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木造密集地区に住む──京島の例──密集市街地のジレンマ | 三宅理一
Living in Areas of High Density Wood Construction─The example of Kyojima: Dilemma of a High Density Zones | Miyake Riichi
掲載『10+1』 No.27 (建築的/アート的) pp.154-161

先回、日本の木造密集市街地について問題を投げかけた。何よりもわが国の都市計画の盲点であり、この二〇年ほどの間に繰り返し議論され、さまざまな施策が試みられてきたが、いまなお問題解決の糸口が見えてこないところである。行政や住民協議会が手を変え品を変え何かを動かそうとしても、なぜか動きが芽生えてこないということで、無力感が覆いつつある場所でもある。中心市街地や歴史都市のようにその土地に特別な力が潜んでいるわけでなく、古びた住宅をぎっしりと詰め込んだどこにでもある町並みということで、計画を行なおうにも手がかりがない。二〇世紀の間に異常なスピードで増殖し、気がついてみれば二〇世紀の負の遺産としてわれわれをがんじがらめに縛ってしまったのである。
木造住宅密集市街地が計画面できわめて厄介な場所であり、この問題を回避しては都市問題が解決しえないということは、行政も住民もよく理解している。小泉内閣の都市再生本部が木造密集市街地問題を施策の目玉のひとつとして掲げたくらいだから、少なくとも官レヴェルではそろそろ本気になってこの問題に向かい合うことを決断したようだ。生活環境を向上させ長持ちする都市づくりを行なおうという一連の政策のなかで本腰を入れて一気に解決を図りたい課題であることが、いまようやく官民挙げて認識されるに至ったと言ってよい。しかし、それに対する方法論がまだまだ未熟であるのも事実である。問題はよくわかっているけれども有効な手段が見つからない、というのが本音であろう。だからこそ、多くの地区で行政や専門家による調査が繰り返し行なわれている。
そういう私自身も、密集市街地の調査を繰り返し行なってきた。正直言って関西のことはまだ深く研究していないが、少なくとも関東においてはかなりの地区を回っている。地元の生活サイドから見ていると、この問題がいまや国家的な問題になってきたのは確かだが、その掛け声がまだ地べたの水準には届かず、この何十年と放置されてきた問題がここで一気に解決に向かうとは考えがたい。行政サイドから地域を対象としたさまざまな取り組みがなされてきたにもかかわらず、生活の質はそう向上したとは言えない、と言ったら叱られるだろうか。役所の会議室や研究室の製図台の上では間違いなく問題は解決に向かっているはずであり、それなりの施策が動いているように見受けられるのだが、それでも解決を実感することができない。いきおい制度が硬直化している、現場の実態とかけ離れている、不動産の問題をクリアしていない、といった批判の声が湧きあがってくるが、だからといって問題を他人任せにするわけにはいかない。現実が動かないというところでディヴェロッパーにははなはだ評判が悪く、そこに投資をする企業も少ない。あってもマンションへの建て替えくらいである。結果として、問題は相変わらず以前のままであるわけだ。
こういう堂々めぐりのジレンマから抜け出すための議論が必要である。老朽化した地区が再開発によって見事なまでに新しくなりアップトゥデイトで快適な生活が送れるといった八〇年代型の見取り図はもう通用しない。住んでいる限りにおいて変化はじわじわとやってきて、気がついたら地域のありようが変わっていた、という程度のゆったりとした計画を等身大のスケールで考えていかなければならない。身の丈に合った思考を育み、自分の眼で納得のいくように物事を眺めていかないと、この地域のリアリティは出てこない。そこで、今回は、この密集市街地の中に入りこみ、より身近で日常的な視点から人々の暮らし向きを見ていく必要がありそうだ。ここしばらく実施してきた地元での調査の結果などを織り混ぜながら木造密集地域の住まいの実像を明らかにしていきたい。

