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セイレーンの誘惑──ナポリ、カプリ、ポジターノ | 田中純
The Siren's Temptation: Naples, Capri, Positano | Tanaka Jun
掲載『10+1』 No.21 (トーキョー・リサイクル計画──作る都市から使う都市へ) pp.2-11

1 ナポリ──壊れたもの

一九二〇年代、ナポリ、ポジターノといった南イタリアの町やカプリ島にはドイツの知識人たちが経済的な困窮を逃れて移り住んだ。一九二三年一〇月にレンテンマルクが導入され、経済に安定が回復されたドイツにあっては、むしろ、それ以後にこそ、こうした「知的放浪プロレタリアート」★一の移住が強いられた。そんな経済難民のひとりがアルフレート・ゾーン=レーテルである。彼は妻子とともに一九二四年の三月、カプリ島に向かい、叔父で画家のオットー・ゾーン=レーテルがアナカプリに所有していた屋敷に仮住まいを始めた★二。
このカプリ島のゾーン=レーテルのもとを間もなくヴァルター・ベンヤミンが訪ねている。彼のカプリ島滞在は同じ年の春から秋に及んだ。この間、ベンヤミンはゾーン=レーテルとともに足繁くナポリに通っている。同じ頃、エルンスト・ブロッホも北アフリカへの旅の途上でカプリ島に立ち寄った。この島で知り合ったアーシャ・ラツィスとの共作というかたちで、ベンヤミンはナポリに関するエッセイを著している。ナポリという都市は「巌のようだ」と彼らは言う。「下からの叫び声が届いてこない高み、聖マルティーノ城から見下ろすと、町は黄昏のなかに、死に絶えたかのごとく、岩石に癒合して横たわっている」★三。ナポリの人々は、岩盤自体に洞穴を掘って、商品倉庫や漁師酒場がそのなかに作られている。

この岩石と同様、建築も多孔的である。中庭やアーケードや階段で、建物が行動と化し、行動が建物と化する。あらゆるもののなかに、遊びの余地が保たれており、それによって、あらゆるものが、新しい予想外の状況布置コンステラツイオーンの舞台となりうる。確定したもの、刻印されてしまったものは避けられる。いかなる状況も、そのままずっと続くものとして出現することはないし、いかなる形姿も、自分が〈そうでしかありえない〉とは主張しない。共同体が行なうリズム運動の、最も明確な部分である建築は、この地ではそのようにして成立する★四。


ナポリでは、私的空間としての家屋ではなく、家屋ブロックが都市細胞をなす。公的空間と私的空間とはこの多孔的な都市では相互浸透して混じり合っており、「どこでまだ建築が続けられているのか、どこですでに崩壊が始まっているのか、ほとんど見分けがつかない」★五。それというのも、そこでは何ひとつ仕上げられ、完成するということがないからである。この町では目立たない扉あるいは一枚のカーテンが秘密の入り口となる。
ベンヤミン/ラツィスが都市空間の「多孔性」に見出した北方ヨーロッパとの差異を、ゾーン=レーテルはナポリにおいてテクノロジーが被る驚くべき変容のなかに見ている。ローマとナポリとを結ぶ特別列車のために設けられたトンネルは、掘られてからすでに一〇年近くなるというのに、ヨーロッパ最速になるはずだった列車は走らず、猛暑をしのぐのにちょうどよい市民の溜まり場となっていた。特別列車はそのとき、動かないこと、機能しないことによって、ナポリ市民のために機能しているのである。それこそ「壊れたカプツトもの」のもつ豊かさなのだとゾーン=レーテルは言う★六。あるいはこんなエピソードもある。彼がナポリ湾のなかを周航するモーターボートに乗ったところ、そのボートのエンジンが異様な音を立て始め、乗客に不安な思いを抱かせる。案の定、湾内をめぐる間にエンジンは次第に熱を帯びていった。「それがようやく十分熱くなると、舵手は自分のテーブルの下からコーヒーポットを取り出してエンジンの上に置き、間もなく乗客全員にコーヒーを振る舞った」★七。別の機会にゾーン=レーテルは、ミルクホールの主人が壊れた古いオートバイの車輪のハブに長いフォークを取り付け、生クリームを泡立てるために使っている光景に遭遇している★八。ナポリ的なテクノロジーの本質はこうした「壊れたものの機能」★九のなかにある。定められた規則に従って動く機械の自動作用は拒絶され、そのような機械はいったん壊されることによってナポリらしく機能し始めるようになる。「もはや規則通りの目的に従った使用にはごくわずかしか結びつくことなく、テクノロジーはこの地できわめて独特な屈折を経験し、驚くべきものであるとともに説得的な実効性を伴って、それ自身にとってはまったく〈異質な生活基盤〉のなかへと入り込んでゆくのである」★一〇。こうした技術の変容のなかに「壊れたものの理想」があるとゾーン=レーテルは言う。
機械を壊すことによって、それを既存の機能連関のなかから取り出し、あらたに予想もつかない使用法を与えるナポリ人のこの身ぶりは、ゾーン=レーテルとともにナポリを訪れたベンヤミンが同じ時期に取り組んでいたドイツ・バロック悲劇における寓意家のそれに似ている。ゾーン=レーテルはいくつかあるナポリ論のなかでヴェスヴィオ山の脅威に何度も言及している。ヴェスヴィオ山は一九〇六年の大噴火ののち、一九一三年以降、活発な活動期にあった。火山が噴火する恐れのもとで暮らす人々の、その脅威を必然として受け入れて意識に上らせることのない生活ぶりにゾーン=レーテルが感じとっているものは、或る種のかすかなメランコリーだ。ベンヤミン/ラツィスは七つの大罪のうち、ナポリに配されているのは怠惰であると言う★一一。そして、『ドイツ悲劇の根源』で指摘されているように、怠惰を意味するアケーディア(Acedia)という神学的概念は元来、メランコリカーに関係づけられていた★一二。ただし、この南イタリアの寓意家たちが作り上げた世界は、考えられた挙げ句の産物ではなく、あくまで生活の必要に迫られた結果として生じたものである。その意味でこの「壊れたもの」の寓意化は、ゾーン=レーテルのナポリ論集『壊れたものの理想』の編者であるカール・フライタークが指摘するように、商品交換における抽象作用は関与者の精神においてではなく、その交換という行為のただなかの「現実的抽象(Realabstraktion)」として生起していると捉える、のちのゾーン=レーテル思想の中心的モチーフに応じている。ナポリ人はいわば「現実の寓意家(Realallegoriker)」なのである★一三。
都市という時間と空間の織物の内部にあって、ひとは自分に見えるものしか見ない。なぜなら都市とは結局、イメージに凝結することによってしか、可視的なものとなることはないからだ。思考にとっての磁場となる都市との出会い、その空間を経めぐる経験を通してひらめく「思考像(Denkbild)」には、したがって、客観的なところなど、何ひとつありはしないだろう。多孔性の町、あるいは壊れたものが死後の生を得る町ナポリとはそんな都市の思考像である。これらのイメージと遭遇した人々の将来の思想がそのイメージにあらかじめ凝集していることに不思議はない。というよりもむしろ、彼らの思想はおそらくこうした思考像に導かれてはじめて展開されえたのである。

