏(コマルカ)という領域設定をし、それらをひとつの核とした集合体としての都市圏を設定するものでした。そして、そのひとつの核を計画するために設けられたのが部分計画です。
 

民主化の波と都市計画の旺盛

一九六〇年代に入ると、フランコの独裁は和らぎ、近代主義的原理を批判する建築家同盟「グルーポR」が現われます。彼らの特徴は都市計画に着目したことで、その創始者のひとりであるオリオル・ボイガスは後に都市計画局長になります。
しかし、このような活動がなされるのとは裏腹に、都心部開発による周縁部住宅地の住環境悪化や、工業分野の凋落は止まらず、規制のゆるい都市計画が続きます。 
そんななか、一九七五年にフランコが死去することで、国レヴェルでの政権交代が起こりました。そして、その結果一九七六年にビオラがバルセロナ市長となり、大都市総合計画(Pla General Metropolita、以下PGM)が市議会を通過することになります。
PGMは、広域計画の破綻、住環境の悪化を背景として、住宅密度の大幅縮小、公共空間の増加、コミュニティに対する土地確保のための土地区分システム「システム」、高幅員道路の敷設と港湾・海岸両方の整備を目指したものでした。
しかし、旧市街地を更新しようとするこの計画は住民の反発を受け、改善を求められます。そして、一九八〇年から始まるバルセロナ・モデルと呼ばれる都市再生に繋がっていくことになります。

バルセロナ・モデルとは

一般にバルセロナ・モデルと呼ばれるバルセロナの都市再生を賞賛する呼称は主に、主に一九八〇年から始まる一連の都市計画のことを指します。
バルセロナ・モデルの戦略の特徴は次の三つに要約できます。①部分から全体へ、②質を確保したうえでの量的発展、③難しいところからの着手です。
まず、①部分から全体へは、オリンピック以前には広場・公園のデザインといった小規模な計画が主だったものが、オリンピックの開催決定を機に周縁住宅地や、旧市街地再生を目指す都市的戦略になっていったということです。
次に、②質を確保したうえでの量的発展は、①の部分から全体へと並行して、質の高いデザインの小規模なものから、オリンピック開催による大量投資を契機とした開発の量的な拡大のことを指します。
最後に③難しいところから始めるというのは、旧市街地や工場地区といった疲弊し、住民の合意形成の取りにくい場所から改善していくというものです。
また、これらの戦略を成り立たせるための方法として、バルセロナの都市再生ではマッスだけでなく、ヴォイドに焦点を当て、官が空間を民が建物を受け持つという官民協働の枠組みがうまく機能したということも忘れてはならないことだと言えます。

バルセロナ・モデルの展開(オリンピック以前)

このようなバルセロナ・モデルがどのような経緯を経て実現していったかを次に見ていきたいと思います。
一九八〇年に都市計画局長になったオリオル・ボイガスは市街地再生特別計画(PERI)を策定して、PGMの改善を図ります。そんななか、オリンピック誘致が決議され、一九八六年にオリンピック開催が決定され、バルセロナはEC加盟を果たします。
その後、オリンピック開催に向け、都市のインフラ整備が進み、環状道路や空港増築がなされます。また、四つのオリンピック用地を含む「一二の新都心地区」の計画がなされます。そのひとつのポブレ・ノウ地区は海岸に沿い、荒廃した工業地域で、オリンピック村の施設を建設することで改善されようとします。
また、旧市街地西側にあるラバル地区でもリチャード・マイヤー設計による現代美術館建設やオープンスペースの確保などによって、劣悪だった環境が魅力ある場所へと変貌していきます。
そして、一九九二年オリンピックがバルセロナで開催されます。具体的に建設地区と施設を見ていくと、まず、市内北西にある大学都市のディアゴナル地区では、郊外スラム地区であった場所にスポーツ施設が建設されます。北東郊外の山裾にあるバャジェ・デ・エブロン地区では、都市スプロールが進んだ場所に、サイクリング・トラック、テニスとスポーツのパヴィリオン、報道陣のためのアパートが建設されます。モンジュイックの丘では、メイン会場が置かれ、建築と緑と公園を総合的に計画したオリンピック・リングが建設されます。この三つに加え、先に述べたオリンピック村地区を合わせて四つの地区がオリンピック会場となりました。
投資に関してみてみると、中央政府がバルセロナ都市整備に必要な一兆円近くのお金の五〇%を負担しています。また、その内訳は一二%が競技会場全体、三六%が環状道路、二二%がオリンピック村ということになっています。さらに、オリンピック村開発にあたっては、公共投資と民間投資の割合が約四対六ということになっており、投資に関しても官民互いに分担がなされていたことがわかります。
このような官民協働の理想的な事例として、バルセロナ・オリンピックは見ることができますが、一方で計画至上主義的な都市開発が民間開発を抑制してしまったということも言われています。また、住宅整備に偏り、サービス産業の受け皿が不足していることもオリンピック後問題となりました。

