RUN BY LIXIL Publishingheader patron logo deviderLIXIL Corporation LOGO

HOME>BACKNUMBER>『10+1』 No.42>ARTICLE

>
開放系技術について | 石山修武
On Open-Tech | Ishiyama Osamu
掲載『10+1』 No.42 (グラウンディング──地図を描く身体) pp.175-185

石山──今日は前半で設計などの考え方のべース、後半では開放系技術を実際にどのように表現しているかについて話したいと思います。
初めに、ロケット開発の歴史について少々述べます。図1が一九二二年に作られた映画用のロケットです。一番右端にいるのが近代的なロケットの開祖者フォン・ブラウンです。図2が有名なV2で、ドイツからロンドンを攻撃したロケットです。最初のロケット開発、つまり技術の典型はアマチュアのロケット愛好家が始め、彼らはロケット研究所というアマチュアの組織を作りました。一九三四年にロケット研究所はナチによってストップされ、バウハウスを閉鎖するように、ロケットのアマチュアの団体を軍事産業に組み込み始める。それがそれからの技術の歴史を決定づけました。近代建築の歴史を考えると、ドイツのバウハウスの連中がアメリカに亡命した歴史、それからオフィスビルの歴史とロケット開発、宇宙飛行物体の開発の歴史は密接な関係があることに注意しておきたいと思います。一九一九年に始まったワイマール・バウハウスと、飛行物体の歴史が同じ歴史をたどっていることがわかり、非常に興味深かったんです。フォン・ブラウンはロケット研究所のチームを引き連れてアメリカに亡命しようとするのですが、途中で一部が捕まってソヴィエト連邦に連行され、彼らによってソ連のロケット開発の歴史が始まります。
一九六九年のアポロ一一号まではアメリカに行ったフォン・ブラウンのチームが発展させた技術でロケット開発、それから宇宙飛行が拡張していく。内的に深化するよりも拡張していく歴史で、アポロ一一号が月面着陸を果たしたとき到達点に達します。
二〇世紀の歴史は基本的にオフィスビルの歴史で、ニューヨークは資本主義社会が作り出した最終的な風景だと思います。一八八六年にフランスからアメリカの建国記念としてギュスターヴ・エッフェルの手による自由の女神が輸出され、その後続々とオフィスビルが建ち、一九七二年のワールドトレードセンターで至高点に達する歴史があったと思います。一九三一年のエンパイアステートビルの遠くにワールドトレードセンターがあります。超高層ビル、巨大オフィスビルの歴史の集積が現代の都市です。資本主義的な都市の風景は拡張に拡張を重ねている。拡張に拡張を重ねることはロケットや宇宙飛行物体も同じで、それに疑いを持たないという点で同じ現象だと思います。拡張に拡張を重ねていく、高く高く、遠くへ遠くへという歴史が二〇世紀全般にあったと思います。それで、二〇〇一年九月二日のワールドトレードセンターのテロがあります。これはイスラムと資本主義という対立構造で見られかねないのですが、ある意味でこれは超高層の歴史、あるいはオフィスビルの拡張に拡張を重ねた歴史、それから都市の歴史とボーイングという技術の結晶が対立したというよりも両方とも壊れた、クラッシュしたと思います。
一九七〇年にはアポロ一三号が宇宙船を月に着陸させようとして失敗し、修理を重ねて地球に帰還するというドラマがありました。この事件はひとつの技術観、あるいはその技術観を通しての世界観のターニングポイントではないか。これは建築の世界でもパラレルに起こっていると考えられると思います。一九七〇年のアポロ一三号の事件で、拡張に拡張を重ねていた宇宙飛行がそこで失敗して、故障して修理を要して、その際に非常に人間的な修理の仕方をする。その当時アポロ一一号のアームストロングが初めて月に着陸した時より感動し、故障した宇宙船を手作りで修理して帰ってきた様子を、地球上の相当の人口が映像を通して見ていました。
これは、当時のアポロ一三号の内部の風景です[図3]。ハイテクの塊、技術の成果の集大成だと思っていた宇宙船が故障し、それをリノベーションし修復して戻ってきた。こういう技術のあり方もあると思いました。修復する際には、宇宙飛行士に与えられた身の回りにある日用用品──宇宙船ですから高度に工業化された製品なんでしょうが──で宇宙船を修理して地球に還ってきたわけです。ロケットあるいは宇宙飛行物体は拡張に拡張を重ねたのですが、建築もそういうところがあるんですね。アポ一三号では大地から離れて高く高く、巨大に巨大にときた技術、歴史を修理しなければいけなかった。そして修理して還ってきたことに人類が共感を覚えた。そこに技術観のターニング・ポイントがあったと思います。開放系技術のひとつの仮説として還ってくる、修理する、リノベーションする技術ということを考えています。しかしモダニズム・デザイン、モダニズムというイズムによって拡張に拡張を重ねてきたものを革新的に直すことはなかなか難しい。われわれもずいぶん試みたと思いますが、成功しなかった例はたくさんありますが、そうでなくていき過ぎたものを修理するわけです。身近なものに引き寄せるところにひとつの技術のあり方があると、アポロ一三号の件は知らしめてくれたのではないかと思います。繰り返しになりますが、梱包用品みたいなものでスーパーハイテックの宇宙船を全部直したんです。ただしその時は通信手段は地球と宇宙船という、地球からのオペレーションによる情報伝達テクノロジーがあってできたんですけれど、高度に集約された技術による情報空間です。それを修理して何かに変えていくことをアポロ一三号という事件は知らしめてくれた。拡張の時代が終わったとは言いませんが、技術が拡張に拡張を重ねた、外へ外へと行っていたものが、内側に関心が向けられ始めたひとつのきっかけではないかと思います。スクラップ・アンド・ビルドで高く高く、巨大に巨大にという関心が、僕は基本的になくなっています。劇的な転換が来ていると思うのですが、技術が内に、大地に、場所へ帰ってくることに向けられたことは大きな事件だったと思います。私は一九七〇年代にアジアに旅してばかりいたことがあるんですけれど、そのときに読んだ本で強烈に印象に残っているのはスペインの碩学ルイス・ディエス・デル・コラールの『アジアの旅』です。コラールはヨーロッパの中心から少しはずれたスペインの哲学者です。コラールがカンボジアからマニラに行く際に上空一キロくらいからヒマラヤを見るんです。そのとき壮麗な夕日が出ていて、彼は現代はわれわれが一万メートルの高度を安全に飛べる。ここはアジアのブッディズムの発祥で、現在技術の助けを借りて高度一万メートルの高みからヒマラヤの落日をみている風景は、その頃仏陀が言っていたニルヴァーナや涅槃、悟りと言っている心的風景はこれくらいのものだと言っています。ここには技術を内的なものとしてとらえる見方がある恵いました。技術は本来そういうことにも向けられるべきだったと気づかせてくれたわけです。
戦争は技術にとってはコミュニケーションです。第二次世界大戦でドイツはタイガー戦車というすさまじい戦車を作るんです[図4]。フランスのルノーの技術とポルシェやドイツの様々なテクノロジーとのコミュニケーションがあり、バッティングします。これは第二次世界大戦ではっきりして、図5の下がメッサーシュミットというドイツの戦闘機ですが、ダイムラーベンツなどのエンジンを積んだ戦闘機です。図5の上はロールスロイス社が開発したマリーンエンジンを積んだスピットファイヤーというイギリスを代表する戦闘機です。第二次世界大戦でのヨーロッパの戦局はメッサーシュミットとスピットファイヤーの戦いだったのですが、これはダイムラーベンツとロールスロイスの戦いでもありました。平和な時代になった今でも経済戦争で続いています。技術は端的にそういう現われ方をするんです。日本にとっての第二次世界大戦はシンボリックに言うと、零式戦闘機とアメリカの戦闘機ムスタングの戦いだった[図6]。今ではトヨタとフォード・ムスタングの間の闘いです。技術同士がそういうところでコミュニケーションして、かつ競合し、痛烈に競争しているというのが少し前までの技術の世界だったと思います。

