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(非)同一性について | 平田知久
Of the (Un)Identified | Tomohisa Hirata
掲載『10+1』 No.43 (都市景観スタディ──いまなにが問題なのか?, 2006年07月10日発行) pp.57-58

コミュニケーションとはなにか。
「新たなコミュニケーションの座標軸」を模索するにあたって、この問いにはあえて触れずに連載を続けてきた。ここで、「コミュニケーション(communication)」を、「(熱などの)伝導」以上のなにものかを含む情報の伝達/交換を指し示す概念だと考えてみよう。そのとき、コミュニケーションとはなにかという問いは、先の「なにものか」がなにであるかを問うていることになる。そこにはこれまで、「意味」や「象徴」、「概念」や「真理」、果ては「イデオロギー」まで、さまざまなものが代入されてきた。また、とあるコミュニケーション、あるいはそのコミュニケーションが生起する装置=メディアには、この「なにものか」への代入の傾向(例えば、学校という装置におけるコミュニケーションには、真理が代入されがちである、等々)に応じて、さらなる言説が紡がれる=コミュニケートされる。つまり、コミュニケーションは連鎖する。
よって、もし「新たな」コミュニケーションの座標軸を模索するならば、その「なにものか」、あるいはそれを問う「コミュニケーションとはなにか」という問いかけやその答えが破棄される地点を原点とすべきであろう。連鎖するコミュニケーションを「新たなもの」とするのは、誤りだからである。
だが、それらの問いが破棄されるということは、ただ情報を流すことに終始するという点において、コミュニケーションを「伝導」とすることにほかならない。こうして、新たなコミュニケーションの座標軸を模索することのアポリアが姿を現わす。すなわち、「コミュニケーションとはなにか」を問い、そして問いかける限り、新たなコミュニケーションの座標軸に至りえず、それらが破棄され、新たなコミュニケーションの座標軸に立ったとき、そこに立ち現われるコミュニケーションには、コミュニケーションがまさにコミュニケーションであったところの「なにものか」が欠けている。
それゆえ、考察しなければならないのは、このアポリアと、それが形成される理由だということになる。そして、このことについて照準を向けてみたいのが、まさにコミュニケーションにかかわる「私」と「あなた(たち)」の同一性、あるいは非同一性である。

渡辺公三『司法的同一性の誕生──市民社会における個体識別と登録』(言叢社、二〇〇三)は、一見遠回りに見えながら、この課題に有益な陰画を与えてくれる。「一見遠回り」であるのは、同一性にかかわる人類学に対する(文化)人類学的批判という、もって回った論述の形式を採用しているため、同一性そのものが問いの俎上に載るまでに時間がかかり、なおかつそこで問われる同一性には──司法的、あるいは博物学/生物学的という限定はあるものの──、「『誰か』『何者か』という問いを一般化」した「アイデンティティ」という、あくまでも緩い規定しか与えられていないため、輪郭の素描にさらなる誌面が費やされる、ということに由来する。
ただし、同書の説得力もこの迂遠さにこそある。つまり、近代における同一性鑑定の外延を、身体(各部)の計測や指紋といった例を用いて提示し、同一性にかかわる人類学の像が実を結ぶ地点で、その像そのものを批判するという手順が、「市民社会における個体識別と登録」という副題以上のアクチュアリティを、「司法的同一性」に与えているのだ。しかし、右の論点を超える、この本の最大の魅力と慧眼は、「司法的同一性の誕生」が、同時にその破綻でもあることを、克明に記した点にある。
例えば、累犯者にまつわる偽名問題や刻々と移り変わる人の相貌(をその毎とらえた写真)の同一性鑑定問題に苦慮していた一九世紀後半のフランスに、この本の表紙絵ともなっている身体測定(骨格測定)という方法を携えて現われたベルティヨンは、測定値の(正当な)分類に腐心せざるをえなかった。また、ベルティヨンの分類の正当性に疑いの眼差しを向け、指紋による同一性鑑定という方法を確立したゴルトン、あるいはその方法の後継であるバイオメトリクスを用いる現代社会には、鑑定における誤認(誤作動)、あるいは複製との永続的な闘いが待っている。同一性鑑定には、まずもってこのような方法論上の破綻がある。
だがさらに、生きた人間に対してなされるべき同一性鑑定の根拠を、ベルティヨンは成人後、「死ぬまで決して変化しない」身体(骨格)測定値におき、ゴルトンは「生まれてから死ぬまで変化しない」指紋などの生体の断片におく、という内的な破綻がある。すなわち、変化を許容しつつ、変化の以前と以降を接続すべき同一性鑑定は、それが厳密化されるにしたがって、言わば同一性を蚕食しながら、変化を許容しない単なる事実としての「同一性」を鑑定対象に付与することになる。
そのため、渡辺の綿密な批判の筆が冴えれば冴えるほど、かえって次のような問いが首をもたげてくる。ベルティヨンやゴルトンらは、渡辺自身の表現を借りれば、なぜ「強迫観念」とも映るまでに、同一性鑑定の発展と整備に固執したのだろうか。あるいは、もう少し一般的には、なぜかくも人は他者の同一性の確定に固執するのだろうか。

