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サウンドアートと音響空間デザイン | 池上高志
Sound Art and Acoustic Space Design | Ikegam Takashi
掲載『10+1』 No.44 (藤森照信 方法としての歩く、見る、語る。) pp.28-29

気鋭のアーティスト渋谷慶一郎さんと、第三項音楽という新しいサウンドアートをたちあげたのは去年の一二月である。第三項音楽はコンピュータでつくり出す音の世界である。「現代アート」といわれているものの多くが視覚優位なアートであって、音を使ったアートもあるものの、どちらかというと視覚的なもののオプショナルなものとして添えられていることが多い。ところが渋谷さんは、音、特に「瞬間の一音」に異常なこだわりがあって、知覚限界ぎりぎりの音の構造をつくり上げようとしている。僕はその態度に共鳴し、渋谷さんは渋谷さんで僕がやってきた複雑系のわかり方、生成のダイナミズムに興味があって、それで第三項音楽を立ち上げることになった。複雑系は九二年に僕が、共同研究者の金子邦彦(東大)、津田一郎(北大)氏らと、生命や進化の新しい理解の仕方を模索し、特にダイナミクスと観測という視点から、コンピュータ・シミュレーションを軸に立ち上げた新しい生命理論のパラダイムである(詳しくは朝倉書店から二巻出ている『複雑系双書』を参照)。この複雑系の思想を今度はサウンドアートに向ける。
渋谷さんは、瞬間の音の構造を精密にデザインする。このことはまた作曲された「音楽」は、始まりと終わりのストーリー性を二の次にするということでもある。部分部分の運動性とか構造とかを全面に押し出して、解釈が一通りではないという意味で抽象性の高い音楽ができあがる。始まりと終わりという物語性をあえて否定して成立するところに、渋谷さんの音楽観がある。だから僕はそれを存在論的な音楽と呼んでいる。どんな音かは聞いてもらうしかないが、言葉でいうならば、いろいろと比重の違う流体の流れがあって、そこに小石をときどきほうり込む、とそれがきっかけで河が濁流になったり生き物になったりする。ゴォーゴォーと体を揺さぶる、だけど荒々しくはない。そんな感じである。
第三項音楽では、こうした存在論的音楽を引き受けて、いままでのコンピュータ音楽が不得手としてきた圧倒的な重層感と複雑さをつくり出そうしている。なぜ第三項かといえば、それは繰り返しと差異、あるいはドローンとメロディという二項対立からなる作曲の世界に、新しい三番目の作曲の要素、これは多分作曲家が無意識のうちに導入しているだろう動きとか、音そのものの自律性を持ち込もうという試みだからそう呼んでいる。特にこの第三項を強調することは、生成の立場を強調することになる。例えば音楽の歴史の上では、ケージやクセナキス、あるいはデーヴィッド・チュードアらが二〇世紀中頃に始めた試みだ。その後のダムタイプの音響を担当した池田亮二、さらにドイツ出身のカールステン・ニコライのサインウェーヴを駆使したミニマル音楽へとつながってくる。
しかしもともとケージが試みた音楽は、第三項音楽制作の観点から眺めるととても現代的に見えるから不思議である。初期のプリペアド・ピアノ(ピアノの弦の上にいろいろなモノを置いて音色を変化させる)、何も演奏しない無音の四分三三秒、魔法陣や易を使ったり、楽譜の汚れを音符とみなして演奏する偶然音楽(チャンス・オペレーション)、そして七五歳を過ぎてから始めた、ヴァイオリンならヴァイオリンの一弦を何分何秒奏でるという”time bracket”だけが楽譜の上に記載されたという、「ナンバーピース」という作品群へと結実する。この「ナンバーピース」は、音楽という境地を超えている、と僕は思う。最初に聞いた時は、どう聞けばいいのか、よくわからなかった。途切れることなく、軋むように音が続いていく。キュウウウウウウウウウーーン。実際にアーティストに評価の高いこの「ナンバーピース」、自分で音響設計ということを考えなければ、まず聞くことはなかった。
しかし今にしてみるとケージの音楽は生命そのものである。ケージがやろうとしたことを、駆け出しの僕がここで総括するのは身に余るが、生命=自律性の側面をどこまで表現の手法としてとりいれられるかが、ケージのやりたいことだったのではないか。考えてみれば、プリペアド・ピアノは、生命の持つopenness(何と相互作用するか決められない)であり、チャンス・オペレーションは生命の持つ創発性(emergence)、そして最後の「ナンバーピース」は、生命の自律性(autonomy)である。おまけに「ナンバーピース」は、聴衆と演奏家(あるいは作曲家)とのえも言えぬ緊張感をつくり出すが、その緊張感は観察者としてのわれわれを巻き込んで初めて成立する生命性(内部観測、internal observer)のことである。こうした妄想はケージの本(例えば、『小鳥たちのために』)を読むと確信に変わる。したがってケージの音楽は音楽にとどまれず、すべての前衛的なアートのシンボリックな存在足りえたことがあらためて了解できる。
現在オープン間近のわれわれの第三項音楽の最新作、《Filmachine》は、このケージの精神を受け継いでいる。しかし《Filmachine》でみたいことは、このケージの提案した生命観を超えることである。それは同時に、上であげた生命観が複雑系の科学で立ち上げた生命観そのものであって、同じことを音楽でやるだけでは面白くないからでもある。そこで後半ではケージの試みを踏まえた発展について書いてみたい。
《Filmachine》は、YCAMで八月九日から一〇月九日まで開催する音だけのアート作品である。YCAMとは、山口市にある山口情報芸術センターの略称で、映像や音、テキストを表現するためのメディア・テクノロジーを軸に創られた、新しいタイプのアート・ミュージアムである。銀色に輝く波状の屋根をした現代的な建物の中に、ガラスの壁で仕切った大きな展示用のスペースがある。建物の周りは芝生に取り囲まれ、白と銀色の建物は夏にはまぶしすぎる。この中に、圧倒的な制作の自由度を約束してくれるスタジオが用意されている。可動式の壁、キャットウォークからつり下げられる多数のスピーカー、さまざまな光源のパターンが用意され、贅沢すぎる施設である。われわれの作品は、プロジェクト「マッピング・サウンド・インスタレーション」というテーマで発表される。
このうちのスタジオB、一七メートル四方のwhite cubeの中に《Filmachine》音響空間は設置されている。館の真夏の白い銀色の世界とは対照的に中は黒色と明滅する冷たいLEDの光の世界である。二四個のスピーカーを、直径七メートルのほぼ球体上に配置し、仮想的な音響空間をエミュレートする、サウンド・インスタレーションである。このインスタレーションの核はHuron社が開発した仮想空間の立体音源のエミュレーターで、これを使うと、曲がりくねった空間や複雑な運動パターンを持つ音響空間がデザインできる。例えば、一部分の音は上から下に、一部は下から上に螺旋を描きながら運動する。あるいは徐々に音のかたまりが分岐したりする。特に音源が二次元平面をつくる「音の膜」が、観客の足元から上に向かって上昇していく感じは新しい知覚体験を与えてくれる。 音の膜は、ロジスティック・マップ(最も簡単にカオス現象がシミュレートできる一次元の写像)からつくったいろいろなホワイトノイズを、加工しながらレイヤーしたものをベースにしており、まるで巨大なジェット機が自分の体を突き抜けていくような音色に仕上がっている。この音の膜に、セルオートマトンのパターンから作った少数の音源が粒子のように飛び回るバリスティックなサウンドを重ねて、空間構造をデザインした。
巨大な球体の中心部分に向かって直方体のブロックが組み上げられている。その球体の中心部が試聴スペースである。その付近では、音が飛び交い、また去年の第三項音楽発進(東京のオペラシティにあるInter Communication Center内で発表)以来、創ってきたさまざまなサウンドも飛んでくる。この音はサウンドファイルを遺伝子列と見立てて、何度もその遺伝子パターンにしたがって書き直される。その結果生まれた進化したサウンドファイルを使って作曲する。だからそのサウンドファイルには音の進化の履歴が埋め込まれており、それがそのまま音色へと反映される。
《Filmachine》でやろうとしていることの大きな特徴、それは生命という現象と並列してる意識とか知覚の問題だと思っている。もちろん意識とか知覚をケージも考えなかったわけではないだろうが、知覚とか意識の問題はここ一〇年で飛躍的にデータが集められている。知覚というのは、運動とともに立ち上がる。これが昨今の僕の研究からのメッセージであるが、そのことの巨大な実験設備として《Filmachine》は存在している。
空間知覚と時間知覚は、独立なものではない。例えば音が動き回るだけで、そこに空間知覚が生まれる。と同時に音の運動の変化が急激だったり、繰り返しがなかったりするので、なめらかな時間感覚を揺らがせるのである。これが《Filmachine》の知覚の複雑さの源泉である。空間的に広がりのたうち回るホワイトノイズはただのノイズではない。レイヤーされたノイズは別の音に聞こえ、平面の膜を形作るホワイトノイズは、まるでシャワーのようにわれわれの体性感覚に作用する。この音のシャワーを浴びるたびに僕はいつもドキドキする。聴覚以外の知覚が関わってくる。この理由のひとつは、ノイズのホワイト性にあるのだろう。ホワイトノイズは、そこに意味がないにもかかわらず、意味を見出そうという観客の試みが、いろいろな感覚をたち上げる。なぜならその音を記憶に探しても見つからない。だから視覚とか触覚を総動員せざるをえないのだ。つまりはある種の共感覚性が生まれてくる。