京島の場合

これまでに都市計画の対象として取り組まれた木造住宅密集市街地は数多い。といっても、東京で言えば密集市街地は都心をリング状に取り巻いているわけだから、その面積もきわめて大きく、実際の事業が行なわれているのはそのごく一部にすぎない。それらのなかで特によく知られているのは、世田谷区の太子堂地区や墨田区の京島地区だろうか。前者は、三軒茶屋から近いところで、表通りの二四六号線からは見えないが、一度中に入ってしまうと細い道が曲がりくねりながら続き、道沿いに小さな家がぎっしりと建ち並んだ典型的な密集市街地である。地区面積三五ヘクタールあまりで、ちょうどよい近隣のスケールと言えよう。一九七〇年代からまちづくり事業が始められ、四半世紀を過ぎて町並みの変化が著しい。木造住宅の不燃化が進み、建て替えによって新しい住宅が古い住宅を追い越してしまった。こぢんまりとしたマンションや鉄骨造の住宅が高い密度で並んでいて、妙にデザインされた道路と住宅の取り合わせがどこか不思議な町並みの印象を与えている。住民参加、防災性の向上といった点ではある程度目標を達成しつつある。
同じ時期にまちづくりが試みられながら、当初の計画通り事業が進まないのが墨田区の京島地区である。面積は二五ヘクタールあまり、古い木造住宅がぎっしりと詰まった地区である。墨田区を全体として眺めると、整然と碁盤の目状に整備された南側の地域と、狭隘な古い農道のシステムがそのまま残った北側の地域に分割され、京島地区は北側地域の中でももっとも非計画的な場所としてあまりありがたくないイメージを植えつけられてきた。隣の向島が、料亭や置屋といった遊興の文化をともなって粋な印象を与えてきたのと好対照である。実際、京島を訪れた時の第一印象は、小さな町工場が連続し、長屋が所狭しと並んでいて、これぞ本当の下町というのにふさわしいものだった。東京のかなりの部分に点在していたはずの町並みがいまはここ京島にしか残っていないと思わせるに十分なほど、ノスタルジーを感じさせる古い下町である。昭和初期の町並みを残したという点では、下谷根岸や月島とならんで、注目すべき場所なのである。
この地区が住宅地として形成されたのは、一九二三年の関東大震災の直後であった。もともと江戸の外縁の湿地帯であったのが、大震災の直後に深川や錦糸町の被災者たちが急遽宅地を造成し、新しく建築された住宅に移り住んだのがこの町の始まりである。それゆえ、インフラ整備もほとんどなされずに、農道がそのまま今日の道となっているわけだ。第二次大戦の時も奇跡的に空襲にあわず、そのため終戦直後は多くの人が移り住んで、ヘクタールあたり八〇〇人強という驚異的な居住密度(おそらく世界一)を記録した経験がある。だから京島地区の住宅は大正末から昭和初期にかけて建造されたものがきわめて多く、古い建物が残らない東京では珍しいくらい古い住宅地なのである。
