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サイバースペースにおける主体の位置 | 土屋誠一
The Position of the Subject in Cyberspace | Tsuchiya Seiichi
掲載『10+1』 No.39 (生きられる東京 都市の経験、都市の時間) pp.35-37

現在の、ネットワークに接続された人間の存在様式はどのようなものであるか。大塚英志は、GPS付き携帯電話の普及が監視社会を肯定することに帰結することを述べつつ、そのようなメディア環境下における人間の行動様式を、人間の「端末化」であると、的確に表現している★一。ある世代以降の人間が、携帯電話の所持と不即不離になって以来、人間はそれ自体がグローバルなネットワークの端末になり、かつネットワーク上のデジタル・データと化している。この事態は、かつてあったニコラス・ネグロポンテの表現を持ち出すならば、人間のアトム化からビット化への変容と言ってもよいかもしれない★二。しかしこれを、ビット化した人間を通信業者や警察が一元的に管理する、パノプティコンの構造として捉えてしまうのは早計である。なぜなら、セキュリティの強化を目的とした、互いが互いを監視するといった事態が、肯定的に求められている現況において、ある権力機構をその管理主体とみなすことは、旧来の疎外論モデルを現状に照らし合わせるだけに過ぎず、本質的な現状理解に至っていないことがしばしばであるからだ。そもそもインターネットは、地理的な境界策定を前提としないはずであり、原理的に中心を措定できない以上、監視可能性は各端末=各ビットに対して、良くも悪くも開かれている。そして、さらに厄介なことではあるが、人間は、自らがスマート・モブ★三化=端末化を欲望することによって、かろうじて主体の領域確定を行なっているようであるのだ。
モバイル・ツールによる情報の交換は、他者とのコミュニケーションの実践のためというよりも、むしろ私が私であることを承認するための鏡像を確認するために要請されているのではなかろうか。例えばフリードリヒ・キットラーが取り上げた、グラモフォン、フィルム、タイプライターといったメディアが、ジャック・ラカンの腑分けにしたがって、現実界、想像界、象徴界にそれぞれ対応していたように★四、イメージが想像界(l'imaginaire)とそもそも結び付けられていた以上、このことはかねてより定められていたのかもしれない。サイバースペース上のイメージと戯れることは、鏡像との想像的同一化を欲望することに似ている。
ノルベルト・ボルツは、一九世紀のパノラマが、サイバースペースの前段階に位置付けられる視点であるとしている★五。パノラマは、例えば演劇のプロセニアム・アーチ、あるいは絵画の額縁のような、枠付けられた遠近法的空間表象とは異なり、世界を一望できる、フレームを超越したイメージを獲得したいという、大衆の欲望を充足させた。そして、この大衆の欲望は、市民社会が要請するところの平等性──つまりこの場合、世界を認識する視線を平等に獲得するという欲望──に基づいている。ところで、イメージを規定するフレームは、演劇や絵画のなかにおける空間を、現実の世界から切断し、自立させるために設けられる。このフレームが存在するからこそ、見られる対象と見る主体との弁別、言い換えれば客体と主体との分離が可能になるのだ。一方、このようなフレームの破砕が生み出したものは、見る者が、その見ている視界の只中に没入するという経験である。見る主体が完全にイメージの中に取り囲まれてしまえば、見る主体それ自体もイメージを構成する一要素に還元されることになり、見ることと見られることとの境界線は、限りなく曖昧にならざるをえない。サイバーパンクにおいてしばしば語られた、「ジャック・イン」という経験は、すでにパノラマが発明されたこの時点で、ある程度達成されていたと言ってよい。サイバースペースにおける没入の感覚は、パノラマの時代においては、見る主体の身体も含め、未だ現実の物質性を消去しえなかったことを克服し、ほぼ完全にイメージへの同一化を可能にした。
ボルツは、このイメージのなかの没入に関して、興味深い見解を述べている。パノラマは、観る者の視線を開放するのと同時に、ある決定的な盲点を内包してしまう。それは、観ている主体である私自身に対する視線である、と述べられるのだ。パノラマと同様、サイバースペースにおける主体の位置も、常に盲点として現われるはずである。世界がいくら明瞭に把握できたとしても、あるいはすべてを視覚的に把握できてしまうが故に、「私」自身の把握は永遠に先送りにされる。サイバースペースにおける私とは、GPSによって「私」のトポロジカルな鏡像を確認することでかろうじて得られる主体でしかない。それが実は、私そのものを指すものではなく、実際には端末の位置情報を示しているだけに過ぎないにもかかわらず。
この超越的な世界像の只中における「私」の位置を、パノプティコン・モデルと比較してみよう。パノプティコンの場合、監視する視線=他者が、常に不確定な状態として、見られる主体に感知され続けることから、遡行的に「私」という主体の同一性を得ていたはずだ。このような反省的な自己同一化を可能にする(フーコーに倣えば、規律訓練型の)監視技術と比較するならば、サイバースペースにおける監視に対する欲望は、まったく異なっている。むしろ、監視に積極的に参与することによって、私が私であることを、その私自身の手によって承認されることを欲求していると言えるだろう。私という主体が、デジタル化された情報を構成する一要素ビツトでしかありえないならば、私の視線が遡行的に発生させる盲点としての主体もまた、サイバースペースを構成するイメージの一要素でしかありえない。すべてがイメージに還元され、主客の弁別すらも成立しえないならば、イメージそのものに代入された、盲点としての私の主体は、過去の主客モデルから借り受けた他者=監視者を欲望し続けるであろう。もちろんこの他者も、仮想的なものに過ぎないのであれば、実体のない他者は、この世界をすべて把握できるサイバースペースという超越的な空間を維持するために、再生産され続けるであろう。ウィリアム・ボガードは、このような監視することと監視されることとの差異が抹消した空間について、古典的な監視者の名を挙げつつ、次のように述べる。「あなたが、あなたを見張っているビッグブラザーを見張り、観察や権力の極はひっきりなしに逆転、振動するのだ。(…中略…)この観察と管理の振動空間のなかで、ビッグブラザーは最終的に消え、『あなた』も消え、観察という行為、あるいはそのためのテクノロジーに入っていく」のであると★六。さらに次のように付け加えよう。にもかかわらずわれわれは、すでにイメージに代入されてしまった、あるはずもない「私」を、ただサイバースペースという名の、すべてイメージに還元され尽くしてしまった世界を駆動させるためだけに、探し続けるのであるのだ、と。ところで、ボルツは先の盲点としての主体に関して、次のように位置づけている。盲点とはつまり、近代以降の理念、市民的自由の概念が、各主体に無意識的に強制されている、ということそれ自体である、と。サイバースペースという国家の市民たちは、そこで約束された「自由」を維持するために、「私」を再生産し続けるのである。