1──ナポリ周辺の地図 出典=Alfred Sohn-Rethel, Das Ideal des Kaputten, 2, Aufl,  Bremen: Verlag Bettina Wassmann, 1992.

1──ナポリ周辺の地図
出典=Alfred Sohn-Rethel, Das Ideal des Kaputten, 2, Aufl,
Bremen: Verlag Bettina Wassmann, 1992.

2──ナポリの光景、1890年頃 写真=Giorgio Sommer 出典=Giuliana Bruno, Streetwalking on A Ruined Map,  Princeton, New Jersey: Princeton University Press, 1993.

2──ナポリの光景、1890年頃 写真=Giorgio Sommer
出典=Giuliana Bruno, Streetwalking on A Ruined Map,
Princeton, New Jersey: Princeton University Press, 1993.


2 ポジターノ──岩石幻想

ゾーン=レーテルは叔父の屋敷での間借り住まいを早々に引き上げ、ポジターノの町に移っている。この町にはアメリカへ移住した人々の空き家がいくつもあり、それが安く借りられたからだ。アルフレートが慕っていた別の叔父でこれも画家のカーリ・ゾーン=レーテルが、ポジターノで何度か夏を過ごしたことがあったためでもある。一九二五年にはテオドール・W・アドルノがジークフリート・クラカウアーとともにこの土地を訪れ、ゾーン=レーテルと知り合っている。岸壁にへばりつくようにして建物が立ち並ぶこの貧しい町の沖合には、オデュッセウスの一行を歌声で誘惑した海の魔物にちなんだ「セイレーンの島」と呼ばれる小さな群島がある。ナポリやカプリ島からポジターノに至ろうとする汽船は、あたかも彷徨するオデュッセウスの船に似た「水面を行く古代」だ、とクラカウアーは書いている。ポジターノに接近しようとする船は、オデュッセウスが抱いたであろう不安に満たされる。自然の神々を鎮められなければ、ポジターノは近寄りがたいまま、訪れる者の前から退いていってしまう。

なぜなら自然の諸力がこの場所を支配しているからだ。そこは球状に形作られ、巌の塁に包囲されて、その背後には目には見えぬままつねにサンタンジェロ山が押し被さっている。きれいに積み重ねられた骸骨の収蔵庫、球の頂点から半円形に拡散した途方もない集塊。隘路が無気味に裂け目を入れ、蛇の舌のように浜辺から上のチッタ・モルタ、死者の町へと延び、その町の骨格は静止した大気のなかで徐々に砕け散ってゆく★一四。