1──右側がフォン・ブラウン 石山修武研究室提供

1──右側がフォン・ブラウン
石山修武研究室提供

2──V2ロケット 石山修武研究室提供

2──V2ロケット
石山修武研究室提供

3──アポロ13号内部 石山修武研究室提供

3──アポロ13号内部
石山修武研究室提供

4──タイガー戦車 石山修武研究室提供

4──タイガー戦車
石山修武研究室提供

5──スピットファイヤー 石山修武研究室提供

5──スピットファイヤー
石山修武研究室提供


5──メッサーシュミット 石山修武研究室提供

5──メッサーシュミット
石山修武研究室提供

6──ムスタング 石山修武研究室提供

6──ムスタング
石山修武研究室提供


6──零式戦闘機 石山修武研究室提供

6──零式戦闘機
石山修武研究室提供

一九六〇年代にはヴェトナム戦争が始まります。アメリカはこの戦争までは健全に成長していて、バックミンスター・フラーやイームズがモダニズム・デザインのよいデザインを結晶させるのですが、ヴェトナム戦争によって崩れ始める。ヴェトナム戦争でアメリカは密林にすさまじい量の空爆をするわけですけれど、その時にナパーム弾を開発しています。
一九九一年の湾岸戦争から戦争の技術は見える戦車や飛行機などから見えない技術、電子技術に変化していく。戦争においても技術の現われ方の変化が顕在化しています。
二〇〇一年にアフガニスタン戦争がありましたが、そこでも使われたトマホーク、アメリカの量産型のミサイルは一発六六〇〇万円ぐらいします。六六〇〇万円のものをアフガンの砂漠に打ち込んでいるわけです。つまり勝つというよりも消費のためです。戦争は最大の消費で、技術は消費の場所を必要としていますから、アメリカは自動的に消費をやらざるをえない。そういうことが象徴的にアフガン戦争あたりから起きていると思います。
二〇〇三年のイラク戦争などは技術自体の自己消費のための戦争だということがはっきりしていると思います。もうすでに目的がない。
これは一九六七年のモントリオール万博のアメリカ館です[図7]。技術が拡張することが信じられていた時代のバックミンスター・フラーのひとつの結晶体です。バックミンスター・フラーはモントリオールの万博のドームに到達点を示しますが、このドームは七六年に焼けてなくなります。けれども技術の拡張、純化、自己目的のための進歩というアメリカの技術のひとつの結晶体だったと思います。フラー・ドームは日本にもあり、富士山頂のドームです。フラーはドーム理論やシナジーなどいろいろなことを発明したわけですけれど、ほとんどが軍事産業に使われました。僕もフラーに影響を受けて闇雲に真似をしたこともありますけれど、アメリ自体が持っていた限界をフラーは体現していたと思います。
コンラッド・ワックスマンというユダヤ系の技術者がスペースフレームの開発に一生を捧げるのですが、永遠に延びていく、どこまでも地球的スケールで延びていく数学の原理を追求します。ユダヤ人特有の原理主義みたいなものがあると思うんですけれど、無限に延びていくストラクチャーはないのか。でも結局使われたのは写真にある飛行機の格納庫です[図8]。日本においては丹下健三先生の一九七〇年の大阪万博の大屋根で、完全にワツクスマンの原理が実現されました。
コンラッドウックスマンはちょっと変なところがある人で、無限に延びていく単位のための接合部、Aという物質とBという物質をつなぎ合わせる接合部の探求に一点集約型に集約していく人です。そういう原理を求めていき、神秘主義的な錬金術師みたいな手つきがディテールなどに出てくる。
コンラッド・ワックスマンの接合部に関するスケッチ、トライアルです[図9]。非常に錬金術師的です。これがバックミンスター・フラーとちょっと違って、バックミンスター・フラーは宇宙船地球号と言って、観念としてのグローバリズムの始まりみたいな人なんだけれどもやはりアメリカの人だったんです。
高度な技術、あるいは結晶のような技術を目指していてもどうしても個別性が行き着くところまで行くと出るところが技術の面白いところではないか。しかもわれわれがモダニズムの中で言うデザインの概念とちょっと奥行きが違う。デザインで言われているそういう個別性あるいは個性と、技術家がもっている個性、個別性は、近代においては少し深みが違うという気がします。
一九五五年に東京大学でコンラッド・ワックスマンによる伝説的なゼミナールが開かれました。この影響は大きいものがあったと思います。東京中の大学からめぼしい学生がこのゼミナールに集まって、東大からは磯崎新さん、構造では川口衛先生、それからIDの榮久庵憲司さんたちがワックスマンゼミナールに参加し、触発されています。モダニズムの原理はこういうものなのかということをこのときに体験されたのではないかと思います。こういう技術教育、ある意味での歴史教育だと思うのですが、ちょっと今は見あたらないというか、そういう刺激はなかなか得られないというところが残念ながら少々あるように思います。
それから一九五〇年代、アメリカがまだよかった頃です。その頃アメリカの技術は高くて、例えば潜水艦に積載されたEMECO社で開発したアルミ製の椅子などは、椅子も兵器ですから軽さが追求された。そういうことが非常にドラスティックに重要なことだった。