もっともこれまでの計画コンセプトでは、そうした昭和の蓄積としてこの町を捉えていたわけではない。木造の不良住宅が堆積し、防災面でもアメニティの面でもきわめて評価の低い地区として位置付けられてきた。計画らしきものが始まったのは、実質的に一九七一年の時点で提出された東京都住宅局による基本計画であるが、この案では六〇年代式の全面再開発は斥けながらも高層住宅によって町の全体を大きく変えてしまうことになっていて、下町の下町らしさを一顧だにしないものであった。この案は当然ながら、その後の見直しによって取り下げられる。
まちづくりの施策が急展開するのは一九七〇年代から八〇年代にかけてであり、密集市街地についても制度上大きな前進があった。再開発という考え方をなるべく避け、修復型のまちづくりというコンセプトが登場するのもこの頃である。太子堂地区はその手法を用いて事業が進み、京島地区もそれに倣った。住民参加が打ち出され、まちづくり協議会が組織され、区が事業を進めるために「まちづくりセンター」を立ち上げる。「まちづくり」をキーワードに制度の充実化と住民の組織化がなされていくわけだが、問題はその中味であった。計画の骨子は、道路の拡幅と不良住宅の建て替えにある。区画整理に頼らないで土地の買収を行ない、まちづくり事業用地を確保するという手法は確かによく考え抜かれたものであったが、住民や地元の産業にそのためのインセンティヴをいかに与えるかという点で多くの問題を残していた。事業を行なおうとする行政の意思は伝わってくるのだが、地元の人間がそれになかなか同意せず、事業の進行は遅れがちとなった。それでもこれまでに多くの報告書が提出されている。
一般に事業報告書の類は行政サイドから記されるもので、その活動の主体は行政となり、住民はあくまでも支援されるべき対象として描かれる。役所の活動報告なのだから当然と言えば当然だが、NGOはなやかなりし時代であるのだから、役所以外の別の見方もあってよいはずだ。従来官の位置がきわめて高かったわが国では、有能なテクノクラートを集めた官が、人々を啓蒙指導する存在となっており、いまでも地方に行けば行くほどその構図は変わらない。官の報告書がもっともオーソライズされた文書として位置付けられ、またそのように流布するのはひとつの事実であるが、別の事実も存在するかもれない。事業報告書を読みながら、地区の分析を追い、計画の動きを追っていくと、心のどこかで不協和音が発生することがある。実は京島でもそうだった。
教科書的に言えば、従来の国・都・区というかたちのヒエラルキーのもとで下降していく意思決定の構造は、一九九〇年代に入って権限委譲によって地元に委ねられたことになっている。区のレヴェルに立てば、地元の人間の顔が見え、住民一人ひとりの声を聞きながら施策を講じていくというごく当然の作業がようやく可能になったと言えそうだが、住む側から言うとそう簡単なものではないらしい。
墨田区による京島のモデル事業はコミュニティハウスの建設である。老朽化した木造住宅に住んでいる人たちを徐々にこの公共住宅に移して、段階的に用地を確保して、道路拡幅や新たなハウジングの計画を行なうというものである。しかし公共による用地買い上げを前提としたこの施策は区の財政を圧迫し、東京二三区の中でも特に収支が悪い墨田区としてはそのようなことを延々続けるわけにはいかない。一九九九年の時点でコミュニティハウスの建設も凍結されてしまった。