渡辺公三『司法的同一性の誕生』

渡辺公三『司法的同一性の誕生』


この問いについて、その原因をベルティヨンやゴルトンらの正義感、(社会的名声を得るなどの)欲望、あるいは社会不安といったものに求めるのは、彼らの方法がある程度以上の犯罪抑止効果を持ったということ、一方がフランスの「今日の呼び方でいう鑑識部門の責任者の地位」に就き、他方が「イギリス科学界の大御所」となっても、まだ同一性鑑定の探求を止めなかったこと、また、社会不安がなぜ惹起されたかについて、さらなる説明が必要となることなどから、誤りとまでは言わないが不十分であるように思われる。
ここで捉え損なってはならないのは、「強迫観念」という言葉の語義であろう。そして、他者の同一性の確定に固執することの奇妙な、ややもすれば劇画的な引き受けの例として、木原善彦『UFOとポストモダン』(平凡社、二〇〇六)を参照することができる。
冒頭で木原自身が断るように、この本では「UFO」の実在/非実在が議論され証明されるのではない。行なわれるのは、主にアメリカにおける、「UFO」やそれに搭乗しているとされる「エイリアン」などについての証言や説明=「UFO神話」の傾向分析である。木原は、私たち(日本人)が想定する「現実」に対する「反現実」について、社会学者大澤真幸がなした「理想」「虚構」「不可能性」(ただし木原は「不可能性」を「諸現実」と言い直す)という区分に倣い、アメリカの「UFO神話」を、「空飛ぶ円盤神話」(一九四七─七三)、「エイリアン神話」(一九七三─九五)、「ポストUFO神話」(一九九五─)という三つの時代的特性として抽出してみせる。
また、各時代の特性は、「〇〇〇とは異なるもの」としてのそれぞれのエイリアンに如実に示されている。つまり、「空飛ぶ円盤神話」におけるそれは、(未来の)理想の人類像として、核の脅威を科学的に克服した人間の似姿であり、その理想が崩壊して以降の「エイリアン神話」におけるそれは、科学的に説明できない(と想定された)不可解な出来事や事象を裏で操る、多少なりとも虚構的に補填された不気味な形象をもつ「エイリアン」となる。最後に「ポストUFO神話」におけるそれは、もはや反現実ですらない、現実そのものにおける違和物としての、内分泌撹乱物質などである。
ところで、先にこの本の内容を、他者の同一性の確定に固執することについての奇妙な、劇画的な引き受けの例だと言っておいた。それは、「UFO」という単語を構成する「Unidentified」に、偽名や人の相貌からさらに拡張された他者の非同一性の様相があり、それでもなお他者の同一性の特定に固執するという営為についてだけではない。他者の同一性の確定についての破綻とその顛末、つまり、科学的に特定できないがゆえに「Unidentified」とされたものを、科学によって特定しようとして破綻し、最終的に単なる事実としての違和物を説明することに終始するという点においても、二つの本で描かれたことの同型性を見ることができるのである。
ただし、他者の同一性の特定への固執とその破綻の原因は、科学そのものにあるわけではない。科学はそもそも世界の事象や現象を説明するツールであり、可謬を肯定するからだ。おそらく、その原因は、他者の同一性を鑑定し確定する個人の同一性(アイデンティティ)に求められるべきだろう。つまり、私が私であることを撹乱する違和への防衛が、他者の同一性の特定への固執であり、その代償として単なる事実としての同一性、あるいは違和物を説明し続けるだけのものとなる、ということだ。
また、このことは、渡辺が人種的同一性の問題へと徐々に議論をシフトさせ、木原が僅かながら「アメリカのアイデンティティ」に触れつつ議論を構成したこととも関係するだろう。そこには、自浄の極みとしての優生学やホロコースト、あるいは単なる異分子同士の存在の確認表明に過ぎない多文化主義といった問題系があるように思われるが、ここでは措くことにする。

木原善彦 『UFOとポストモダン』

木原善彦
『UFOとポストモダン』

『宇宙人解剖フィルム』の一場面。 虚構的に補填された時代のエイリアンが映されている 出典=Frazier et al. eds., The UFO Invasion

『宇宙人解剖フィルム』の一場面。
虚構的に補填された時代のエイリアンが映されている
出典=Frazier et al. eds., The UFO Invasion


さて、最初の問題、つまり新たなコミュニケーションを模索する際のアポリアに、再度立ち戻ってみれば、それがこれまでに紹介してきた二冊の本と同じ道筋を辿った先に導かれるものだと確認できる。すなわち、コミュニケーションを私とあなたのあいだにおける「なにものか」の伝達/交換だと考えることによって、「なにものか」を共有するものとそうでないものを区別し、私は同一性を獲得する。そして、違和に対する防衛としてコミュニケーションを重ね=連鎖させるか、端的に情報を流すのみとなる。
だとすれば、このアポリアを回避し、新たなコミュニケーションの座標軸の模索を機能させるためには、私たちの同一性という概念、あるいはそれに規定されたあり方を別様にすることから始めなければならないことになる。では、それは、どのようにしてなされるべきなのか。このことに私自身いまだ答えが出ないがゆえに、これまでの連載で、本来忌避すべき同一性が維持しえない場合において、人が快をもつ可能性を、いろいろな分野のメディアから例示してきた。いまは、それらが皆さんにとって、戸惑いをもたれながらも快であったことを、心から願うばかりである。[了]

>平田知久(ヒラタ・トモヒサ)

1979年生
京都大学大学院文学研究科研究員(グローバルCOE)。近・現代思想、メディア論、コミュニケーション論。

>『10+1』 No.43

特集=都市景観スタディ──いまなにが問題なのか?

>大澤真幸(オオサワ・マサチ)

1958年 -
社会学。京都大学大学院人間・環境学研究科。