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文化的所有物の多層性 | 増田聡
Multi-Layered Cultural Property | Satoshi Masuda
掲載『10+1』 No.39 (生きられる東京 都市の経験、都市の時間, 2005年06月発行) pp.27-28

アメリカの憲法学者、ローレンス・レッシグが提唱するクリエイティヴ・コモンズ(以下CC)は、近年急速に進行する文化産業や政府による著作権の過剰保護への対抗運動として注目を集めている★一。
CCの実体は、ある著作物を創作した者が、その著作物の使用条件を定めるライセンスをあらかじめ提示し、その著作物を「自由に使用させる」ことを法的に宣言するための一連の法的文書などのパッケージであり、そのスムーズな運用をめざしたシステムである。すなわち、文化の所有を法的に規定する著作権法を「使って」、その文化の所有権を一部、あるいは全部を放棄するのが、CCの基本的なロジックだ。CCにおいては、「帰属」、「非営利」、「派生禁止」、「同一条件許諾」の四つの使用条件が組み合わされた一一のライセンスが標準化されており、著作物に付せられたマーク、そのマークの法的効力を規定する法的な契約文書、ライセンス内容をデジタル情報として示すメタ・データの三層が構成される。
CCの理念は、文化的生産物の「共有」から生じる新たな創造性のイノベーションを後押しするものだ。実際、ネットユーザーによる個人的な創作物ばかりではなく、BBCが過去の番組アーカイヴをCCライセンスで提供するなど、既存メディア産業でもこのライセンスを利用するケースが出現しつつある。著作権法が前提する「あらゆる文化はその所有者を持つ」という文化観に対して、法技術的な環境を整備することによって「あらゆる文化は先行する文化からの贈与である」という認識を広めようとするCCのもくろみは、じわじわとではあるが一定の広がりを持ちつつある。
しかし、通俗的なデジタル著作権論が期待をかけるほどには、CCは文化所有の諸問題を解決できる万能策ではない(もちろん、提唱者であるレッシグも実務に関わるスタッフも十分認識していることだが)。その弱点を文化の所有権の根拠に関連して、主にメディア論的な見地から一瞥してみたい。
文化所有を法的に保証する著作権制度の存在を正当化する理論はいくつかあるが、現在有力な説は「インセンティヴ論」と呼ばれるものである。価値ある文化的生産物の生産は、その原型がいったん作成されれば、それをコピーすることで相対的に安価に可能となる。もしコピーに規制がなければ、文化的生産物を新たに制作しようとする創作者はその経済的な動機付けを失うだろう。結果、社会において新たな文化的創作が行なわれることが減少し、文化的価値の増大が妨げられることになる。であれば、複製されうる文化的生産物に法的なコントロールを可能とし、創作者へのインセンティヴ(奨励)を与えなければならない。これが、インセンティヴ論の骨子である。ここには、創作的な労働によって生まれた「新たな文化的価値」に対して、その創作的労働を行なった者に所有権を与えるという、ジョン・ロック的な所有権思想が背景にある。
文化所有の単位として定められるのは「著作物」と呼ばれる存在である。著作物はインセンティヴ論的な論理からすれば、創作労働によって価値を付与された「財物」である。ゆえに創作物と創作者との関係は、ちょうど農作業という労働によって得られた農産物と、その労働者との関係に等しい、ということになる。
しかし、多くの場合、著作物とは実際には単一の「モノ」ではなく、複数の(互いに異なる性質を持つ)層によって構成された記号系である。この事実が、著作物の「所有」のロジックにある混乱をもたらすことになる。
著作権制度が念頭におく著作物は「書物」を理念型として考えられてきた。モノとしての書物、パッケージ・メディアと切り離し難いコンテンツは、物的財と同様の「モノ」として扱ってほとんど問題が生じることはなかった。例えば中世においては、書物は複製可能なコンテンツを載せるメディアというよりも、それ自体製造が困難な「財物」であり、しばしば鎖によって書見台に厳重に固定されていた。羊皮紙という高価なメディア、そして筆写という多大な労力によって、ようやく書物は複製されることができた。そこでは、書物のコンテンツはそのパッケージと切り離しがたいものとして想念されるだろう。
グーテンベルクによる活版印刷術の発明以降、大量複製物としての書物が誕生する。書物を生産する印刷業者たちの経済的利益を配分する法規制として成立した出版特許は、なお「財としての書物」に照準を合わせたものであった。やがて書籍出版業者の活動が活発になると、書物のなかに「コンテンツ」と「メディア」を分離する観点が成立してゆく(書物の所有権が、印刷業者ではなく「著者」へとしだいに照準されていくようになるのもこの時期以降である)。一八世紀初頭からの近代的な著作権法の制定後、「コンテンツ」と「メディア」の区別は法的にも一般化し、モノならぬ情報としての「コンテンツ」のなかに実現された、文化的価値を生み出す「労働」の内実がやがて精緻に理論化されていく。