越後三人男

京島地区の建て替え事業がうまく進まないのは必ずしも区の財政事情に起因しているだけではない。区が用地をなかなか取得できない、住人が土地や住宅を容易に手放さないのは、それ以外に理由がありそうだ。このあたりは密集市街地を外から眺めていただけでは理解しがたいところがあるが、中に入って住民からヒヤリングを繰り返し、地元の関係者から生の声を聞いているうちに少しずつ実相が明らかになってきた。わかりやすく言えば、地区の成立過程そのものに起因している、ということだ。
そこでいま一度、京島の成立過程を概観してみよう。
昔の町の成り立ちを知るには、江戸時代の絵図や明治以降の地図が大いに役に立つ。それらによると、この地区は江戸時代には池や沼が多く分布した沼沢地であり、明治に入って向島方面が市街地として発展するのに対して長らく田畑と沼が入り組んだ田園地帯として取り残されていた。明治中期に、本所から金魚養殖業者が移転して養殖業を営んだという事実が、この一帯の性格をよく物語っているだろう。ちなみにこの金魚養殖業者の家系は今日でもここ一帯の主要な地主のひとりである。
京島が本格的な住宅地として成立したのは、先に述べたように、関東大震災が契機であった。震災で家を失った本所一帯の人々が、向島を含むこの地域に入り込み、そのまま住みついたのである。そのプロセスで面白い事実が浮かび上がってきている。震災直後の住宅難に眼をつけた大工が、京島に棟割長屋を多数建て、それを人々に賃貸したのである。地域の住民に語り継がれている話であり、この地区の報告書にも載せられているが、震災直後に新潟方面から出てきた「越後三人男」と呼ばれる大工集団が、京島一帯で土地を地主から借り受け、そこに多くの長屋を建設して長屋経営を行なったのである。大正版紀伊国屋文左衛門であるが、災害がひとつのビジネスチャンスであり、それが住宅地の形成に大きく寄与したという点は注目したい。この越後三人男は、田畑に石炭殻を投げ込んだ程度の地盤に住宅を建てたということで、本格的な土地造成もなされないまま、このあたりが宅地と化した。震災後のドサクサに紛れてというのもあったと思われるが、公の関与がまったくないまま低家賃の住宅地が生まれていった。建てた長屋を抵当に入れ資金を調達してさらに長屋を建てることにより、長屋の町並みが増殖していく。民間の建設業者による借家の建設と経営と言ってよいが、この種の宅地経営は全国いたるところに分布していたはずだ。京島の場合は、その当時の建築群が今日まで残ったという点に特徴がある。
にわか仕立てのディヴェロッパーである越後大工衆は同郷の大工衆をさらに集めて、一九二〇年代末までに多くの長屋を建て、彼ら自身もこの土地に住みつく。興味深いのは、大工衆が借地人となり、地主から借り上げた土地の経営を行なったという点である。これによって、底地を所有する地主(地権者)、土地を借り住宅を貸す借地人、自分の所有するものは何もなく家賃を払って住むだけの借家人という構造ができ、それが今日まで延々と続くことになる。大工衆の家系は今日でも主要な借地人であり、大正期の地権関係がいまだに継続しているという、京島ならではの現象が特筆される。
この問題は深刻である。京島地区の根底には、地権をめぐる複雑な関係が重なりあっており、まちづくりが進まない理由のかなりの部分がこのあたりに端を発しているように見受けられる。京島に住む人間のかなりの部分が借家人であり、借地人、地主の数は僅かに過ぎない。地主は本音のところ、土地を市場に出して一定の利潤を上げたいと思っている。しかし、底地の上に古い住宅が建ちそこに古くからの借家人がいると、旧借地借家法によって借家人の権利は保護され、土地を売却しても住んでいる人間を追い出すことはできない。借家人の権利は子の代まで継続する。だから、ディヴェロッパーにとっては、そのような土地を購入しても借家人が住んでいて更地にできず、立ち退き交渉をすれば大変な補償金を支払う破目になることから、関心の対象にすらなりえない。しかも、一定の土地を地上げするためには複数の借地人を取りまとめ、そのうえでさらに圧倒的多数の借家人の同意を得なければならない。相続問題もあって早めに土地を処分しておきたい地主の意向と、家賃と地代あわせても小額で済む状況を維持したい借家人の意向が真っ向から対立する構図となっている。間に入った借地人は、地主との関係を清算したいが、面倒な借家人との交渉には立ち入りたくない。いきおいこの土地の開発ポテンシャルは限りなくゼロに近づくわけだ。
この三すくみの状況が、京島の変化を妨げている。古き良き町並みが残るとしたらそれはそれでひとつの方策となるかもしれないが、防災や居住環境面で深刻な問題を抱えるこの地区としては放置するわけにもいかない。かといって財政悪化の自治体としては、税金を使って地主の権利を保護するわけにはいかず、また立ち退き補償金も支払えない。できることは、いま住んでいる借家人が何らかの理由で引っ越すか、死去するのを待って、その土地を事業用地として買い取ることである。しかし、棟割長屋にはいくつもの所帯が入居しており、そのすべてがいなくなるのを待つのはまさに百年河清を待つ心境だろう。