バルセロナ・モデルの展開(オリンピック以後)

オリンピックでの教訓を経て、バルセロナの都市計画を担うことになったJ・A・アセビーリョは、都市開発をマーケットに委ねることにします。彼は、ポブレ・ノウ地区の条件の悪いベソス河口一帯を工場跡地からビジネス拠点へと変化させようとします。しかし、民間ディヴェロッパーに任せた計画は途中で頓挫してしまい、市場主義の欠点を露呈してしまいます。
このポブレ・ノウ地区は今後も再生のための開発対象地となり、「文化フォーラム二〇〇四」開催のために、ポブレ・ノウ地区東側海岸部のディアゴナル・マル公園が計画されます。しかし、この時も民間開発であったため、公園がフェンスで囲まれ夜間使えないなどの問題が起こったりしています。その一方で、「文化フォーラム二〇〇四」開催に向けた施設建設は勢いを止めることなく、ヘルツォーク&ド・ムーロン、MVRDV設計のメイン施設やジャン・ヌーヴェル設計の高層ビルなどが建てられることになります。
これらの都市再生に続き、さらにバルセロナは「22@bcn」プロジェクトで、ポブレ・ノウ地区再生を再び試みます。この「22@bcn」では、計画重視のオリンピック村と市場重視のディアゴナル・マルの教訓を生かし、官民協働のモデルを模索し、町工場と住宅混在エリアをIT、文化関連事業へと産業構造転換しようとします。具体的には、更地にして建て替えるというクリアランス型ではない再開発を目指し、規制不適格の住宅を合法化したり、一律ではない容積率緩和を行なっています。また、行政が六つの対象地区を選び、地元工科大学と連携して計画を行なっています。
しかし、このような官民協働の実現は、行政と民間双方からの不満が募るという結果を招くことになりました。