「死者の町」とは住民の多くがアメリカへ移住したり死んでしまったりして人けのなくなった地域のことである。ベンヤミンはブロッホやゾーン=レーテルたちと夜中に、昼間とは表情を一変させたこの一帯を散歩したときの体験を回想している。単なる好奇心以上の何かに襲われて、ベンヤミンは連れの人々に通りで待っていてほしいと告げ、朽ち果てた家のひとつに独りで足を踏み入れる。ゾーン=レーテルたちが呼びかける声を耳にして立ち止まった彼は、自分がまだ彼らのごくそばにいるにもかかわらず、まったく別の世界に入り込んでしまったことを感じる。ベンヤミンが一足ごとに侵入しつつあったのは、「イメージも概念もないような出来事」のただなかだった。何があろうと断じてその先一歩も進もうとは思わなかった、と彼は言う。このときの経験をベンヤミンは「呪縛の圏(Bannkreis)」への接近と呼んでいる。彼はその接近の半ばで躊躇し、踵を返した★一五。
クラカウアーやベンヤミンにとってポジターノは幽霊じみた魔物に支配された抗しがたい誘惑の土地だったように見える。それはまさしくそこが、クラカウアーがみずから形容したように、知的移民という「幽霊、ボヘミアン、さまざまな程度の中間存在」あるいは「自発的な囚人として神話的な土地で暮らしている長期滞在客」★一六に何よりもふさわしい場所であったからだろうか。
ポジターノをめぐるクラカウアーのエッセイは「ポジターノの岩石幻想」と題されている。「岩石幻想(Felsenwahn)」とはバーゼル出身の芸術家ギルベルト・クラヴェルがポジターノの岬に築いた独特な建築物を形容した言葉である。クラヴェルはいわば、ベンヤミンの言う「呪縛の圏」に囚われてしまった人物だった。一八八三年に生まれたクラヴェルは傴僂のうえ、結核を患い、終生病弱だった。彼はバーゼルのハインリッヒ・ヴェルフリンのもとで美術史を学んだほか、哲学やエジプト学の講義を受講している。その後、クラヴェルは療養のためにアルジェやエジプトを訪れたのち、一九一〇年、アナカプリに落ち着いた。このころ、クラヴェルはポジターノの岬に残る、かつてサラセン人の襲来を見張るために建てられた朽ち果てた監視塔を買い取っている。そして、この監視塔の周辺が彼の「岩石幻想」の舞台となる★一七。
アナカプリでの療養生活のなかでクラヴェルは、麻薬常習者のダンディ、ジャック・ド・フェルゼン男爵やオットー・ゾーン=レーテルのような芸術家たちと知り合った。一九一八年には、死を諧謔とイロニーを交えて扱った小説『自殺研究所』が、作家イタロ・タヴォラートによるイタリア語訳として、未来派の画家フォルトゥナート・デペーロの挿し絵入りで刊行されている。タヴォラートは著名な美術雑誌『造形的機能ヴアロリー・プラステイチ』に関わっており、クラヴェルはそこに、古代エジプト芸術に霊感を受けたエッセイや、個人的に知り合っていたピカソを論じた文章を寄稿している。また、クラヴェルは一九一七年にローマで目にしたディアギレフ率いるロシア・バレエ団公演に非常に刺激され、デペーロとともに、抽象化された形態と強烈な色彩を舞台美術やコスチュームの特徴とした、一種の総合芸術作品である「造形的演劇」を試みている。
しかし、一九一九年以降のクラヴェルはポジターノで独り、岩壁を芸術作品に変える果てしのない営みに集中してゆくようになる。一九二〇年に彼は、バーゼルから迎え入れた知人がポジターノの一帯をひどく無気味に感じ、岩壁のいたるところに人の顔が見えるようだと語ったこと、そして、それゆえ翌日には再びカプリ島かナポリに帰りたがったことを弟への手紙に記している。クラヴェルはこの出来事を受け、同じ手紙にこう書いていた。

告白しなければならないが、僕も初めてここを訪れたときにはこの一帯について似たような印象をもったのだ。けれど僕はこの魔性の力への愛ゆえにここにとどまったのである★一八。


クラヴェルが手に入れたのは一五世紀に築かれた石造による監視塔の廃墟だった。彼は長い交渉を通じて徐々にその周辺の岩壁沿いの土地を取得していった。上から見るといびつな五角形をした監視塔がまず再建され、窓や扉が取り付けられて、一九二〇年にはそこに住むことができるようになった。それまでクラヴェルはモーターボートで往復五時間をかけ、アナカプリとポジターノを行き来していたのである。こののちクラヴェルは雇い入れた労働者たちの手を借りて、毎日岩壁に通路を穿ち、居室を刳り貫いていった。こうして岩壁には四層に及び一〇八メートルの長さに渡る複合体が築かれてゆくことになる。各部屋はセイレーンの部屋、ダイヤモンドの部屋などと呼ばれた。落盤をはじめとする数々の困難を抱えながら、羅針盤や占い棒を用いて地中の空洞が探られ、あらたな地下通路が掘られるとともに、既存の回廊や部屋が拡張されて相互に連結されていった。その過程では、海につながった高さ一一メートル、面積八〇平方メートル余りの自然の洞窟も見つかっている。
「造形の国への逃げ道を与えてくれる立体的造形力をもっていなかったならば、クラヴェルはとっくに自然の諸力の暴威に圧倒されてしまっていたことだろう」★一九とクラカウアーは言う。彼が生み出し続ける「空間の噴出」は「魂を脅かす宿命からの逃走」である。その逃走が向かう地中の深みには限界というものがない以上、クラヴェルの空間は終わりなく作り続けられてゆかざるをえない。