余談ですが、僕は潜水艦に興味があったものですから、潜水艦「黒潮」に乗せてもらって内部に入ったことがあります。艦内は意外と新建材で作られているんです。もうちょっとハイテクでピカピカしているのかなと思ったら、ダイニングテーブルはデコラ張りだったりして、これで大丈夫なのかなと思いましたら、艦長さんが、このディーゼルエンジンの潜水艦が今世界でおもちゃだということはよくわかっていると言っておられました。それが「黒潮」という日本の最先端の潜水艦のインテリアにもよく表われていた。
話は飛びますけれど、フォン・ブラウンの宇宙飛行物体にまでたどり着く、拡張に拡張を重ねていく最初はアマチュアの団体だった。アマチュアグループがある程度発展して、ナチズムがそれをブラックボックス化しようとしたときに、彼とそのグループはアメリカとソ連に亡命したり、あるいは連行されます。初期近代建築の、特にバウハウスの連中、ミース・ファン・デル・ローエ、それからグロピウスもアメリカに亡命します。戦争の影響でアメリカに亡命して、アメリカ型ハイテック技術の始まりを作る。そしてハーヴァード大学、イリノイ工科大学、マサチューセッツ工科大学というラインをつくります。これらは戦争の影響です。日本ではブルーノ・タウトが来て桂離宮を評価すると、将軍の美学、天皇の美学と言って大きな影響を与え、今でも日光東照宮を好きだとはなかなか大きい声では言えない。やはり桂離宮がいいねと言わないといけないという感じの始まりをタウトが作っている。ブルーノ・タウトは亡命ではなかったのですが、日本を勉強していろいろなことを言いましたが、それで日本の文化的な価値観がだいぶシェイキングされました。
今までの近代の特色はまだ距離があったことです。日本とアメリカは遠い、日本とヨーロッパは遠いという距離があった。例えばマルクスは距離が経済活動を引き起こすと言う。距離は差異で、それが経済活動を引き起こす。A地点とB地点が距離が離れていることがさまざまな経済活動やあるいは戦争を引き起こすわけです。経済や戦争の根源にあるのが距離の存在だとマルクスは言うのですが、それは近代建築あるいはモダニズム建築で言うと、近代建築が持っているパースペクティヴ、実体的空間などは距離がまだ信じられていた頃のものの認識の仕方だと思います。
しかし、一九七〇年代に距離というのは怪しいと思ったことがあります。若い頃に材木屋をやっていて、経済と距離、場所の違いはなんとなくわかっていたのですけれども、七三年にアメリカからコンテナに住宅一軒を詰めて輸入したことがあるんです。これは日本で初めてです。この家には吹き抜けがあるとか、デザインがされているということでなく、僕にとっては住宅あるいは建築物はこういう風景です。ここに一軒の住宅のあらゆる部品があります[図10]。その時思ったことは、当時はまだドルが変動相場ではなく、一ドル三六〇円の固定相場でした。その当時アメリカから船で輸入するのに一三日かかり、運賃はだいたい一三〇〇ドルでした。今は太平洋間は一コンテナ──三軒の家が入ります──が二日間、五〇〇ドルです。東京から新潟に運ぶより安いんです。おかしいことが起きていると思いましたが、距離に経済が反映されていないんです。
現在のあらゆる最良技術は大量輸送手段に集約されています。情報もそうなんだけれど、大量に輸送する物に対して技術が集約されています。つまりアメリカ西海岸と日本東海岸の間の輸送に高度な技術が投入されている。それで結果的に五〇〇ドル、六万円程度で住宅三軒が運べるんです。同じくらいのものが台湾の高雄からだと八〇〇ドル、上海だと九〇〇ドルで、その理由は高度な技術が使われている船ではないから近いところのほうが高くなる。最良の技術が使われている船では短期間でどのような箱でもできます。そういうものが使われていないところではまだ旧態然とした値段で動いている。だからヨーロッパから持ってくるととんでもない値段です。それからアメリカの大西注序と取り引きしようとしたら、パナマ運河はなかなか使えませんから高価な陸上輸送をしなければならない。つまり、近い、遠いという距離よりも、技術がそこにどのように投入されているかで世界地図が歪んでくるのではないかと思いました。私の研究室では住宅価格の世界比較をやり始めていますが、とんでもない数字が出てくるんです。経済と実態としての距離、それから実態としての技術が微妙なあるいはドラスティックな歪み現象を起こしていることがこういう体験から直感的にわかってきました。これは建築のスタイルというより、現代とは何なのかと考えたとき、その歪みが重要になると思います。地球はもう丸くなく、変形して歪んでいる。特に経済を測定単位にすると非常に歪んでいるのが現代の特質だと思います。もっとすごいことが起きているんです。
通信としてのコンピュータ、インターネットでは距離が完全にゼロになっています。だから距離がゼロになっているという時代を生きなくてはいけないので、実態が把握できない、実態にあまり興味を持たないということになります。それがよいことなのか悪いことなのかわかりません。でも現実としては距離がゼロになっている。これは極端に言うと透視図法です。そうすると全部がフラットになり、焦点深度を持たない。言葉を換えれば、インターネット産業は基本的にはどんどん距離を消していき、出口と入口しかないキセル産業です。情報化時代の建築はみな考えていますが、距離がゼロになった時代、建築という実態さえも消えていくかもしれない時代の建築的イメージはまだよくわからない。