バルセロナの今後

以上見てきたバルセロナ・モデルは、その根底で都市計画関連法制度と都市共同体思想に支えられていました。
都市計画関連法制度は、主に三つの特徴がありました。一つ目は、民主化後の市当局に都市計画に関する幅広い権限が与えられたということ。二つ目は、数値規制を基本とするゾーニング制度に一元化せず、形態規制を併用したこと。三つ目は、土地所有者の権利のみならず土地を都市的に利用する場合の義務が明示されていることです。
ゾーニングについて日本と比較すれば、日本の場合、全国一律のゾーニングであるのに対し、スペインでは各都市ごとに独自のゾーニングを持っています。また、バルセロナでは、一一のゾーン区分がありますが、用途指定があるのはひとつだけで形態規定が主であるということも特徴的です。
また、ほかの欧州の国とスペインを比較した場合、八〇年代に欧州が規制緩和の道へ進んだのに対し、スペインは計画を重視し、開発速度は遅れたかもしれないが民間投資に振り回されなかったことも、バルセロナの都市計画を成功させた点であると言えます。
次に、バルセロナ・モデルを支えた都市共同体思想ですが、その根本は「都市とは共同体の発現である」という考え方にありました。具体的に言えば、都市という共同体経営の原則は、都市的集積の便益に与る全市民が公平に都市建設のための賦役を負担するということです。このような共同体思想があったからこそ、バルセロナ・モデルの萌芽期に多重苦を抱える地区に公的支出を集中投下することに決定的反発がなかったのです。そして、その結果として、質の高い公共空間が創出されたことの波及効果が民間開発に浸透していったのです。
しかし、バルセロナは現在新たな局面に立たされています。それは、バルセロナ・モデルによって開発された地区内部の新たな問題、開発地区外部への影響、環境配慮型の都市モデルという三つの問題に起因します。
まず、バルセロナ・モデルによって開発された地区内部の新たな問題に関しては、ラバル地区の問題が挙げられます。ラバル地区は旧市街の西側に位置する現代美術館や現代文化センターなどの施設が建てられた場所です。このような市当局の施設建設によるラバル地区再生戦略は成功し、海外からの注目を集めることになりました。その結果、国外移民の流入を招き、ラバル地区に住む人たちの不満を募らせる結果となってしまいました。このような状況から、ラバル地区では、共同提案型の市民活動の母体である「トット・ラバル」が二〇〇二年に設立されました。そして、現在そこでは住民が集まって意見を交換し、ラバル地区を改善していこうという活動がなされています。
次に、開発地区外部への影響に関しては、「22@bcn」地区の問題が挙げられます。「22@bcn」地区は、IT・文化産業に関わる企業誘致に成功しました。しかし、その成功によって雇用機会がバルセロナに集中してしまい、近隣中小都市から通勤する就業者の増加を招くことになってしまっています。
最後に、バルセロナが狭義の環境配慮型の都市計画ではないという問題についてです。バルセロナ・モデルは確かに既存市街地を残しながら開発をし、都市を再生させることに成功しました。しかし、都市のグリーン化という点ではほかの都市に遅れをとっていると言わざるをえません。また、郊外における環境破壊は進む一方で、車社会がこれを促進している状況です。
このような三つの問題から現在のバルセロナの問題を考えると、難しいところから問題解決に取り組むという局所的な都市計画が孕む、広い地域的視野の欠如ということになります。この地域的視野の欠如は、複合的かつ広範囲に発生する環境問題を生み出してしまうことは言うまでもありません。このように見てくると、今後バルセロナに求められることは、バルセロナという単体の都市だけでなく、スペインの中のバルセロナ、ヨーロッパ都市の中のバルセロナという視点を持つことであると言えます。
今後バルセロナが、世界の都市の中でどのような位置を占め、発展・持続していくのかということは、バルセロナ・モデルで成功しただけに注目していく必要があると言えるでしょう。

バルセロナ都市図 http://www.bcn.es/cgi-bin/pt.pl?url=/guia/welcomea.html&i=iをもとに梅岡恒治作成

バルセロナ都市図 http://www.bcn.es/cgi-bin/pt.pl?url=/guia/welcomea.html&i=iをもとに梅岡恒治作成

参考文献
●福川裕一+矢作弘+岡部明子『持続可能な都市──欧米の試みから何を学ぶか』 (岩波書店、二〇〇五)。
●Joan Busquets, Barcelona: The Urban Evolution of a Compact City, Harvard University Graduate School of Design, Nicolodi, 2005.

