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移植による在来の包摂 | 山根伸洋
Convention Subsumed by Transplantation | Nobuhiro Yamane
掲載『10+1』 No.39 (生きられる東京 都市の経験、都市の時間) pp.45-47

明治期初頭における輸送・通信網としての交通網の近代化は、電信や鉄道といった移植技術に立脚した物理的基盤の整備を進める一方で、他方においては在来交通基盤である宿駅制度や飛脚制度などを官営郵便事業へ積極的に組織化していくことによって、この両者を同時並行的に推し進めるものであった。限定された領域の空間的整備としての都市開発などと異なり、交通網の近代化過程は、国家全域というひとつの全体を対象とするものであった点には、格段の注意を払っておくべきであろう。近世期から近代への移行にあたって、政治体制が変化しようとも交通網それ自体は連続的に維持されていなくてはならなかった。近世的交通網の秩序の変更の困難が想定されるなかで明治維新政府は近世的な交通網の維持を試みながら、一方で鉄道・電信の早期導入を決断した。それは近世期における交通網、即ち宿駅・助郷制度が村落社会に根差したひとつの社会秩序であったからに他ならず、その近代化を試みることは、従前の近世的社会秩序の抜本的な改革となることを明治維新政府がよく知っていたからにほかならない。したがって幕藩期以来の近世的交通網の継承と革新という近代化事業と欧米からの移植技術を基礎とした電信や鉄道といった新規の交通基盤整備事業とは、主管官庁を内務省と工部省というように別立てとしたのであった。この点については、前島密自身が「其故本寮が将来大に尽すべき職務は、専ら通信の事ばかりである。そこで電信を本寮の所管とするのは当然であると言つて、建議したけれども、電信は当時新設された工部省の所管となつて、既に建造に取掛つた際であるから、暫く同省に任して置いて、他日を待つて改正しようという事で、其儘になつた」と「郵便創業談」★一で一八七一年(明治四)の当時を振り返って述懐しているが、この前島言うところの「他日を待って改正」の時期は、工部省が廃省し逓信省が創設される一八八五年(明治一八)一二月二二日であった★二。
近世期以来蓄積されてきた交通網が、主として人的労働を組織化する制度の蓄積と一定の駄賃稼ぎ人などの集積としての運輸=交通労働市場の形成を基盤としてきたとすれば、この基盤の継承と革新と他方における移植技術としての電信や鉄道の導入とは、必然的に水準の異なる近代化事業となるだろう。近代化の社会過程は、まず都市からはじまる、と考えていた私にとって、交通網の近代化という角度から近代社会の生成を考える時に、近代的な物理的仕掛けとしての「電信」の日本列島への移植過程は、「都市を基点とする近代化」という思い込みを払拭する事例として十分にインパクトのあるものになった。と同時に、電信線の整備だけでは国家全域における情報流通の近代化が達成し難いという事実性も容易に看て取れた。近代社会において交通網が被覆する空間的広がりは必然的に国家主権の及ぶ範域と折り重なってくる。交通網を捉えようとするときに〈国家〉という枠組みに絡めとられていく困難は、一方で、交通網の近代化過程が複数の様相を呈してきたこととも関連してくる。労働賦役による交通労働(人馬徴発)によって支えられる既存の陸送経路を近代化するということは、「役負担の体系」としてあった近世期における社会編成そのものの抜本的な更新であり、近代的労働市場・近代的租税体系の形成と密接不可分の事業としてあったことは、渋沢栄一や前島密、杉浦譲などの旧幕臣を登用して幕藩期以来の社会制度の近代化に関する方策を立案した民部省改正掛に関する丹羽邦男氏★三の研究を通じて、ある程度の端緒が開かれているが、まだ十全な成果をあげるところまではいっていない。そこには、例えば「官営独占」「全国一律料金」による「近代郵便制度」の創始をめぐる「物語」が、「民間」を排除して成立したという「神話」や、ことさらに近世期と明治以降の近代との弁別にこだわった捉えられ方をしてきた事情が横たわっているように思える。
実際には、全国津々浦々において官営郵便事業の実施にあたって近世期において登場していたあらゆる交通労働に関連するアクター、すなわち宿駅関連の役人から飛脚業者、駄賃稼ぎにいたるまでを郵便事業へ根こそぎに選択的に動員して、初めて郵便事業の全国実施は可能となったのであり、その動員過程において公的セクターと民間セクターとの境界も再設定されていったのである。この動員過程に関する研究の進捗は、残念ながらあまり進んでいない現状がある。鉄道と馬車と人力車と脚夫による輸送の混在による交通網の全体性の維持に対する評価についても、これらの混合的な交通網を一体として、例えば郵便線路として組織化していたとしたら、郵便線路管理においての時間管理や労働規律の維持自体が、当時の困難な課題であったことは疑う余地のないことであろう。このような混合的輸送形態に基礎をおいて成立した郵便線路網の統制自体が実は近代的国家統治と折り重なる出来事であった点について、一層の注目を集めてしかるべきことと思われる。郵便制度の近代性は、必ずしも「官営独占」や「全国一律料金」の確立にあるわけではなく、近世期における交通基盤をあまねく捉えきった上で選択的に動員していく統治技術にあったと言えるだろう。郵便事業の創始は、書状逓送一般の近代化、すなわち近代的な情報流通の端緒となったばかりでなく、それ以上に、陸上在来輸送の抜本的な近代化、即ち交通=輸送労働市場の近代的確立を促すという意味で画期的であったといわねばならない。