神々はもはやいないのだから、それは虚ろなまま延びてゆく。クラヴェルの迷宮にはミノタウロスはいない。それはまた迷宮でもないのであって、むしろカオスだ──その形態が表わす神話には、神話的な内容が欠けている★二〇。


たしかに、表わすべき神話的内容があらかじめそこに存在していたとは言えないだろう。しかし、クラヴェル自身はこの終わりのない掘削作業のなかに神話的な世界への通路を求めていたように思われる。四四歳で亡くなる間際の早すぎる晩年に彼はその糸口を『母権論』で知られるヨハン・ヤーコプ・バッハオーフェンの神話論に見出した。若い時代にバーゼルでともに文芸誌を編集していた友人カール・アルブレヒト・ベルヌーリはバッハオーフェンの研究者であり、クラヴェルにバッハオーフェン自身の著作や自分の研究書を送っている。クラヴェルは自分の建築にとってそれらがどれほど意義深いものであったかをベルヌーリ宛の手紙で告げている★二一。彼はそこで、「自分の内的な必要から」たった独りで作り続けてきた空間を「冥府の建築」と呼び、バッハオーフェンがしばしば言及する卵の形態を地下の巨大な空間構成に用いたと報告している。
クラヴェルがここで触れているのは、バッハオーフェンの『古代人の墓碑象徴に関する試論』などで論じられている「三つの神秘卵」のことであろう。それは上を白く下を黒く描かれた宇宙卵であり、天と地、男性と女性などの両極を同時に指し示す象徴である。一九二〇年代はバッハオーフェンの再評価が盛んだった時代である。そうした動向と呼応して、クラヴェルもまた、バッハオーフェンが古代の石棺に彫られた浮き彫りのなかに見出した象徴が表わす「冥府的なもののさまざまなゾーン」から、現代世界の変容や「原イメージへの回帰」がもたらされることへの期待を吐露している。クラヴェルがバッハオーフェンに共感したのは、「イメージ的なもの」を通してこそ、古代人たちの原象徴や神話に到達することができるという認識においてだった。だが、クラヴェル自身の「冥府の建築」は古代的な原象徴や神話、あるいはいわゆる元型に還元されてしまうものではない。それははるかに根深く、彼の身体そのものに切り離しがたく結びついていた。海に面してわずかに口を開けた洞窟から入り込むことができる、パイプオルガンが置かれたコンサートホールは、卵というよりも睾丸の輪郭をしているという★二二。一九一九年三月に書かれた弟宛の手紙からは、クラヴェルが睾丸のひとつを切除されたらしいことがうかがわれる。

僕らはまさしく生殖と誕生について話しているのだから、この機会にクラインヒューニンゲンで漬け物瓶に保存された、かつての僕の睾丸のことを思い出してもらいたい。僕はママに言った。それが永久に乾涸らびてしまわないように、何かの液体(ホルマリンとかその他の薬品)をその失われた卵に注いで頂戴と。そうすれば、やがて金の値段がまた下がったら、自分の卵をお守りとして鞄に入れて持ち歩けるように、僕はザウターにそのための金のカプセルを作らせるだろう。いい機会があったら、僕はそれを美しい女性の掌にも載せ、それが何かを当てさせるだろう!★二三


金のカプセルで包み込まれた睾丸=卵。クラヴェルがコンサートホールを計画したとき、そこにこうした記憶が働いていたかどうかはわからない。しかし、自分の肉体の一部を奇妙なオブジェと化して玩弄するこの感覚に通じるものが、「冥府の建築」にも作用しているように思われる。クラヴェルにとっては、痛みと苦しみをもたらし、腸に管を通されるなどといった治療を繰り返し受ける自分の肉体が、すでに十分ひとりの他者であった。ポジターノの廃墟を入手した時期である一九一一年に彼は手紙にこう書いている。

たしかに僕を脅かしているのは直接的な危険ではないし、生死が問題になっているのでもない。そうではなく、この昔からの中間状態、隠れたスパイの脅威が、こっそりと僕の身体に坑道を掘る[徐々に弱らせる(unterminieren)]のである。結核はまったく卑しい病気だ。その性格にはそれ自体何かユダヤ的なものがある。それがみずからを示す仕方からしてすでに、いるのかいないのか定かでなく、つま先立ちで歩くように、前進したり後退したりだ。そうやって結核はひとを次第に包み込み、何年もかけて網の目を通り道に投げかけ、その末に変わらぬ微笑みを浮かべて姿露わに「ご主人様、発作の時間です」と登場するのだ★二四。