バルセロナ年表 作成:梅岡恒治

バルセロナ年表 作成:梅岡恒治

討議 | 今井公太郎×今村創平×日埜直彦×吉村靖孝×梅岡恒治×村井一

オリンピックと都市問題

今井──発表にあったように、バルセロナ・オリンピックは当初から都市改造・都市再生を目論んだものでした。近代オリンピックには国威発揚をはじめとする政治的なテーマがつきものですが、都市改造を実現したのはバルセロナ・オリンピックが初めてだったと言ってよいでしょう。二〇一六年のオリンピックにエントリーしている福岡や東京もこの効果を期待してもよいわけで、バルセロナはその事例として位置づけられるわけですね。ところで、バルセロナは都市問題をストレートに解決する方法としてオリンピックを招致したように思われます。成熟した日本の福岡や東京ではどのような展開があるのでしょうか。
梅岡──バルセロナ・モデルの明確なコンセプトのひとつに、難しいところから着手するというものがありましたからね。都市改造を謳う点では同じようにみえます。
今村──ヨーロッパでいう「悪い地域」というのは、例えばシリアスな犯罪が多発し、スラム化が進んでいるような場所のことです。それら「難しい」問題をクリアランスする好機としているわけですね。でも日本の場合にはそこまですさんだエリアはないから、問題設定は異ならざるをえないでしょうね。例えば、東京の構造と光景を一変させた一九六四年のオリンピックを基準に設定することもできるかもしれません。そうした意味で、二〇一六年の東京オリンピックでは、例えば前回の代々木公園などのうまくいっているエリアをあえて使うのはかえっておもしろいかもしれませんね。
今井──二〇一六年の東京オリンピック招致案では、都市博の残滓をなんとかしたいという意図が読み取れる。ほかに考えられる選択肢として、犯罪が巣くうスラムもない東京では、改造という考え方をどう組み立てられるのか。良い地域/悪い地域という基準だけで見てしまうと、候補地を見つけるのは難しい。
今村──災害に弱い地域というのはありますね。地震に耐えられないとか、消防車が入れないとか。
今井──日本のそういう場所、例えば京島などは古くなり自壊が始まっていて、そのなかに新築の高層マンションがどんどん建ちはじめている。地域の再開発というにはタイミングを逸している感じはあります。
今村──ともかく、バルセロナはわかりやすい(笑)。例えばロンドンは、ローマ時代に始まって以来、その後ズルズルと発展を続け現代の姿になりました、という説明にしかならないと思いますが、バルセロナでは時代ごとに転換していくように明快に説明できるというのは、特有な歴史を持っているからですね。
吉村──アムステルダムもそうですね。アムステルダムでは各年代の都市計画レイヤーが全部残されているので、ドライヴしてひとつひとつをトレースすることができます。その意味でメカニカルというか、アーティフィシャルな都市だと思います。
今村──セルダの案を完成したという事実には驚きを覚えます。計画はそれなりの予算があって始まるし、コンペだから案はたくさん出たのでしょうが、あの案を良しとした市民の許容力も大きいでしょう。東京も明治維新期に始まって数々の都市計画案が描かれたけれど、ああした規模のものは実現しなかった。ロンドンもそうです。クリストファー・レンが一六六六年のロンドン大火後にオスマンのパリのような計画案を描くわけですが、実現しない。イギリス人は曲がった道が好きなわけです。東京に比べれば小都市であるバルセロナですが、港区・品川区・目黒区・渋谷区あたりの四、五区に渡ってグリッドを引いちゃうようなものですからね。一八世紀に急拡大した都市に特有の、一九世紀の手法なのかもしれない。ワシントンやニューヨークも一九世紀にできたグリッド都市ですからね。
吉村──バルセロナは人口一六〇万と小さいけれど、日本の一六〇万規模の都市で同じことができるかというと無理ですね。規模だけの問題ではない。都市に対するイメージの仕方が違うんでしょう。ヨーロッパの人は都市をフィジカルなものとして見ているように思えます。