そろそろ、差し当たりの結論を出さねばなるまい。「デジタル」と名指されたイメージは一体なんであるのか。まずはこう答えることができるだろう。そんなものは存在しない、と。すべてがビットに還元された世界から、「イメージ」のみを抽出することが可能であろうか?  そこに残るものは、主体化され得ない欲望の強度が駆動させる空間のみである。この考察がそうしてきたように、デジタル・イメージは、過去のイメージの様態との示差によってのみ測定されるものであり、体系内からア・プリオリに名指すことができない。この極めてホーリスティックな空間は、過剰なまでにすべてが露出してしまっているが故に、同時に盲目であるとさえ言えるであろう。この盲目は、まさにあのアブグレイブの拷問者のように、薄っぺらい残虐ささえも、容易に可能にしてしまう。あの拷問のイメージは、拷問者がサイバースペースに対して行なった主体の投企、言い換えれば、拷問者である彼/彼女自身の自己像=鏡像であったのかもしれない。この陰惨ささえも失効したような欲望の形式化は、しかし、サイバースペースの超越的な統覚を前にして、すなわち現在のデジタル・メディア環境下において、容易に拒むことが果たして可能であろうか?  もしここで、サイバースペースに対する素朴な否定的態度を採らないならば、次のような可能性が示唆されうるかもしれない。私は先に、アブグレイブの事件について、形式化による陰惨さの失効それ自体が陰惨であると述べた。この形式化、サイバースペースにおける仮想化の、その果てに残留する陰惨さは、一体どのような地点において経験される感情であるのか。おそらくこの感情が、デジタル・メディア環境に抵抗しうる拠点になるだろう。残念ながら、この感情の所在の測定は、もはや別の機会に譲らざるを得ない。ただし、このイメージの分析は、抵抗点たりうるかもしれない地平の測定を可能にするためにおいてのみ、意味をなすであろう。「デジタル・イメージ」という規定がありうるとすれば、ただこの場合において以外にない。
[了]

1──GPS端末の位置が表示された携帯電話の画面

1──GPS端末の位置が表示された携帯電話の画面

2──2点のパノラマを同時に公開できる レスター・スクエアの円形ホール断面図 引用図版=ベルナール・コマン『パノラマの世紀』 (野村正人訳、筑摩書房、1996)

2──2点のパノラマを同時に公開できる
レスター・スクエアの円形ホール断面図
引用図版=ベルナール・コマン『パノラマの世紀』
(野村正人訳、筑摩書房、1996)


★一──大塚英志「GPS付きの世界の入り口で何を叫ぶべきか」(『comic新現実』三号、二〇〇五)所収。
★二──ニコラス・ネグロポンテ『ビーイング・デジタル』(西和彦監訳、福岡洋一訳、アスキー、一九九五)。
★三──ハワード・ラインゴールド『スマートモブズ 〈群がる〉モバイル族の挑戦』(公文俊平+会津泉監訳、NTT出版、二〇〇三)。
★四──フリードリヒ・キットラー『グラモフォン・フィルム・タイプライター』(石光泰夫+石光輝子訳、筑摩書房、一九九九)。
★五──ノルベルト・ボルツ『グーテンベルク銀河系の終焉──新しいコミュニケーションのすがた』(識名章喜+足立典子訳、法政大学出版局、一九九九)。
★六──ウィリアム・ボガード『監視ゲーム──プライヴァシーの終焉』(田畑暁生訳、アスペクト、一九九八)。

>土屋誠一(ツチヤ・セイイチ)

1975年生
美術批評家。沖縄県立美術大学講師。http://stsuchiya.exblog.jp/。

>『10+1』 No.39

特集=生きられる東京 都市の経験、都市の時間

>大塚英志(オオツカ・エイジ)

1958年 -
日本民俗学。