ユダヤ人に対する偏見を書き付けているクラヴェルだが、彼の創造活動は、同じ年に生まれ、同じく結核を病んだカフカを連想させる。カフカは晩年の作品「巣穴」で、結核に冒されたみずからの身体を象徴するように、小動物による迷宮めいた地下空間の果てしない建造過程を描き出していた。もちろん、カフカの作品がそんな隠喩的意味作用の解読によって汲みつくされてしまうものではないのと同じく、「冥府の建築」の坑道が結核を病んだ身体を象徴的に表現しているわけではない。だが、クラヴェルがこの宿痾と激しく闘ううちに、その闘いの場となった彼の身体は、岩壁に穿たれた坑道の軌跡のなかにみずからを投射していったのではないだろうか。絶え間ない戦闘のなかで、クラヴェル自身の身ぶりそのものが宿敵のそれに似たものとなってしまったかのようなのである。
クラカウアーによれば、クラヴェルは「ポジターノではすべてが崩壊してゆく」と語っていたという★二五。この土地に潜む無気味な魔性の力のなかに、クラヴェルは蝕まれてゆくみずからの身体が行き着くところ、つまり死の支配を見ていたのかもしれぬ。「呪縛の圏」とは紛れもなく死者たちの支配圏、冥府である。故なくクラヴェルはこの土地にとどまったのではなかった。自分の身体が決して遠くはない死に向けて接近してゆくことを感じながら、彼はこの「呪縛の圏」のただなか、その心臓部へと驚くべき精力で坑道を掘り進め、冥府と地上をつなぐ回廊を築きあげてしまったのである。この冥府の内部に穿たれた卵型の空間は、死と生を切り離しえないものとして結びつける古代人の宇宙卵であるとともに、彼自身の失われた睾丸=卵という両性具有的な対象の名残り、独身者クラヴェルにとっての夢の形象である。クラヴェルの「岩石幻想」とは、大地との格闘を通じておこなわれた終わりのない身体変容、魔術的な変身の儀式であったように思われるのである。

3──ギルベルト・クラヴェルの塔、1925 出典=Harald Szeemann (Hg.), Visionäre Schweiz. Aarau: Verlag Sauerländer, 1991.

3──ギルベルト・クラヴェルの塔、1925
出典=Harald Szeemann (Hg.), Visionäre Schweiz. Aarau: Verlag Sauerländer, 1991.

4──クラヴェルと彼の愛犬 出典=Visionäre Schweiz.

4──クラヴェルと彼の愛犬
出典=Visionäre Schweiz.


5──セイレーンの部屋 出典=Visionäre Schweiz.

5──セイレーンの部屋
出典=Visionäre Schweiz.

6──3つの秘儀の卵。古代の墓からの模写(部分) 出典=Johann Jakob Bachofen, Gesammelte Werke, Bd.4,  Versuch über die Gräbersymbolik der Alten,  Basel: Benno Schwabe, 1954.

6──3つの秘儀の卵。古代の墓からの模写(部分)
出典=Johann Jakob Bachofen, Gesammelte Werke, Bd.4,
Versuch über die Gräbersymbolik der Alten,
Basel: Benno Schwabe, 1954.

3 カプリ島──牢獄としての家

クラヴェルは一九二七年に亡くなり、ゾーン=レーテルも同じ年にドイツに戻っている。一九三三年のナチ体制の成立とともに、ベンヤミンをはじめとして、一九二〇年代半ばにナポリ、カプリ、ポジターノで出会ったドイツの知識人たちはいずれも亡命生活を余儀なくされた。そして、彼らがファシズム下のイタリアを再び訪れることはなかった。
一九三〇年代末からカプリ島の岬に築かれていたひとつの特異な建築物について、彼らが知ることはなかっただろう。その建物もまた、或る「呪縛の圏」に囚われた人物のオブセッションの産物だった。その人物とはイタリアの作家クルツィオ・マラパルテである。彼は一八九八年にトスカナ地方プラートにクルト・エーリッヒ・ズッケルトとして生まれ(父はプロテスタントのドイツ人、母はミラノ出身のイタリア人だった)、早くから政治の世界に飛び込んでいる。クルツィオは出生名クルトのイタリア語化、マラパルテ(悪い部分)とはナポレオンの名前ボナパルテ(良い部分)のもじりである。マラパルテはやがてファシストとして、ただしいわば反体制的ファシストとして、華々しい著作活動をおこなうとともに投獄や流刑を経験し、一九五七年の死の直前にはイタリア共産党に入党するといった目まぐるしい政治的転変を重ねた。兵士としてあるいはジャーナリストとしてヨーロッパ、ソ連、中国を旅した経験をもとにマラパルテは、二〇世紀における巨大な歴史のうねりを、『クーデタの技術』のような政治的著作や、『壊れたヨーロッパカプツト』をはじめとする小説において活写した。彼の著作はファシズム下で発禁処分を受けたほか、毀誉褒貶はなはだしく、しかし、むしろだからこそ、晩年に至ってもなお彼は、イタリア中の注目を集めるスター的な文化人であり続けた。問題の建物《カサ・マラパルテ》は戦中の一九四一年に一応の完成を見ている。
マラパルテは一九三〇年に一度カプリ島を訪れているが、その風景に魅せられ土地を買うことを決めたのは一九三七年クリスマスの訪問時だったという★二六。カプリ島はファシストの高官たちが好んで別邸をもった場所だった。一九三八年早々にマラパルテはマトロマニアの断崖に面したマッスロの岬に土地を購入し、隣接する土地を買い足して地所を得ている。設計はこれに併行して建築家アーダルベルト・リベラに委託された。敷地に合わせ細長い長方形の船に似た輪郭をもつリベラ案を出発点としながら、カサ・マラパルテはその後は実はリベラの手になるというよりも、マラパルテ自身とカプリ島の建築技術者たち、あるいは友人たちの助言によって徐々にデザインを変え、完成に至っている。リベラへの委嘱がすでに、近代的で合理的な形態を自邸に与えたいとするマラパルテの要求を反映しており、それは最終形態に至るまで基本的には維持される。しかし、インテリアや家具などを含むこの建物全体の建造過程はむしろブリコラージュに類するものだった。最大の特徴である、屋上のテラスに至る巨大な三角形をした階段状の屋根は、マラパルテが在外反ファシスト活動の罪で一九三三年に流刑にされたリパリ島の教会の階段をモチーフにしている★二七。事前の明確な計画による拘束を逃れて続けられるブリコラージュの作業を通して、この建物は自伝的な性格を帯びることになった。マラパルテはそれを「私に似た家」と呼んでいる。そして、こうした性格ゆえに、この家には実は最終的な完成というものが原理的にありえないのである。
監視役の警官や同行を許された母とともにリパリ島へと向かう移送の旅を綴った短篇「そぞろ歩き」でマラパルテは、それまで自分が収容されていた監獄を思い起こし、あたかも鳥籠を呑み込んでしまった鳥のように、あるいは、子供を孕んだ女のように、自分はレジーナ・コエリ刑務所の第四棟区四六一房を自分の内部に抱え込んでしまった、と書いている★二八。「そぞろ歩き」が収められた短編集『牢獄への遁走』の第二版(一九四三)に際して著者は、かつてよりもはるかに今こそ、牢獄を自分の内部に感じると書き、こう続けている。

