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「データベース映画」と著作権 | 堀潤之
'Database-Cinema' and Copyright | Junji Hori
掲載『10+1』 No.39 (生きられる東京 都市の経験、都市の時間) pp.31-33

ニューメディア時代においては、記憶メディア容量の飛躍的な増大にともなって、データベース型の映像作品の製作が容易になった。しかし、前回までに見てきたように、単に「静態的かつ客観的」なデータベースではなく、「データベース」という概念そのものへの批判を含み込んでいるような「動態的かつ主観的」なデータベースを指向しない限り、その作品は興味深いものにはなりえないだろう。だが、いずれにせよ、データベース型の映像作品を構想するとき、多くの場合、あるひとつの問題を避けて通ることはできない。それは、著作権の問題である。
映像制作の分野では、近年、著作権を過剰なまでに管理する動きが強まっている。ローレンス・レッシグが『コモンズ』の冒頭で印象的に記しているように、テリー・ギリアムの『12モンキーズ』(一九九五)が公開差し止めになったのは、あるアーティストが、映画に出てくる椅子が自分の設計した家具のスケッチに似ていると主張したためだった★一。フランスでも著作権管理の強化の方向性ははっきりしている。フランスの映画監督オリヴィエ・アサイヤスによれば、われわれの生きる世界を表象するためには、その世界によって生み出された映像をも見つめなければならないというのに、たとえばエッフェル塔を画面に収めるためには照明係との法的な交渉まで必要とされるし、なんらかのブランドの広告映像も無断で撮影できない(たまたま入り込んでしまう場合であっても)。そればかりでなく、なんの変哲もない建物を撮るためにも、長時間にわたる交渉や法外な料金が必要になることもあるという。いわば、世界の映像が一種の「経済的な検閲」によって「施錠」されている状態にあるのである★二。ヌーヴェル・ヴァーグの特徴のひとつだったゲリラ的な街頭撮影は、いまや、法的・経済的な理由によっても困難になってしまった。
こうした状況は、通常の映像作品を作る際にも問題になるが、アサイヤスが指摘するとおり、とりわけ「映画作品の断片を用いて作り出されるような一種のメタ映画」を作ろうとするとき、きわめて妨害的なものになる。「映像(の断片)の集積は、当然、映画や世界の状態についての考察となり、コラージュや(ギー・ドゥボール流の)転用から成る刺激的な作品を生み出すだろうに、今日、映画に引用の権利がないことによって禁じられているのです」★三。デジタル化の進行によって、膨大な映像の集積・再編集による創作行為がかつてなく容易になった反面、著作権の管理強化によって「引用の権利」が脅かされているという点に、ニューメディア時代のひとつのパラドクスがある。
データベース型の作品を作るとき、作品を構成するあらゆる映像が自前のものであれば、著作権の問題はとりあえず回避できる(もちろん、画面に映るものの著作権や肖像権の問題はいつでも存在するが)。たとえば、前回までに概観したいくつかの作品のうち、データベース型作品のプロトタイプを作ることを目論んだレフ・マノヴィッチの《ソフト・シネマ》は、使用する映像を自前で用意しているため、著作権の問題は発生しない。また、ショアー財団による証言データベースについて言えば、語られる来歴そのものについてはそれぞれの生き残りが権利を保有する一方、録画されたインタヴューの著作権・知的所有権は財団に帰属すると明記することで、データベース構築の際に起こりうる著作権問題を封じ込めている。クロード・ランズマンの『ショアー』も、ほぼ同様の手続きを取っているはずだ。
著作権が厄介な問題になってくるのは、やはりBFI(British Film Institute)の映画一〇〇年シリーズや、ゴダールの近年の作品の場合であろう。BFIのシリーズの場合、コリン・マッケイブとともに全体を統括したボブ・ラストによれば、ワールドワイドに配給するために、使用するクリップの権利をクリアすることに予算の半分近くを使ったという★四。準政府組織が手がけるプロジェクトとしては、当然、そうせざるをえないとはいえ、使用する映像断片の著作権保持者を特定し、しかるべき金額を払うという煩雑な作業が介在するために、シリーズが全体として無難なトーンに落ち着いてしまったのではないかという疑念も払拭しがたい。厳格な著作権の処理を行なうことが、どこかで創造性の低下に結びついているという感じは否めないのである。このシリーズのゴダール/ミエヴィル篇である『フランス映画の2×50年』も、「引用」という概念を内破させるような荒々しい「引用ならざる引用」に満ちていた『ゴダールの映画史』と比較すると、通常の意味での「引用」を慎ましく行なっているにすぎないとも言えるのではないか。
六〇年代から自分の作品につねに他者の言葉を散りばめるという引用癖のあったゴダールは、八〇年代後半から、他人の言葉、映像、音楽の断片をコラージュする手法を前面に押し出してきた。その際、ゴダールは、抜粋と引用は異なるものであり、芸術的・商業的利益を引き出すための「抜粋」に謝礼を払うのは当然だが、その一方で批評的な「引用の権利」が事実上あるのだと強弁してきた。ゴダールは、『映画史』をTV放映しても誰も何も言ってこなかったとうそぶいていたのだが★五、その後、彼はある批評家・作家に告訴されている。フランスで遅まきながら二〇〇二年四月に公開されたゴダールの『リア王』(一九八七)に、スイユ社から出版した自著『静けさの暴力』(一九八〇)の一節(「コーディーリアの沈黙」という『リア王』についてのエッセイ)が無断で引用されたとして、『ル・モンド』の文芸批評家であり小説家でもあるヴィヴィアーヌ・フォレステールが、ゴダールと製作会社ボデガ・フィルムを訴えたのである。大審裁判所はその訴えを認め、クレジットにフォレステールの名前を出さない限り『リア王』配給の継続を禁ずるとし、著者と出版社にそれぞれ五〇〇〇ユーロの損害賠償の支払いを命じ、さらにゴダール側の費用で判決内容を公表することとした★六。この判決が、フランスの著作権法上、どの程度妥当なものなのかは不明だが、ゴダールはフォレステールからの引用を隠していたわけでもなく★七、また引用箇所も慣行上の「引用」を超えるほど長くないため、どこか釈然としないものが残るのも事実である。ともあれ、この程度で損害賠償を支払わなければならないとしたら、近年のゴダールの創作活動そのものが成り立たなくなってしまう。
実際、『映画史』はほとんど全編が引用でできており、ゴダール自身が「抜粋」とみなした部分の使用料は支払われているらしいとはいえ、ハリウッド映画を含む多くの断片の著作権はクリアされないまま使用されているはずである。にもかかわらず、フランスではTV放映に続いてヴィデオとヴィジュアル・ブックが発売され、日本では註釈つきのDVD版も存在する(他国で『映画史』がいっこうにDVD化されないのは、ひとつには、著作権の問題を懸念しているためではないかと思われる)。松浦寿輝が指摘するように、「他人のものを手当たり次第取ってきては自分の作品の中にぶちこんでしまう」という「我有化」によって成立している『映画史』は、批評的な引用の試みというよりは、単に「盗品をずらずら並べ」たものの様相を呈している★八。そのような違法すれすれの作品を、巷に流布するゴダール神話を逆手にとって、いわばゴダールというブランドに包み込むことで、有無を言わさず世間に流通させているのだから、コリン・マッケイブが言うとおり、「ゴダールが『映画史』で成し遂げた仕事は、地球上の他のどんな人間にもほとんど不可能」であるだろう★九。『映画史』は、デジタル時代の著作権の在り方のアキレス腱に触れていながら、それを堂々とかいくぐっているという点で、二〇世紀末のゴダールにしかなしえなかった巨大な例外として、いまなおわれわれを困惑させてやまないのである。
[了]