高齢化と空家

木造密集地域の住人は一般に高齢化している。とりわけ都心を環状に取り巻く密集市街地では顕著である。むろん京島地区はその先端を走っていると言ってもよい。住んでいる人間はやがて年齢を重ね、高齢化するのは世の習いだから、問題は高齢者が多いということよりも、若い人が住まないということにある。国勢調査の結果を見ると、高齢者つまり六五歳以上の人口は一九九七年で二〇パーセントを超し、東京都平均の一三・七パーセントをはるかにしのいでいる。町を見渡せば老人の夫婦もしくは単身者世帯が目立ち、逆に若者の数は年を追って減少しつつある。わが国全体の人口の推移が高齢化に向かっており、いわゆる過疎の地域では高齢者の比率が四〇パーセントを超すところも出てきているわけだから、東京の下町の場合はまだ序の口と言われればそれまでである。しかし、京島に限って見ていくと、年齢の問題だけでなく、建造物の老朽化、空家の発生といった現象が、高齢化とパラレルな関係にあるように見え、コミュニティ全体のポテンシャルが一気に下がってきたように思わざるをえない。
先にも示したように、この地区の建築は東京の中では相当古い部類に属する。築七〇年というのはヨーロッパではまだ新しいかもしれないが、平均二〇年前後で建て替えの繰り返されるわが国では、よくここまで持ったと拍手をしたいくらいの物持ちの良さである。一軒一軒眺めてみると、長屋あり、戸建てありでタイプも微妙に異なっているが、近代史のある時期に登場した町並みとしてのタイポロジーをそなえている。二〇〇〇年の春に、私の研究室でこれらの建造物の実態調査を行なってみた。任意抽出の九六軒を対象に調べてみると、約半数は視認でも老朽化が明らかに認められ、さらに防災危険度を算定してみると倒壊もしくは大破壊の恐れを示した建物がやはり半数を超えた。ということは、関東大震災クラスの震災に見舞われたら、町並みの半分は破壊され残り半分くらいが半壊の状態になるということだ。いまのところ耐震補強の工事も進まず、建造物は以前と同じ状態のままだから、その危険はかなり現実的なものである。
こうした古い住宅に高齢者が住んでいる。しかし、近年目立つようになってきたのは、もう誰も住まなくなった空家が増えてきたということである。研究室の大学院生の調査によれば、京島で空家のサンプリングを行なったところ、全住戸数の約五・四パーセントの空家が検出され、そのほとんどが木造だったと報告されている。一般に空家と言えば、賃貸もしくは売却を待っている物件が多くを占め、東京では全住戸数の一一パーセント強が空家となっているものの、その六〇パーセントは有効利用を前提とした仮の空家であって、老朽化等の理由で空家になっているのはむしろ少数である。ところが、京島の場合は反対で、検出された空家の大半はさまざまな事情で人が住まなくなってしまったものだ。
本来、京島のような場所は、人々の結束が固く人情にも厚い典型的な下町のコミュニティを舞台にしている。付き合いもよく、面倒見もよい。しかし、高齢化が進み、空家が発生してくると、従来あったような密度の高い人々の接触の機会がだんだんと失われてくる。人間歳を重ねれば勢いがなくなるもので、戦後しばらく続いていたような賑やかで人間的な京島の活力はいまや明らかに失われつつある。しかも空家が発生すると、ホームレスなどの部外者が居つくようになり、このところ不審火が続いている。ただでさえ火災に弱い木造密集地区に、このような火災の心配が加わったのでは落着いて眠ることもできない。やはり若い人が戻ってきて町並みに活気が戻るような仕掛けが必要なのである。
ところで、建造物の老朽化という表現を仮に建造物の歴史化と言い換えてみたらニュアンスはどう変わるだろうか。わが国でも外国でも、歴史都市は大事にされ、保護の対象となっている。かつては文化財という視点が一般的だったが、近年は建築と空間の持続的な発展のための資産という見方も広まっている。後者の立場に立てば、何も世界遺産クラスの歴史的環境でなくとも、古いものを上手に使いこなし、そこに新しい要素をバランスよく埋め込んでいくだけでも、歴史と時間の意味がうまく伝わるはずである。密集市街地にはそのような考え方は成立しないのだろうか。そこに成立している建造物を文化財として保存せよ、ということではなく、建て替えは前提でも時間の系に即した別のタイプの計画手法があってもよいのではないだろうか。京島のような「ほかにまたとない」木質環境をより前向きに評価して、その将来を考える方向を是非とも模索しなければならない。現に、外国人で東京に来ると京島に足を運ぶ人が増えてきた。住民が知らないうちに、京島の隠された歴史がひとり歩きを始めたようである。