今、私はとある島に暮らし、厳しく、メランコリックで苛酷な家に住んでいる。それを私はたった独りで建てた。海を見下ろす崖の上で孤独に。幽霊としての、牢獄の秘かなイメージとしての家。私のノスタルジーのイメージ★二九。


マラパルテがカプリ島に住まいをもとうと考えたのは、牢獄と流刑の体験後である。リパリ島の記憶を大階段に反映させている点からしても、この家は彼にとって、そうした苛酷な体験をめぐる「ノスタルジー」のイメージであったと言ってよい。牢獄を身体に内化してしまった人物が、文字通りに「産み落とした」家がカサ・マラパルテだった。しかし、ではなぜ、もうひとつのレジーナ・コエリ刑務所第四棟区四六一房は、他の場所ではなく、ほかでもないカプリ島に建てられなければならなかったのか。
古代劇場を連想させる海に隣接した大階段、あるいは屋上のテラス、そして屋内の巨大なピクチャー・ウィンドーや、暖炉の炎越しに風景が見えるように壁にはめ込まれたガラスなどが示すように、カサ・マラパルテとはそれを取り囲む風景を演劇的に体験するための巨大な装置にほかならない。マラパルテは小説『皮』のなかで恐らくフィクションとして、ロンメル将軍が一九四二年にこの家を訪ねたという挿話を物語っている。将軍は立ち去る直前に、ここは買ったのか、それとも自分で設計して建てたのか、とマラパルテに尋ねる。

僕は答えた──本当は嘘だが──建っているのを買ったと、そして手を大きくまわして、マトロマニアの絶壁や、ファラリオニの大きな三つの岩礁や、ソレントの半島や、サイレン[セイレーン]の島々や、アマルフィの青くかすむ岸辺や、ペストゥム[パエストゥム]の海岸の、はるかな金色の微光をさしてみせて、いった。「僕がこの風景を設計しました」★三〇。