7──バックミンスター・フラー、モントリオール万博アメリカ館 石山修武研究室提供

7──バックミンスター・フラー、モントリオール万博アメリカ館
石山修武研究室提供

8──コンラッド・ワックスマン、格納庫 石山修武研究室提供

8──コンラッド・ワックスマン、格納庫
石山修武研究室提供

9──コンラッド・ワックスマン、接合部スケッチ 石山修武研究室提供

9──コンラッド・ワックスマン、接合部スケッチ
石山修武研究室提供

10──住宅部品のコンテナでの輸入 石山修武研究室提供

10──住宅部品のコンテナでの輸入
石山修武研究室提供

バウハウス、デッサウのモダニズム・デザインは距離のあった時代のテクノロジーの始まりでした。《サヴォア邸》(一九三一)です[図11]。これもまた今の時代から見ると幸いにして距離があった、距離という実態が価値基準になっていた時代の建築たったと思います。
モダニズム.デザインの箱というものはバウハウス・スタイルのように機能を包含するもので、モダニズム・デザインはそういう方向で健全に進歩してきましたが、同時に箱はタブーを封印する道具であったかもしれない。それは先ほどのアポロ一三号事件に対する視点を封印する。それから装飾も封印した。
この技術と歴史研究会は非常に大事な会だと思うのは、歴史ではなくて技術を編集していかなくてはならないということです。これは非常に遅れていると思います。それから歴史の編集を関係づけていく。技術と歴史を関係づけていくという視点が出てこないと世界を認識できないと思います。
建築から離れたので戻します。率直に言って、僕は現代建築や近代建築を馬鹿にして、大したことはないと思っていたのですけれど、二つだけ「まいった」と思ったものがあります。ひとつは一九七八年に作られたノーマン・フォスターの《セインズベリー視覚芸術センター》[図12]です。これはヨーロッパ型、特にイギリス型のハイテクが到達した最高峰だと思います。もうひとつは一九七七年に作られた、ルイス・カーンの《ブリティッシュ・アートミュージアム》です。これは僕が今まで体験した近代建築では最高峰だと思います。先ほどの《サヴォア邸》やバウハウスとは問題の設定のされ方が全然違っている。《セインズベリー視覚センター》は、イギリス型ハイテク建築と言われていますけれど、それでノーマン・フォスターがこの美術館で表現しようとしたもの、デザインとは何かと言うと、ノーマン・フォスターはいろいろな灰皿やヘンリー・ムーアの彫刻などを機械的仕掛けで、全部同じに見せようとしている。すべてに同じ光が届くように芸術的配慮がされている。だからユニヴァーサル・スペースという概念とは違っています。《セインズベリー視覚センター》では全部等価にみせようとするテクノロジーの現われ方をしている。イギリス型のハイテクではこれが一番極みに達していると思いました。香港上海銀行やお茶の水のセンチュリータワーはあんまり大したものではないけれど、《セインズベリー視覚センター》はそういう意味ではすごい建築だと思います。
ルイス・カーンの《ブリティッシュ・アートミュージアム》に行ったとき、ル・コルビュジエの建築の光とはまったく違うと思いました。ル・コルビュジエの作品では丸や三角といった形のある光が入ってくるんですが、カーンの《ブリティッシュ・アートミュージアム》では形がなくて、光の質が全然違う。これは何重ものトップライトの透明度、天窓のルーバーからエーテル状の光、ありえない光が入ってくる。フォスターのヨーロッパ型民主主義、とりあえずみな等価に見せようとするやり方とは全然趣が違う。これは先ほどコンラッド・ワックスマンの時に言ったように、ユダヤの神秘主義的な傾向がこの作品に出てきている。これはすごい建築だと思います。光の扱い方──それは必然的に空間の扱い方なんですけれども──はル・コルビュジエとは全然違う。これを体験すると、ル・コルビュジエはちょっと古いのではないかと思います。
ノーマン・フォスターの事務所では、フォスターが自慢するように所員もアルバイトも全部同じフロアで同じデスクで仕事する[図13]。自分も一番端で仕事をしている。みな同じなんだというヨーロッパ型民主主義です。《セインズベリー視覚センター》とノーマン・フォスターの事務所の現われ方はほとんど同じだと思いました。ロンドンの金融街に建っているロイズ保険の本社はリチャード・ロジャースの代表作ですが、イギリス人好みのハイテク建築です。経済のシンボルですから、当然クライアントはその国を表現できる最良の建築を選びます。イギリスは産業革命が始まった国ですから、機械と冒険小説が大好きです。機械好みで、この建築は完全に機械です。イギリスでは水晶宮に始まり、温室の歴史が延々と建築を支えてきたのですが、温室がビルの中に入っています。これがロイズ保険ビルの地下天井の照明です。電子の時代に、スイッチひねるとカメラの絞りみたいに開いたり閉じたりする。調光器で調節すればいいのに、機械です。リチャード・ロジャースは、機械ふうにやってみせるところに喜びを見出しているような気がします。だからこれはイギリス型技術、イギリス型建築的な技術の表現の仕方です。
イギリスの持っている技術観についてですが、ファンタジーのために技術を使うというところがあるんです。それが端的に表現されたのが、イアン・フレミングのスパイ小説を原作にした「ジェームズ・ボンド」シリーズです。この映画に登場する機械的なからくりはイギリス人しか考えつかないものです。このジェームズ・ボンドはイギリスのファンタジー好みの国民性のひとつの表われです。日本の近代建築黎明期において、東京大学にイギリスからジョサイア・コンドルがやってきました。コンドルはファンタジー好みで冒険好みで、そういう人が日本で近代建築を教えた。われわれの建築は非常に不思議な始まり方をしたのではないか、と思います。
これは丹下健三さんの初期の仕事の設備のパートナーだった川合健二の自邸です[図14]。丹下健三に川合健二を紹介したのは浅田孝で、環境という概念を日本で初めて作った人です。この浅田孝の甥が浅田彰です。川合健二に僕は二五、六歳ぐらいの時に会ったのですが、彼はバックミンスター・フラーのアジア版、名古屋版です。全部原理的に考える人で、日本では唯一の天才だと思います。この人の建築に僕は感動したんですけれど、これは建築法規第一条第一項に引っかかるんです。大地に基礎で固定されているのが建築物とされますが、これは砂利の上に転がっている。法律はこれを建築とも何者とも呼べないのです。あきらかに建築物ですが、住民税も不動産税もとれない。僕はここにずいぶん通いましたから、そういう調査が入っている現場を何回も見ました。川合さんはそういうことを当然知っています。それから今の法規はそんなことないのですが、どこからどこまでが壁で、どこからどこまでが天井でどこからどこまでが床かわからない、床面積が算定できないわけです。大地の上にごろんと転がっている原理的な物体です。ドラム缶とか蜂の巣城と言われて、建築物だと思う人は誰もいないのです。そういう物体と出会った。会ったとたんに憧れているんだけれどもこれから離脱したいと思いました。