他方において電信線の全国的な整備、地域社会における架設工事の経験は、その後、日本と想定された地理的領域を土木工学の対象として、対象化し、土地に対して、物理的諸装置の連鎖を連続的に埋め込んでいく、そのさきがけとなった。鉄道敷設工事と同時並行的に電信網の架設工事を進めた場合には、電信網の拡大は、このような速さで完遂されたとはとても考えることはできない。また、鉄道網の敷設工事と同時並行的に電信線が架設されていくのであれば、日本の近代化の過程は、土木工学の対象としての土地を都市部にしか見出しえなかったのではないだろうか。国家全域という規模で土木工学の対象としての土地が〈国土〉として獲得されていく過程において、電信線架設工事の全国的展開が果たした役割を見逃すことはできない。電信は、その全国網化が一八八〇年代中葉には既に達成されている。この時期において全国津々浦々において「電信」という欧米から移植された物理的装置は地域の風景に根付いた〈近代社会の表象〉として社会的に受容されるに至っていた。そして一八八〇年代においては日本鉄道会社線(現在の東北本線)の敷設工事が進められていくなかで、地域社会における鉄道敷設への期待は大きく高まっていくことになった。鉄道敷設工事に積極的に協力した人物のなかには、近世期以来の駄賃稼ぎたちの生業に理解を示し、その近代化、馬車営業や郵便事業への参画を促した後の高崎市長である矢島八郎も含まれていた。
一八八〇年代において、ようやく電信事業と郵便事業は「逓信省」のもとに統合される。これは移植事業と在来事業の統合を指し示す重大な出来事であったと思われるが、その背後には、確実に在来事業の担い手層が、交通網の近代化事業に対して積極的に関与するという飛躍をともなっていたであろうことが予想される。在来の交通事業者たちが鉄道や電信に対して能動的な態度をとるにいたったのは何故か、という点から郵便事業が全国的に実施されたことの意味を考えることは無意味なことではないだろう。明治期初頭における郵便事業の創始は、近世期以来の輸送・通信事業の担い手層(宿駅関連の役人、飛脚業者、駄賃稼ぎ人などなど)に対して選択的動員であったとしてもさまざまな意味での「社会的役割」を振り当てることによって最大限かつ効率的に、彼らの力を引き出していったことだけは間違いの無いことといえるだろう。この郵便事業への動員を通じて、幕藩期以来蓄積されてきた交通事業の担い手層の脳裏に刻み付けられていったものは「鉄道」を中心とした交通網の構築への期待であり、自らの輸送業を積極的に鉄道事業へ関連させていくことに、今後の展望を見出そうとする彼らの態度であった。近代郵便制度は、設立以来、汽船、鉄道、郵便馬車など、およそあらゆる運輸機関と契約を結んで、郵便物逓送事業を拡張してきた。そして鉄道の軌道が新たな規定的交通経路として立ち上がってくる時に、小包郵便制度が成立する。一八九二年(明治二五)に、「小包郵便法」として議会を通過する。だが、この小包逓送という領域は、それまでは郵便事業の管轄の範囲外であり、内国通運会社と直接競合する分野の業務であった。陸運元会社設立以来、内陸における、人馬継立て網の再編に尽力してきた内国通運会社は、一八九一年(明治二四)四月、逓信省との契約満期にともない、その後、逓信事業の元請けに関する入札は競争入札にすることを通告される。そして、一八九一年四月一四日午前一〇時から行なわれた一般競争入札において逓信元請業務を、中馬慣行に起源を持つといわれる日本運輸会社に奪われて経営危機に陥る。そして、前島密に「説諭」された旧飛脚屋総代で内国通運会社社長である佐々木荘助氏は、一八九二年四月六日に自殺する。小包郵便制度成立期における小包郵便線路は、通常郵便線路と比較して、圧倒的に鉄道郵便線路の比率の高いものであった。小包郵便法が成立する一八九二年には、鉄道敷設法★四が公布される。この鉄道敷設法には、鉄道予定線が示されており本格的な鉄道基盤整備事業が開始される年でもあった。一八九〇年代前半期において、国家全域における交通基盤整備は新たな段階に入っていく。そして近代国家の国土整備事業と鉄道整備事業が折り重なりながら果てしなく進行していく時代(これは一九六九年の新全国総合開発計画以降の新幹線ネットワークの建設まで脈々と継承され続けている国家的欲望の時代とも言えるだろう)に入ることになる。[了]