この転倒のなかにカサ・マルパルテという場所がもつ磁力の秘密がある。この建物が建てられつつあった一九三九年、マラパルテは新聞特派員として西アフリカ戦線に送り出されている。一九四〇年のイタリア参戦後には召集され、特派員としてフランス、ロシア、ポーランド、フィンランド、ドイツを駆けめぐる日々が続いた。ヨーロッパの「崩壊カプツト」を各地の前線でつぶさに目にしたマラパルテは、カプリ島をその崩壊現象における台風の目のような静かな足場としながら、『壊れたヨーロッパ』に結実する多言語的なテクストを書きつづってゆく。古代ローマ帝国皇帝ティベリウスが別荘をもち、この地から帝国全体を支配することを好んだ場所に身を置いて、マラパルテはひとつの「全体」として壊滅しつつある「帝国」としてのヨーロッパを描き出す。国民国家に分裂したヨーロッパは、世界大戦という全面的な崩壊過程において逆説的にも一体化する。ティベリウスにとってカプリ島が国土をパノラマ的に眺望する帝国権力の中心であったように、マラパルテにとっては空虚な舞台としての家こそが、「壊れたヨーロッパ」を一挙に視野に収めることを許す立脚点だったのではないだろうか。そこにあるのは一種の帝国幻想である。マラパルテのテクストがもつ魅力も限界も、それがこのようなパノラマ的な展望を可能とする場所を必要としている点にこそあるのだろう。
磯崎新は、カサ・マラパルテでおこなわれたテレビ局のインタヴューに際して、ジャン=リュック・ゴダールの映画『軽蔑』でフリッツ・ラングが坐らされたのと同じ椅子に坐らされた体験について語っている。磯崎は、カサ・マラパルテがマラパルテ自身の小説やゴダールの映画あるいはその他さまざまな媒体によって記録されてゆく過程でこうした反復を生むものこそ、その「デザインの力」だと言う。そして、この家においては光景までもがひとつのデザインであるとするならば、そこに働いているのは、光景のもつ「かぎりない誘惑をつづける力」である、と★三一。
ゴダールが『軽蔑』のなかでフリッツ・ラングに監督させたハリウッド映画が「オデュッセイ」であったことが思い出される。クラカウアーもまたポジターノを訪れる船をオデュッセウスの航海に譬えていた。放浪と帰還をめぐる物語のヨーロッパにおけるひとつの原型であるこの神話のなかで、オデュッセウスはマストに自分の身体を縛り付け、船の漕ぎ手たちの耳には蝋で耳栓をすることで、セイレーンたちの歌声を自分一人は耳にしながら、その誘惑に抵抗して死を逃れた。クラヴェルの監視塔やカサ・マラパルテはともに、この神話の記憶を残す島々を遠望する位置にあった。マラパルテは「そぞろ歩き」のなかで、今ではガッリ島という名をもつこの群島のひとつを訪れた旅を回想している。「ホメロスのセイレーンの島々、ユリシーズの眼に白く輝く人骨に見えた黒い岩々、そこに汚れたセイレーンは、腐った息と美しい声で、巣をつくったのだ」★三二。
ドイツからの知的放浪プロレタリアートたち、バーゼル出身の傴僂のクラヴェル、そしてトスカナ生まれでドイツ人を父にもつマラパルテといった人々は、経済的な困窮から逃れるために、あるいはみずからの身体との闘いのため、自分自身を閉じ込める牢獄を生み出すために、南イタリアへと向かった。この放浪の旅の過程で、クラヴェルとマラパルテというオデュッセウスは恐らく、この土地の「呪縛の圏」に囚われてしまったのである。彼らはマストに身を縛り付けることなく、セイレーンの歌声を聞いてしまったのだ。いや、カフカが言うように、歌声に優るセイレーンの武器が沈黙であるとすれば★三三、彼らが囚われたのは、その絶対的な沈黙に支配された風景の力だったのである。そして、そのような風景とは「イメージも概念もないような出来事」のイメージ、すなわち死のイメージというありえない何かにほかならない。
「呪縛の圏」という冥府への接近を前にして踵を返したベンヤミンは、ナポリをはじめとする都市の思考像をテクストに定着するだけでこの土地を立ち去ることができた。しかし、セイレーンの誘惑、その魔性の力への愛に身を委ねてしまった者たちは、「私に似た家」という自伝的な空間を、倦むことなくこの土地で作り続けてゆくしかなかった。彼らにとってはイメージをもたないもののイメージのなかに文字通りに住まうこと、この沈黙した風景と肉体的に一体化してそこに埋没することが必要だった。だからこそ、彼らの住まいとは同時に冥府であり、棺にも似た牢獄なのである。地中に穿たれた睾丸=卵のカプセルというクラヴェルの両性具有的な洞窟や、地中海を望む虚ろな舞台としてのテラスと大階段を備えたカサ・マラパルテはいずれも、古代の神話が反復される場であると同時に、この作家たちの生や幻想が幾重にも織り込まれ、ほとんど身体の一部となり血肉と化してしまった何かである。肉体の崩壊、ヨーロッパの崩壊──「壊れたカプツト」ものを結び合わせる変容の儀式の場であることによって、そこはいずれもこれら「現実の寓意家」たちの舞台であった。クラヴェルの岩石幻想は冥府の「母たちの国」へ向かい、マラパルテは皇帝ティベリウスを反復する帝国幻想をいわば「囚われの王」として演じていた。この二人はその外面的な人生においてはあまりにも違う。しかし、海を隔てて向かい合う二つの奇妙な家を対にして捉えるとき、われわれはカプリ島とポジターノを結ぶ「呪縛の圏」としての地中海がもつ誘惑の力、その反復を生み出す力を信じずにはいられないのである。

7──《カサ・マラパルテ》 写真=Andrejs Grants 出典=Michael McDonough(ed.), Malaparte: A House Like Me, New York: Clarkson Potter, 1999.

7──《カサ・マラパルテ》
写真=Andrejs Grants
出典=Michael McDonough(ed.), Malaparte: A House Like Me, New York: Clarkson Potter, 1999.

8──《カサ・マラパルテ》 出典=Marida Talamona, Casa Malaparte, Princeton Architectural Press: New York, 1992.

8──《カサ・マラパルテ》
出典=Marida Talamona, Casa Malaparte, Princeton Architectural Press: New York, 1992.


9──リパリ島のマラパルテ、1934年春 出典=Casa Malaparte.

9──リパリ島のマラパルテ、1934年春
出典=Casa Malaparte.

10──《カサ・マラパルテ》のホール 出典=Casa Malaparte.

10──《カサ・マラパルテ》のホール 出典=Casa Malaparte.