向う三軒両隣

京島のポテンシャルを知るためには、やはりそこに住んでいる住人の暮らし向きと生活行動を知らなければならない。下町の町並みについては、多くの研究が発表され、建築、都市論、社会学等、幅広い分野をまたがって、興味ある報告が出版されている。町並みを維持するためには、居住環境の実態を知り、人々が自分たちの町と住まいをどのように認知し行動しているかを十分に把握しておかなければならない。IT時代と言われる現在、コミュニケーションの方法がどうなっているかも私たちには興味あることだった。
そこで京島を対象として先の建造物実態調査と並行して住民の居住実態調査を行ない、空間とコミュニケーションとの関係について調べてみた。先に示した任意抽出の九六軒の住宅を対象とし、この土地にどれだけの愛着をもっているかをさまざまな指標を用いて測定した。調査担当の大学院生たちは、一軒一軒のお宅を訪ね、詳しい聞き取りを行なったわけだが、この地区の人たちはきわめて開放的で自宅に学生を招き入れ、一時間以上にわたって話に興じる人も少なくなかった。そのアンケートから明らかになってきたのは、地域のコミュニティへの参画度が高く、地元への満足度が非常に高いということであった。地震や火事には弱い住宅地ということを百も承知で、この場所に住みつづけたいとの希望が強く、また地元商店街への愛着も相当なものであった。住人の年齢が相対的に高いということもあるが、彼らの行動範囲は京島の近隣で比較的完結しており、東京の他の場所のようにコンビニ文化に染まっているような気配はまったくない。対象とした住宅の平均床面積は五〇平方メートルに満たないが、密度の高いコミュニケーションと界隈性がこの地区を支えているように見受けられた。
興味深いのは、住民の情報伝達がどのような手段で行なわれているかということであるが、電話は当然としても、その次に多かったのが回覧板であった点である。フェイス・トゥ・フェイスの関係が、きわめて重要視されていることが理解できる。反対に、電子メールなどはほとんど用いられておらず、今日問題になりつつあるデジタル・デバイド現象をはっきりと見て取ることができる。彼らのコミュニケーションの場所は、「道ばた」とするのが一番多く、また隣近所の人と毎日話す人の割合が五五パーセントにも及んでいることから、自宅の周辺の道ばたが住民の日常的な邂逅や情報交換の場所であることが見えてくる。
このように住民をサンプリングしてその空間利用の実態とコミュニケーションのあり方を調べていくと、絵に描いたような下町の暮らしぶりが浮かび上がってくる。木造の古く小さな家に住みながら、隣近所との付き合いを楽しみ、道ばたで立ち止まって会話を交わす。買い物は近隣の商店街(橘銀座商店街など)に出かけ、ゆっくりと商品を見定めて買う。隣人が困っていれば物を貸し、町内会で声がかかればすぐに馳せ参じる。つまりは、「向う三軒両隣」の世界である。このような日常で住民は動いており、地域へのコミットメントは東京の中でも抜群に高いように思われる。京島地区を斜めに貫く橘銀座商店街は戦後長い間墨田区でもっとも人を集め活気のある商店街として知られており、いまでもその雰囲気は変わらない。そういう地元の魅力が、住人を惹きつけてやまないようだ。
しかし問題は、住民層が急速に高齢化し、古くからの生活様態が必ずしも若い人としっくりいっていないところにある。高齢者は自動車社会にそれほど順応していないが、若者はやはり車が自由に使えるところを好む。家が狭いということもあって、子供たちは成人して外に出てしまい、そのことが人口減少に拍車をかけている。古きよきコミュニティを維持しつつ、今日の社会的要請にも応えなければ、京島の将来はきわめて暗い。土地の売買をめぐる地権者たちの意向とはまた別のところで地元の生活が営まれているのである。