11──《サヴォア邸》 石山修武研究室提供

11──《サヴォア邸》
石山修武研究室提供

12──ノーマン・フォスター《セインズベリー視覚芸術センター》 石山修武研究室提供

12──ノーマン・フォスター《セインズベリー視覚芸術センター》
石山修武研究室提供


13──ノーマン・フォスター事務所 石山修武研究室提供

13──ノーマン・フォスター事務所
石山修武研究室提供

14──川合健二邸 石山修武研究室提供

14──川合健二邸
石山修武研究室提供

15──石山修武《幻庵》 石山修武研究室提供

15──石山修武《幻庵》
石山修武研究室提供

これは私が一九七五年につくった《幻庵》という茶室ですけれども、原理はこれなんです[図15]。装飾をたくさん使って、手を加えて行きすぎた原理をもう少しこちら側に残そうとしていたのではないかと思います。そしてそれは、僕にとって開放系技術を考え始めるスターティングポイントだったと思います。
《幻庵》は川合健二さんから教えられた鉄板曲げものでつくった建築の七番目で、《開拓者の家》が八番目です。これは川合さんの家のインテリアですが、中に不思議な箱があります[図16]。この箱は柳宗悦も認めた最良の船箪笥です。川合さんはイサム・ノグチなどたくさんの友人がいました。日本にいながら非常にグローバルな人でした。もう少し歳をとってまともな考えの建築ができるようになったら、この箱の中に世界最良の小型の道具を集めてあるから、それを全部使ってつくりなさいと言われました。僕はそうしようと思ったんです。それで《開拓者の家》をつくりました。川合さんは自分の家は自分でつくるのが本当なんだ、あらゆる情報、あらゆる技術を使って自分の住処をつくるために技術は編成されるべきだと言っていました。それでこういう道具、マニュアルを使いなさいと言われた。この箱は僕にとってパンドラの箱みたいなもので、何が入っているんだろうと思っていました。亡くなった後奥さんがねじ開けてくれたのですが、何も入っていなかった。川合さんはわかって言っていたんだと思いますけれど、僕にとっては痛烈な自分史だった。これは開放系技術の始まりのひとつだと思うんですけれど、一人の青年に最初は六カ月ぐらいで一人で鉄板でつくれるからやろうと言って始め、結局一五年もかかりました。大変だったですけれども、とても面白い仕事でした。
フラーに戻します。バックミンスター・フラーは前半、後半がまったく違います。重要なことは彼の仕事、ものの考え方を変えさせたのは、アメリカの若い読者、あるいはユーザーです。彼らはフラーのドーム理論を全然別のものに読み替えたわけです。一九六〇年代、七〇年代のアメリカのドロップアウトした人たちはアメリカ文化では強いものを持っていましたから、アメリカの電子産業、シリコンバレー、インターネット産業を作ったのは彼らです。彼らがフラーの考え方を自分たちの生活に呼び戻したんです。当時フラーの『dome cookbook』という本がアメリカでベストセラーになり、それを読んで、こういうフラードームを材木と水道管で作ったんです。これは蓼科につくった卵形のドームですけれども、フラードームは簡単にできるんです。でもフラーの思想、考え方をまったく読み替えた人たちによって、歴史の編集、技術の再編集と言ってますけれど、そういう視点で書かれたものを僕はバイブルのようにして、こういうものをつくった。人間はフラーのように原理、理論にすっぽり収まるようなものではないんです。丸いものをつくったら中に箪笥が入らなかったり、雨が漏るんです。そうするとフラーを読み替えた人たちは「雨を楽しみなさい」「丸い建物の中に四角いものが入りにくいことを楽しみなさい」と言う。そういうやり方があり、それが僕をフラー的原理、理論から少し距離を持たせ始めた原因たったと思います。
川合さんの家の前庭で二五、六歳の頃に実験ハウスをやっていました。当時は工業化理論などがはやっていて、それで《幻庵》にたどり着いて、川合健二という原理から離脱し始めるのですが、そういう実験をいくつか続けました。本格的に離脱できたのは、伊豆につくった《伊豆の長八美術館》で、その時に初めて個別の場所という条件、職人さんたちを集めて建築をつくるという課題をクライアントから与えられました。それで擬洋風建築などを勉強し始めました。固有の場所、サイトに与えられた条件と建築は抜き差しならない関係がある、こういう考え方は関係ないんです。やはり離脱してしまう。それでこの美術館をつくって、場所、それからこの美術館はお金のない美術館だったので、今思えば増改築を延々とさせられたんです。初めから増改築が前提になっている。それを街全体に増やしていくことも逆に教えられた。だからこういう技術的に原理的なものに距離を取らざるをえなくなってきた。
例えば三菱重工の名古屋工場では分業で飛行機の胴体をつくっています。ボーイングの各シリーズでは、コックピットはアメリカ、翼はイタリア、尾翼はスペインです。飛行機は意外とたいしたことないなと思いました。飛行機で一番大事なのはビスなんですが、工場の壁に世界三〇の工場から取り寄せられたビスの値段と性能がコンピュータではなく手書きで書かれていて、そこから選ぶ。こういうビスで構造を持たせていることが非常に面白い。
これは《リアス・アーク美術館》です[図17]。つくった時は開放系技術からはちょっと遠回りして、あまり建築技術に頼らないで、違う世界の技術を使ったほうが経済的にも技術的にも信頼できることをなんとなく学んでいたので、この美術館では飛行機のボディをつくる技術を拝借しました。ここは造船技術、ここは左官技術です。そういう技術の寄せ集めというよりも、そういう建築より水位の高い技術はどこからでも持ってこれる。ただし、例えば非常に複雑な加工をしているのですが、工場のラインと現場をコンピュータで結ばないとなかなかできない。
僕と似たことをやっている人が歴史を少しかじると必ずいます。例えば東大の剣持れい(日に令)です。お父さんは剣持勇さんです。学生の頃から存在を知っていましたが、本人は知りません。彼は規格構成材方式ということを言っています。剣持さんの仕事からの影響ではないのですが、自分がやっていることとほとんど同じスタートラインにいると思います。この人のやっていることは、僕が飛行機の技術を持ってきたように既存の平凡なマーケットからいろいろなものを持ってきてそれを組み立てれば小さい建築はできるのではないか、ゼネコンはいらないと言った。かっこいい人です。要するに技術論、生産論、そういうことまでふまえて、そういうことを理論的に言ったし、自分でも実践する。ただそういう人は矛盾をはらんでいます。生産論と言っている割に装飾が付いているんです。ものをつくるということは違うんでしょうね。この人は僕の考え方のひとつの中継ぎに位置する人でした。
それからこれが僕の自邸《世田谷村》です[図18]。この考え方は剣持さんの理論そのままではないのですが、コンピュータを使って手近な技術を組み立てることを実践してみました。台風がくるとゆれるし、家族は反対するし。大変なんですけれど基本的には《世田谷村》という僕の考え方の歴史的な背景には、剣持聆さんの規格構成材方式が確実にあります。この人はイームズが好きだったんですね。
それからやはり内田研の大野勝彦さんは箱に着目して、箱は住宅だけに要求されるものではなくて、箱という空間単位を生産すればよいと考えました[図19]。内田元享さんの『住宅産業論』などに触発されていたと思うんですけれど、産業としての工業化、システムを考えられていたのですが、それはコンテナです。年産六〇〇〇戸ぐらいで、現実化された工業化住宅でこれだけ量産された住宅は世界でもないと思います。ただ、歴史は行きすぎたものは回避します。この住宅ももっと売るために屋根が必要になったり、出窓やいろいろなものをつけられて今は見る影もない。しかし工業化、システム化された住宅が理論的な制度として現われたものでは先駆的なものだったと思います。
難民の世界地図をお見せしましたが、コンテナの可能性、箱の可能性を執念深くやっています。ボーイング七四七で運べるようにコンテナを角切りをして、三つぐらいのユニットの病院機能として、世界中どこでも運ぶ。今は中断していますけれどこういう病院を設計して、いつか実現してみたいと思っています。