1──東京両国通運会社川蒸気往復盛栄真景之図、重清筆、明治10年代 引用図版=『資料図録』No.31(郵政省逓信博物館編、1985)

1──東京両国通運会社川蒸気往復盛栄真景之図、重清筆、明治10年代
引用図版=『資料図録』No.31(郵政省逓信博物館編、1985)

2──諸官省名所図集・鉄道寮シオドメ、三代広重筆、明治9年 引用図版=『資料図録』No.30(郵政省逓信博物館編、1985)

2──諸官省名所図集・鉄道寮シオドメ、三代広重筆、明治9年
引用図版=『資料図録』No.30(郵政省逓信博物館編、1985)


★一──前島密「郵便創業談」(市野彌三郎編『鴻爪痕』一九二〇、所収)。
★二──山根伸洋「工部省の廃省と逓信省の設立──明治前期通信事業の近代化をめぐって」(鈴木淳編『史学会シンポジウム叢書──工部省とその時代』山川出版社、二〇〇二)。
★三──丹羽邦男『地租改正法の起源──開明官僚の形成』(ミネルヴァ書房、一九九五)。
★四──一八九二年に鉄道敷設法が公布され、その後一九二二年「改正鉄道敷設法」公布。この改正鉄道敷設法は一九八八年に廃止される。

>山根伸洋(ヤマネノブヒロ)

1965年生
明治学院大学、玉川大学非常勤講師。歴史学、社会学。

>『10+1』 No.39

特集=生きられる東京 都市の経験、都市の時間

>山根伸洋(ヤマネノブヒロ)

1965年 -
歴史学、社会学。明治学院大学、玉川大学非常勤講師。