電気カーペットの部屋

以上のように京島の町並みとその生活をかいつまんで眺めてみたが、「向う三軒両隣」の世界からもう少し住宅の中に入って生活振りを眺めてみよう。イメージとしてはある程度わかるのだが、その詳しい実態となると意外と調べられていないようである。たまたま一九九九年の二月から三月にかけ、密集市街地で環境とエネルギーに対する意識と実態に関する調査を行なったので、その結果から多少関係ある部分を拾って考えてみたい。この調査は、細かく分かれて分散する密集市街地のエネルギー効率がかなり無駄に見えるようだが、その実態をチェックし、都内の一般的な住宅地との比較を行なっていこうというものである。敢えて冬に調査を行なったのは、寒さゆえにエネルギー利用実態がより鮮明に浮かび上がると期待されたからである。
結果は大変興味深いものだった。民間のエネルギー使用について手っ取り早く調べるのは電気やガス、あるいは灯油の代金をチェックすればよい。その結果明らかになってきたのが、この京島地区では総じて光熱費が都内平均よりも二割ほど高い。世帯規模も小さく、住宅の空間も狭い。にもかかわらず、住人は高い光熱費を払っているのである。理由として考えられるのは、以下のようなものだろうか。
ひとつはこの地域の住宅が総じて木造の断熱性能の悪いものであるから、当然用いる暖房(あるいは冷房)機器を多めにしなければならない。また、老人が多いため在宅率が高く、その分エネルギーを使用する。さらに、建築後長い年月が経っている建物が大半なので、室内に昔から買い揃えた機器が多くなり、それらを混ぜ合わせて使っているので、それだけエネルギー消費が高くなるという意見もあった。実際にどのような暖房機器を用いているかを詳しく調べてみると、電気カーペット、電気コタツ、電気ストーブ、石油ストーブの順になっていた。ガスはそれほど人気がない。面白いことに、調査対象所帯数の三分の一が単身もしくは夫婦のみであるにもかかわらず、全体ではテレビが一家に平均二台はあるということがわかった。これは、ある程度年齢がいった子供が、別のテレビを用いているということであろう。ほかにヘアドライヤーも多かったが、これは「朝シャン」の影響だろうか。両親が居間の畳の上に電気カーペットを敷き、そこでコタツに入ってテレビを楽しみ、子供たちは別の部屋で別のテレビを見ている生活振りがそのまま伝わってくる。こうした木造密集地域の平均的家族像は、東京の他の部分とそれほど変わりがない。核家族化は、密集市街地にも押し寄せてきている。
調査ついでに、現在一般によく用いられている環境用語がこの地域でどの程度浸透しているかを調べてみた。昨今話題になっている環境・エネルギー用語にそって用語別の関心度をアンケート調査で求めたところ、たとえば「リサイクル」とか「地球温暖化」といった日常新聞紙面などに露出する回数の多い言葉はさすがに八割程度の人が関心ありと答えたが、「コジェネ」や「ビオトープ」などは「COP3」よりも知名度が低く、関心度はともあれ、その名を多少なりとも知っている人は一割を切る有り様だった。「コジェネ」すなわち熱電併給システムは現在叫ばれ始めている小型のエネルギー供給システム(マイクロパワー)のキーワードであり、また「ビオトープ」はエコロジカルな生物多様体を示す用語で、今日の環境計画に欠かせない概念である。にもかかわらず地元の人たちはその種の専門用語からはほど遠い生活を送っている。
一般的に言って、人々の環境に対するジャーナリズム的理解はきわめて大きい。常日頃接している新聞、あるいは学校での教育によって、概論的な知識は少なくない。しかし、その理解と自らの等身大の環境とが意外としっくりといっていないのである。
写真家集団が世界を回って一軒の家から家具調度の類をすべて外に出し、その横に家族が並んで一家の肖像写真を撮ったシリーズは、『地球家族』(TOTO出版)として刊行され、大変評判になった。そのなかで家具調度がもっとも多いのは日本人で、風呂敷一包みくらいで動く遊牧民とは好対照であった。一度家の外に家の中身を持ち出すと、家よりもかさばり、いかに日本人が家の中に物をため込んでいるかがわかる。京島地区とて同じで、古い家が多い分、家の中はさまざまな機器で一杯なのである。いまほしい器具のトップに上がっていたのが床暖房と電気洗濯物乾燥機となっていて、冬寒く梅雨の時期には湿っぽい日本家屋がそのまま表わされているようで、身につまされる思いであった。

京島は東京の中でも大変ユニークな場所である。いまはなくなりつつある古き昭和の世界がタイムスリップしたかのように残り、そのなかに良い意味での平均的な日本人像が写し込まれている。成立過程における複雑な土地と住宅の関係がいまなお尾を引き、そのことが新たな開発を妨げ、町並み改良も難しくしている。しかし、この状態を単純にそのまま消えつつある町並みと位置付けるか、あるいはこの京島を引き金とした都市の新たなオルタナティヴへの足がかりとするかによって、その意味するところは大きく異なる。今回は、京島の実像を伝えたが、今後さらにその可能性について論じていくことにする。

>三宅理一(ミヤケ・リイチ)

1948年生
慶應義塾大学大学院政策メディア研究科教授。建築史、地域計画。

>『10+1』 No.27

特集=建築的/アート的