16──川合健二邸内部 石山修武研究室提供

16──川合健二邸内部
石山修武研究室提供

17──石山修武《リアス・アーク美術館》 石山修武研究室提供

17──石山修武《リアス・アーク美術館》
石山修武研究室提供


18──同《世田谷村》 石山修武研究室提供

18──同《世田谷村》
石山修武研究室提供

19──大野勝彦のセキスイハイム(旧藤森邸) 石山修武研究室提供

19──大野勝彦のセキスイハイム(旧藤森邸)
石山修武研究室提供

カンボジアまで行ってプノンペンのウナロム寺院という、カンボジア最大の仏教寺院の境内に《ひろしまハウス》をつくっています[図20]。これも違う意味での開放系技術で、いつ終わるか自分でもわかりません。これをどうしてもやりたいと思ったのは、広島に原爆を投下されて四〇万から六〇万人ぐらいが死にました。カンボジアではポルポトによって三〇〇万人ぐらいが殺された。カンボジアの煉瓦を積んでいくというきわめて初歩的な開放系技術を使って、アウシュビッツと広島とポルポトに対応して何かやりたいということです。
いわゆるユニヴァーサルスペースで、誰にでも使えるやさしい空間をつくることは悪いことではない。僕も賛成です。でも僕は向いていないんです。僕のユニヴァーサルスペースはこういうメッシュ──これも造船屋につくらせたのですが──で、技術を違う現われ方をさせて、車椅子の人たちを森に浮かばせようとしました[図21]。この人たちは森に入っていくことができませんから、森に浮かばせるためのひとつの技術を想定してつくった小さな建物です。
近代建築のオリジン、根源には、技術は権力や商業などに偏在しやすい、それを再配分していくところに技術というものの初歩的な現われ方がある、という考えがあります。これはバウハウスもそのように考えていた。そういう技術の平準化、偏在しやすい技術というものを均していくところに初期モダニズムの純粋なかたちがあったと思います。
一九九五年の阪神淡路大震災のときにわれわれが知ったことは、都市のインフラストラクチャーや計画という概念はきわめて脆弱だということです。それから技術そのものに対する不信があったかもしれない。そういうものでつくられた都市があまりにも脆い。情報化時代と言われているけれど、大震災の時には全部寸断されて情報が狂ってしまった。情報も非常に怪しい。全部が脆弱になっているということがわかったわけです。それはやはり技術というものに信頼を重ねて、拡張へ、拡張へという志向が依然として残っているからです。
一九九五年にもうひとつオウム真理教の事件が起きました。建築にとっても悲惨な事件でした。上九一色村にあったこのサティアンはオウム真理教のカテドラルですが、建築的空間、建築的デザインが一切なく、完全に倉庫です[図22]。距離がなくなった人たちのつくった建物ですが、実は宗教建築です。上九一色村には十数棟ありましたが、時代の建築的志向がこの時にすでに変わっていたと思います。
こちらは、同じ上九一色村にあるガリバー王国というテーマパークです[図23]。テーマパークも距離が歪んでいる現象です。スウィフトという人間社会、人間に対する痛烈な風刺家がつくり出したガリバーを小馬鹿にしている。これはわれわれが到達してしまった風景のひとつです。
これは七〇年代のアジアのバンコクです。ここに住んでいる住民たちがブロックを積んだり、コンクリートを打ったり、建具をつくったり、電気配線をしたり、手に職を得ながら自分たちの集落をつくっていくひとつの事例です。これが理想と言っているのではないです。こういうことはもうできないでしょう。
先日初めてロシアに一週間ぐらい行ってきたのですが、モスクワではホームセンター、中古車センターなどがたいへんはやっていました。ここのマーケットはアメリカのスーパーマーケットの一〇倍ぐらいあります。工務店が充実していないから、アパートを自分でリノベーションしないとしょうがないのです。それからまだ旅行が完全に自由化されていないので、家を直すこと以外あまり楽しみがない。だからみな家を自分でつくったり直したりしている。東大のキャンパスぐらいの巨大なマーケットがあります。アメリカのオレゴンのスーパーマーケットでは日本のメーカーの三万六〇〇〇円の便器が六〇〇〇円で売られています[図24]。なんでこういうことが起こるのかわからない。そういう流通システム、マーケットをコンピュータでも何でもいいのですが、構築しないと、僕が開放系技術で考えていることはなかなか実現できないと考えています。今便器の価格の世界比較を調べているのですが、面白い結果が出ています。インターネットによって距離が消失しているのですが、従来とはまったく違う価格体系が世界で発生しています。そういう現実を直視していくことが必要なのではないかと思います。