「都市の記憶」「体験体」としてオリンピック

今村──バルセロナの場合、オリンピックの前後にさまざまな都市整備がなされたわけですが、予算の三六%もが環状道路に投資されているんですね。
今井──面と線ですよね。エリア全体をつくるということと、それらをつなぐ線をつくるということ。点であるモノは簡単にできるけれども、難しいのは面や線をつくったりすることじゃないですか。それは東京も同じでしょう。
今村──三六%というのはかなりの力の入れようです。それはそもそもそれまでのバルセロナの交通効率が悪かったからですか?
梅岡──ロンダデミル内部環状道路が完成したのは二〇〇二年です。今回参照した、福川裕一+矢作弘+岡部明子『持続可能な都市──欧米の試みから何を学ぶか』には「内部環状道路は、市場経済を受けて拡散する都市モデルと持続可能なコンパクトシティ・モデルの緊張を表わしている」というようなことが書かれています。
今村──あくまでオリンピックを契機に都市計画を見直したと。
今井──さらに言えば、オリンピック用のまとまった施設によってゾーニングが変わるじゃないですか。それによって、当然場所をつなぐ線の意味が変わってくる。つまり、オリンピック後の開発に自動的に繋がっていかざるをえないわけですよね。
日埜──どちらにしても主催者はオリンピック競技会そのものをやりたいだけじゃないですよね(笑)。今や都市開発を含めた経済効果なきオリンピックはオリンピックじゃないわけだから。
今村──東京の場合では、石原都知事もそういう言い方をしていますね。あくまでも都市再生のためにオリンピックを使う。オリンピック関連の本を読むと、そういう考えは不純だとありますが(笑)。昨日、TNプローブでリチャード・バーデット(ロンドン市長の都市計画諮問機関メンバー)の講演がありました。話によると、ロンドン・オリンピックは都市計画であると明確に位置づけられているようで、オリンピックが主なのか従なのか、聞いていてわからなくなりました。日本では高度経済成長、メタボリズムのあとに都市計画が放棄されたようなところがあります。都市計画をもう一回やるということを肯定するかどうかじゃないかな。
今井──タームが違いすぎるんじゃないでしょうか。オリンピックは三週間だけれども、外環道路をつくって都市を活性化するという期間は何十年、一〇〇年と遠いヴィジョンなわけで。
日埜──世界陸上も開催地が世界を回っていますが、スタジアムをつくる話はあっても都市計画には話は及ばない。でもオリンピックとなるとそうはいかないわけですね。九州でやる、東京でやるということになれば、当然都市へのインパクトを建設的に考えていかざるをえない。戦争もまた都市を変容させるイヴェントですが、そういう意味で都市にとってオリンピックは戦争に近いインパクトがある。だけど、戦争とは違ってそれはコントロール可能です。
今井──都市を有形/フィジカルにあるものではなく、人間の主体に入り込んでくる体験体と捉えた場合、オリンピックは都市のイメージが組み立てられる要素として重要なポジションを占めるということでしょう。東京に限っていえば、六四年の東京オリンピックが現在の東京の記憶のある部分をつくっている。そう考えたとき、オリンピックの時間は三週間だけれども、「都市の記憶」としてオリンピックは重要なポジションを占めています。この体験体が東京の再開発にオリンピックをきっかけとしてもよい、という正当性を与えている。
村井──冷戦体制が終わって、オリンピック競技そのものからは、代理戦争的な意味合いが薄れてきているように思います。一方で放映権の獲得、商業、スペクタクルのほうにそのウェイトが移行しているのではないでしょ
うか。
日埜──でも次のオリンピック開催地中国は、メダルを取ることにやっぱり必死でしょう?
今村──今の日本はそもそも国威発揚みたいなところに興味がないのでしょう。昔のオリンピックは純粋にスポーツを競うアマチュアリズムから外れることを嫌っていたけれども、ロサンゼルス・オリンピック以降、スポンサーシップが露骨に入っています。さらに公に解禁されれば、施設建築にも俗な商業主義が入ってくるでしょう。オリンピックがそうやって資本を回収しようという動きに出ても不思議ではない状況です。膨大な数の取材陣や観光客にもっとお金を落とさせようとすれば、インフラをつくるより商業施設をつくったほうがいいという話にもなりえます。