11──ジャン=リュック・ゴダール『軽蔑』より 出典=Malaparte: A House Like Me.

11──ジャン=リュック・ゴダール『軽蔑』より
出典=Malaparte: A House Like Me.

註 
★一──Walter Benjamin, Rezension: Jakob Job, "Neapel. Reisebilder und Skizzen"(1928), In: ders.: Gesammelte Schriften, Hg. Ènvon Rolf Tiedemann und Hermann Schweppenhäuser, Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1991 [1972-1989], Bd.III, S.133.
★二──以下、カプリ島およびポジターノ時代のゾーン=レーテルについては次の記述に基づく。Carl Freytag, Alfred Sohn-Rethel in Italien: 1924-1927, In: Alfred Sohn-Rethel: Das Ideal des Kaputten, 2, Aufl, Bremen: Verlag Bettina Wassmann, 1992, S.39-52.
★三──Walter Benjamin und Asja Lacis, Neapel(1925 [1924]), In: Gesammelte Schriften, Bd.IV, S.309.  邦訳=ヴァルター・ベンヤミン+アーシャ・ラツィス「ナポリ」(『ベンヤミン・コレクション3 記憶への旅』浅井健二郎編訳、ちくま学芸文庫、一九九七、一四八頁)。
★四──Ibid.  同、一四八─一四九頁。
★五──Ibid., S.310.  同、一五〇頁。
★六──Sohn-Rethel, op.cit., S.13参照。
★七──Ibid., S.14.
★八──Ibid 参照。
★九──Ibid., S.34.
★一〇──Ibid., S.37.
★一一──Benjamin und Lacis, op.cit., S.312.  ベンヤミン+ラツィス「ナポリ」、一五五頁参照。
★一二──Walter Benjamin, Ursprung des deutschen Trauerspiels(1928[1923-25]), In: Gesammelte Schriften, Bd.I, S.332.  邦訳=ヴァルター・ベンヤミン『ドイツ悲劇の根源 上』(浅井健二郎訳、ちくま学芸文庫、一九九九)三四六頁参照。
★一三──Freytag, op.cit., S.46 参照。
★一四──Siegfried Kracauer, Felsenwahn in Positano (1925), In: ders.: Schriften. Hg. von Inka Mülder-Bach. Bd. 5-1: Aufsätze 1915-1926, Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1990, S.330.
★一五──Benjamin, Job, S.133 参照。
★一六──Siegfried Kracauer, Rezension: Adolf von Hatzfeld, 'Positano', In: Frankfurter Zeitung, 7.2.1926. Zweites Morgenblatt. ただし、引用はFreytag, op.cit., S.40に拠る。
★一七──以下、クラヴェルの経歴などについては次に基づく。Harald Szeemann (Hg.), Visionäre Schweiz, Aarau: Verlag Sauerländer, 1991, S.97-100.
★一八──一九二〇年一一月一五日付、弟ルネ・クラヴェルへの手紙より。Gilbert Clavel 1883-1927. Sein Lebensgang in Briefen. In: Ibid., S.256.
★一九──Kracauer, Felsenwahn, S.335.
★二〇──Ibid.
★二一──一九二七年八月二七日付の手紙より。Gilbert Clavel 1883-1927, S.288-289 参照。
★二二──Szeemann, op.cit., S.100 参照。
★二三──引用はIbid. に拠る。
★二四──一九一一年一一月、弟ルネ・クラヴェルへの手紙より。Gilbert Clavel 1883-1927, S.234.
★二五──Kracauer, Felsenwahn, S.334 参照。
★二六──Marida Talamona, Casa Malaparte, Princeton Architectural Press: New York, 1992, p.31 参照。カサ・マラパルテの設立経緯などについてはおもに本書に依拠した。
★二七──Ibid., pp.45-45 参照。
★二八──Curzio Malaparte, La Passeggiata(1936).  邦訳=クルツィオ・マラパルテ「そぞろ歩き」(和田忠彦訳、今福龍太ほか編『世界文学のフロンティア6 怒りと響き』所収、岩波書店、一九九七、一二二─一二三頁)。
★二九──『牢獄への遁走』第二版序文より。引用はTalamona, op.cit., pp.61-62 に拠る。
★三〇──Curzio Malaparte, La Pelle (1949).  邦訳=クルツィオ・マラパルテ『皮』(岩村行雄訳、村山書店、一九五八)一七五頁。
★三一──磯崎新『栖十二』(住まいの図書館出版局、一九九九)二七─二八頁参照。
★三二──マラパルテ「そぞろ歩き」、一二九頁。
★三三──Franz Kafka, Das Schweigen der Sirenen.

>田中純(タナカ・ジュン)

1960年生
東京大学大学院総合文化研究科教授。表象文化論、思想史。

>『10+1』 No.21

特集=トーキョー・リサイクル計画──作る都市から使う都市へ

>ヴァルター・ベンヤミン

1892年 - 1940年
ドイツの文芸評論家。思想家。

>磯崎新(イソザキ・アラタ)

1931年 -
建築家。磯崎新アトリエ主宰。

>今福龍太(イマフク・リュウタ)

1955年 -
人類学。東京外国語大学大学院教授。