20──石山修武《ひろしまハウス》 石山修武研究室提供

20──石山修武《ひろしまハウス》
石山修武研究室提供

21──石山修武《ツリーハウス》 石山修武研究室提供

21──石山修武《ツリーハウス》
石山修武研究室提供


22──上九一色村のサティアン 石山修武研究室提供

22──上九一色村のサティアン
石山修武研究室提供

23──ガリバー王国 石山修武研究室提供

23──ガリバー王国
石山修武研究室提供

24──スーパーマーケットの便器売り場、アメリカ・オレゴン 石山修武研究室提供

24──スーパーマーケットの便器売り場、アメリカ・オレゴン
石山修武研究室提供

質疑応答

鈴木博之──六〇年代末から七〇年代にかけての技術に対する見方の変化は、私も石山先生と共有していたつもりだったのですけれど、アポロ一三号事件の意味を深くとらえられていたのをうかがい、そういうふうに見ておられたのかと初めて理解しました。以前《幻庵》のことを「みの虫」だと書いたことがあります。森の中で葉をくっつけてものをつくるのがみの虫ですが、石山さんは工業製品の森の中で、本来の森とは違う自分のコンテクストに工業製品を持ってきてひとつの殻をつくり上げる。そこでの石山さんの技術へのスタンスが今でも続いている。それが融和的なのか、批判的なのか、それを分けてはいけないのでしょうが、石山さんの面白さは、技術に対する距離、間合いが固定せずにうまくスタンスをとっていることです。ボクシングをしている人が前後にいきながら間合いをつかんでいるような、そういうつきあい方を技術に対してしておられるという感じがしました。その意味ではもちろん興味あるものが多いんですけれど、《幻庵》での印象が間違っていなかったとあらためて感じました。
石山修武──鈴木先生にそう書いていただいたのと同じ頃、僕の技術に対するスタンスを指して、迎撃型の建築家──何かが飛んでいるとそれを撃ち落とすために飛んでいくのが迎撃型ですが──と言ってくださったことがあるのですが、当たっていると思いました。いつも技術と流通に対して距離があって、その距離の近さや遠さが、デザインになって現われてくると思います。
松村秀一──僕は昔からエンジン付きの住宅に強い興味がありました。開放系技術の中で、エンジン付き住宅は今でも温められているものなのか、あるいはもう関係なくなったのか、教えていただけないでしょうか。
石山──以前住宅用エンジンを考えていたことがあったのですが、これは走らない車です。川合健二さんから教わったのですけれども、一五〇〇ccのディーゼルエンジンで五・八キロワットの電気が起き、二五万時間フリーメンテナンスです。ただし日本には二五万時間フリーメンテナンスのエンジンが一切ない。当時はイギリスのパーキンスというエンジンと、ドイツのベンツのOM六三六というエンジンしかなかった。日本のエンジンメーカーは空冷のすぐ壊れるオートバイのエンジンはたくさんつくっているけれど、ロングライフのエンジンは持たないんです。それで挫折した。そうしているうちに、燃料電池が出てきた。僕が若い頃に夢みたいに思っていた、台所の下でエンジンが回って発電をして、その余熱で冷暖房をするという、エネルギーが完全に自閉していて電力会社の電気を使わないということは違う形でないと実現できない。だから古典的にエンジンを回して全部をまかなうというものではないと思います。
難波和彦──鈴木博之流に言うと、技術はユニヴァーサルで、どこでも通用する。それに対し、石山さんは技術を大地や一般の人間の手に引き戻すといわれた。つまり一般の人が自分で家をつくるべきだと言っているんだけれども、石山流の引き戻し方は、一般の人にはとても真似はできない。そこに論理的な飛躍がある。なぜなら石山さんの引き戻し方はきわめてアーティスティックだからです。要するに、石山さんは技術的な問題意識をもったアーティストだと思うんです。もともと技術とはアートだから根は同じなんだけれど、近代以降、両者は分離してしまった。それに対し、アート的センスと技術に対する視線が不思議な形で融合しているのが石山さんの最大の魅力で、これは誰にも真似ができない。だからそういうスタンスで語られた歴史観、例えばアポロ13号に関する石山流の技術史的解釈は驚嘆すべきものだと思います。《セインズベリー視覚芸術センター》に関しては、僕もまったく同じ考えをもっています。