もともと赤ちゃんはみんな共感覚性をもって生まれてきているように見える。寝ている時に音を聞かせると、赤ちゃんは視覚野とか頭頂葉とかいろいろな部位が活性化する(多賀、二〇〇五)。赤ちゃんはいろいろなセンサー入力に意味を貼り付けられない。それは大人になってもそうかもしれない。

生命の始まりは、運動である。運動を始めることで、環境には区別が生じ(敵と味方、食べものと毒、快と不快)、生命はカタチをつくりはじめる。知覚が生まれて記憶が生まれる。やがては自分の能動的な運動でつくられる知覚(アクティヴ・パーセプション)と、受動的な知覚を区別するようになる。そこが意識の所在である。知覚される対象はただそこに在るのではなくわれわれ観測者と対象の「間」につくられる。だからこれを具現化している。《Filmachine》はこうした知覚の新しい考えに呼応するものなのだ。音響空間デザインは、サウンドのつくる時間と運動の役割が本質的である。サウンドは視覚的あるいは触覚的なデザインの補助ではなくて、等価な共感覚のネットワークを張るものである。このYCAMで試みられるしかけは、今後世界的に展開されるのではないかと、期待している。

YCAM《Filmachine》制作風景 筆者提供

YCAM《Filmachine》制作風景
筆者提供

>池上高志(イケガミ・タカシ)

1961年生
東京大学大学院総合文化研究科&情報学環教授。

>『10+1』 No.44

特集=藤森照信 方法としての歩く、見る、語る。