1──『ゴダールの映画史』

1──『ゴダールの映画史』


★一──ローレンス・レッシグ『コモンズ』(山形浩生訳、翔泳社、二〇〇二)一六頁。
★二──L'Exception, Le banquet imaginaire, ed., Gallimard, 2002, pp.152-153.
★三──ibid., p.156.
★四──Colin MacCabe, Godard: A Portrait of the Artist at 70, London: Bloomsbury, p.303.
★五──詳しくは、四方田犬彦+堀潤之編著『ゴダール・映像・歴史』(産業図書、二〇〇一)九八頁、二〇六─二〇七頁などを参照。
★六──二〇〇四年一月二一日のAFPによる報道 "Jean-Luc Godard Condamné pour Contrefaçon" を参照。
★七──一九八七年の『リア王』特殊上映時に行なわれた討議の記録を読む限り、ゴダールはフォレステールから引用したことを当初からはっきりと述べていたようだ。
URL=http://ouvrir.le.cinema.free.fr/pages/ mon-coin/JLG-KingL.html
★八──松浦寿輝「ゴダールの犯罪」(『批評空間』第III期第三号、太田出版、二〇〇二、一八七─一九七頁)。
★九──Colin MacCabe, op.cit., p.301.

>堀潤之(ホリジュンジ)

1976年生
関西大学文学部准教授。映画研究・表象文化論。

>『10+1』 No.39

特集=生きられる東京 都市の経験、都市の時間

>松浦寿輝(マツウラ・ヒサキ)

1954年 -
フランス文学者/詩人/映画批評家/小説家。東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻(表象文化論コース)・教養学部超域文化科学科教授。