『SD二〇〇四』で「サステイナブル住宅はデザイン可能か」という特集をやり、サステイナブル・デザインを再定義、再編集する試みをしました。そこでサステイナブル・デザインの概念を鍛えるには、石山さんの《世田谷村》を取り上げるべきだろうと考えました。一般にサステイナブル・デザインはエネルギーやリノベーションの問題に限定して論じられますが、《世田谷村》はトータルな問題を提示しています。例えば《世田谷村》は、夏は暑く冬は寒い。エネルギー的な側面だけで見れば、とてもサステイナブルとは言えないけれど、建築全体としてみればサステイナブルと言えるのではないか。なぜなら成長する住宅という意味で、ライフサイクルと結びついているからです。
中川武──傷ついたアボロ13号を手の技術で地上に引き戻す、そういう中に開放系技術があるということでした。石山先生は建築界の最左翼、もっともラディカルな存在だと思います。お話になられていることは石山先生がずっと引きずっておられる問題で、戦後モダニズムが離陸した後に何をするか、どう引き戻すかという問題だと思うのです。鈴木先生は石山先生の方法をいみじくも迎撃的な技術、方法とおっしゃったのですが、自らはモダニズムの中にも装飾的なものが存在しているという形で迎撃体勢から抜け出そうとされていると解釈ができると思います。
目に見えない技術の時代になったということですが、それは依然として有効なのか。もちろんカウンター的なものでも開放的でありうると思うのですが、現状の中から何がもっとも重要なのか、本質的なのかというのが開放だと思うのですが、あくまでもカウンター技術的なものが果たして開放的と言えるかどうかということがあると思うのです。つまり、石山先生は極めてラディカルなと言われながら、こういう問題は本質的に引きずっておられるのかどうか、お聞きしたいのですが。
石山──もう少し歳をとってやろうと思っているのは装飾です。それから見えない技術や見えない何かと装飾は結びつくと思っています。今の考え方におけるデザイン、ものの形を決めることではないだろうという感じだけなんですね。中川先生と僕の歴史の先生だった渡辺保忠先生が、バックミンスター・フラーが来た時にフラーのドーム理論には文化がないと言いました。そして「フラーのジョイントをヤスリで削るやつが出てきて初めてそれは文化であり、デザインだ」と言ったのですが、その言葉が三〇年間耳にこびりついてます。だからアポロの話に戻りますけれど、バックミンスター・フラーのドーム理論のような原理をヤスリで削っていく、手を入れることがデザインだと、それは小さいものではなくて、枠組みを変えるものであると思っています。
[二〇〇四年一〇月二八日]

>石山修武(イシヤマ・オサム)

1944年生
早稲田大学理工学術院教授。建築家。

>『10+1』 No.42

特集=グラウンディング──地図を描く身体

>バウハウス

1919年、ドイツのワイマール市に開校された、芸術学校。初代校長は建築家のW・グ...

>バックミンスター・フラー

1895年 - 1983年
思想家、発明家。

>丹下健三(タンゲ・ケンゾウ)

1913年 - 2005年
建築家。東京大学名誉教授。

>磯崎新(イソザキ・アラタ)

1931年 -
建築家。磯崎新アトリエ主宰。

>川口衛(カワグチ・マモル)

1932年 -
構造家。川口衞構造設計事務所主宰。

>ミース・ファン・デル・ローエ

1886年 - 1969年
建築家。

>ブルーノ・タウト

1880年 - 1938年
建築家、都市計画家。シャルロッテンブルグ工科大学教授。

>サヴォア邸

パリ 住宅 1931年

>ノーマン・フォスター

1935年 -
建築家。フォスター+パートナーズ代表。

>ルイス・カーン

1901年 - 1974年
建築家。

>ル・コルビュジエ

1887年 - 1965年
建築家。

>リチャード・ロジャース

1933年 -
建築家。リチャード・ロジャース・パートーナーシップ主宰。

>川合健二(カワイ・ケンジ)

1913年 - 1996年
エネルギープランナー、設備設計家。

>浅田彰(アサダ・アキラ)

1957年 -
批評家。京都造形芸術大学大学院長。

>開拓者の家

長野県上田市 住宅 1986年

>鈴木博之(スズキ・ヒロユキ)

1945年 -
建築史。東京大学大学院名誉教授、青山学院大学教授。

>松村秀一(マツムラ・シュウイチ)

1957年 -
建築構法、建築生産。東京大学大学院工学系研究科建築学専攻教授。

>難波和彦(ナンバ・カズヒコ)

1947年 -
建築家。東京大学名誉教授。(株)難波和彦・界工作舍主宰。

>サステイナブル

現在の環境を維持すると同時に、人や環境に対する負荷を押さえ、将来の環境や次世代の...

>中川武(ナカガワ・タケシ)

1944年 -
建築史。早稲田大学理工学研究科教授。