ドイツ観念論の哲学者、フィヒテは、書物に実現されるコンテンツのなかに「アイディア」と「表現」の二つの層が存在することを論じた。文章によって表わされる「アイディア」は、書物が公刊されたときに著者の手を離れ、広く読者の所有物となる。しかし一方で、著者によって具体的なかたちを与えられた「表現」については、それが含みこむ「アイディア」と区別されて、公刊された後にも著者の所有物として残る、と主張した。この「アイディア」と「表現」の二分法は、その後の著作権理論の基盤を構成していく。すなわち、創作者が労働によって生み出したものは「表現」であり、「アイディア」はむしろ「発見」されるものである。著作権制度は前者を保護し、後者は保護しない。
一方、書物以外の「表現」の複製可能性が高まることによって、この文化所有の理論はアポリアに突き当たる。音楽著作権をめぐる問題はそのアポリアをよく表わす。ひとつは「アイディア」と「表現」の区分が音楽に適用不可能であることによる。一九世紀のフランスでは、メロディは「アイディア」と同様に考えられ、その模倣は著作権侵害を構成しない、との判例が下ったことがある。果たして、音楽においては「アイディア」は区別可能な存在者として見出しうるのか?  否。このことはおそらく、音楽においては「アイディア」に該当するものが認められることなく、すべてが私的な文化所有の対象となることに帰結するだろう(音楽著作権をめぐる諸問題が紛糾しがちなのはその理由による)。
他方で、音楽というコンテンツは書物と異なり、複層的な存在様態を取っていることにも着目する必要がある。別所で詳細に論じたが★二、こんにちの社会における支配的な音楽生産物であるCDパッケージは、記号論的には三つのレイヤー(層)に分けることができる。楽譜に記述可能な水準の楽音層、楽譜に記述不可能なサウンド層、そしてそれらを物理的に担保しているデジタル・データの層、この三つだ。前者二つは聴取可能だが、最後の層は耳で直接聞き取ることはできない。一方で、商品としての音楽生産物はデジタル・データの層によって操作され、編集され、取引される。
ロックの所有権理論を検討した森村進は、財産権一般を構成する規範的論拠として、「労働による生産物への人格的一体化」や「労働に対する功績」といった論拠を退け、「価値創造」と「自由の尊重」がその論拠となっていることを見出した★三。著作者は「価値ある」作品を自ら創作したことによって、そこへの所有権が正当化される、ということになる。ゆえに、著作物のうち、「どこに価値ある創造がなされたか」が厳密に確定されなければならない。例えば書物というコンテンツについて、フィヒテが定式化したように。
しかし、現代の音楽コンテンツの三つの層、楽音層/サウンド層/デジタル・データ層に区分されるこれらの層のなかでは、どの層に「音楽的価値」が存在するかは規範的には決定しがたい。ミュージシャンがなんの気なしに発した一音の「かすれ」が、消費者にとってフェティッシュな価値を持つこともある。どこまでが「その曲」なのか、「その曲」の価値は何に起因するのか、というコンテンツの存在論を看過した著作権論は必然的にアポリアに突き当たることになる。
CCのメディア論的なアポリアもその点にあるように思える。CCは著作物の多層を区別することはせず、既存の著作権理論が確定した「著作物」の所有の根拠をいったん承認する。そのうえで、所有関係を共有へと変容させていこうとする。もちろん、文化の私的所有の暴風に対抗するために、そのようなCCの実践は重要な意義を持つ。しかし、その実践は(おそらく派生作品の取り扱いの局面で)やがて思わぬ困難に直面するのではないか。いま必要なのは、所有関係の変更と同時に、「所有の根拠」自体の理論的な検討と批判であろう。文化所有の論理への対抗策は、新しいフィヒテの登場を要請している。[了]


★一──概要については、ローレンス・レッシグほか『クリエイティブ・コモンズ──デジタル時代の知的財産権』(クリエイティブ・コモンズ・ジャパン編、NTT出版、二〇〇五)を参照。
★二──増田聡+谷口文和『音楽未来形──デジタル時代の音楽文化のゆくえ』(洋泉社、二〇〇五)。
★三──森村進『財産権の理論』(弘文堂、一九九五)。

Creative Commonsウェブサイト URL=http://creativecommons.org/

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>増田聡(マスダ サトシ)

1971年生
大阪市立大学文学研究科。大阪市立大学大学院文学研究科准教授/メディア論・音楽学。

>『10+1』 No.39

特集=生きられる東京 都市の経験、都市の時間

>増田聡(マスダ サトシ)

1971年 -
大阪市立大学大学院文学研究科准教授/メディア論・音楽学。大阪市立大学文学研究科。