オリンピック後のヴィジョン

今井──バルセロナの場合、スラムクリアランスは行政が行なったわけですよね。普通は第三セクターをつくって資本回収なんてことをするけれどね。ただ、街全体を良くして観光客を呼び込もうというヴィジョンがあれば、広場などのヴォイドも効果があるわけでしょう。直接的財源にはならないけれど、最終的に回収できると。
梅岡──「文化フォーラム二〇〇四」はビジネス会議や短期のレジャー・マーケット創造を目的にした都市計画でしたが、オリンピック時とは対照的に、この時にスペイン最大のショッピングモールができるのです。EUは毎年文化都市を指定して「文化フォーラム」を開くんですよね。オリンピックと同じように各国で招致合戦をしています。
日埜──ところで、バルセロナ・モデルというのは事業名なのでしょうか?
梅岡──はい、RIBA(王立英国建築家協会)のメダルを受けた事業です。九二年のオリンピックの際の銀行による投資も、バルセロナ・リジェネレーションモデルというモデルに対してでした。
日埜──そこにヒントがあるかもしれませんね。バルセロナの場合にカタロニアのコミュニティ意識の強さやローマ以来の自治都市の歴史が背景にあるにしても、このモデルが具体的にどういう形で組織化され、誰が議論することで実現したのか。それは伝統の問題ではなくて、現在形で機能している組織ですよね。おそらくそれにあたるものは今の東京に欠けている。石原都知事がそういう意味での組織を運営しているとも思えないし、これからそういうものが立ち上がるとしても、それが東京の何に動機付けられて成立するのか。そもそもその必然性は誰が共有しているんだろう。
今村──主体がわからないというのがバルセロナの場合とだいぶ違う。バルセロナでは民間側も特定の誰かというより、ギルドのようなネットワーク、民間の資本家同士が結びついて、そのうえで官民が一緒になってやったと思えます。また、東京はコンパクトなつくりを提案していますが、すでに複雑にできあがっている都市にあって、そのコンパクトさが都市を根本的に再生するほどのインパクトを持ちえるのか。どうなんでしょうか。
今井──その点でいえば、バルセロナのスラムクリアランスのように、ある部分を居住域でなくしちゃうことも選択肢のひとつでしょう。コンパクトにするために引き算してヴォイドを増やす。例えばそれが観光資源なのだ、本当の都市再生なのだという議論が共有されれば、それは長期的なヴィジョンたりえますよね。東京が観光地化することで困った事態になる既存観光地もあるでしょうが、東京も大阪も、最大の問題は観光資源がないということです。世界を見ても、行きたい場所のないメガロポリスはそうはないですよ。
吉村──東京が観光にそれほど経済的な必然性を感じていない、ということでしょう。観光立国という遠いヴィジョンのもとに最近では小泉首相も「東京を観光地にする」と発言しているけれど、今のところほかの産業で十分潤っているということなんじゃないでしょうか。ただ、海外の知人が来ても東京のどこに連れて行けばいいのか困るのは事実です。
今村──規制緩和によって巨大な商業施設ができ、都市が再生されたという議論があるけれど、それは一過性の現象に過ぎなのであって、そうではないロングスパンの都市再生をどう狙うかが問われているわけです。
日埜──どういう都市になるべきかという、主体的な問題意識を持てるかどうかですよね。それを例えば晴海の空き地の問題に矮小化してはならないわけで、「オリンピックを契機に」と合い言葉のように言うけれど、そこで描かれるべきヴィジョンはもっと大きなものであるはず。オリンピックのプランはJOCに対しての提案でもあるけれども、同時に福岡や東京という都市が自ら描く将来像でなければならないはずですね。
[二〇〇六年二月二八日、三月二八日]

>梅岡恒治(ウメオカコウジ)

1982年生
東京大学新領域創成科学研究科社会文化環境学専攻大野研究室修士課程在籍。建築・都市デザイン研究。

>岩元真明(イワモト・マサアキ)

1982年生
2006年シュトゥットガルト大学ILEK研究員。2008年東京大学大学院修了後、難波和彦+界工作舎勤務。2011年よりベトナム、Vo Troug Nghia社パートナー。建築家。

>今浦友恵(イマウラトモエ)

1983年生
東京大学大学院工学系研究科坂本研究室修士課程在籍。非住宅建築のLCCO2予測(年間空調負荷予測に関する研究)。

>今井公太郎(イマイ・コウタロウ)

1967年生
キュービック・ステーション一級建築士事務所と協働。東京大学生産技術研究所准教授。建築家。

>今村創平(イマムラ・ソウヘイ)

1966年生
atelier imamu主宰、ブリティッシュ・コロンビア大学大学院非常勤講師、芝浦工業大学非常勤講師、工学院大学非常勤講師、桑沢デザイン研究所非常勤講師。建築家。

>日埜直彦(ヒノ・ナオヒコ)

1971年生
日埜建築設計事務所主宰。建築家。

>吉村靖孝(ヨシムラ・ヤスタカ)

1972年生
吉村靖孝建築設計事務所主宰。早稲田大学芸術学校非常勤講師、関東学院大学非常勤講師。建築家。

>『10+1』 No.43

特集=都市景観スタディ──いまなにが問題なのか?

>ル・コルビュジエ

1887年 - 1965年
建築家。

>CIAM

シアム(Congrès International d'Architecture...

>ジャン・ヌーヴェル

1945年 -
建築家。ジャン・ヌーヴェル・アトリエ主宰。

>リチャード・バーデット

1956年 -
都市デザイン、都市政策。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス・アンド・ポリティカル・サイエンス教授。

>メタボリズム

「新陳代謝(metabolism)」を理念として1960年代に展開された建築運動...