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[討議/ブックガイド] 建築情報の受容再考 「正統性」から「生産性」へ/文化の受容・翻訳・発信を考察するためのブックガイド20 | 今村創平+今井公太郎+日埜直彦+吉村靖孝
From Orthodoxy to Efficiency/ 20 Book Guides for the Study of Reception, Translation and Transmission of Culture | Imamura Sohei, Imai Kotaro, Hino Naohiko, Yoshimura Yasutaka
掲載『10+1』 No.36 (万博の遠近法) pp.47-54

海外建築情報の受容と読解 今村創平

今村──今回は「海外建築の受容」というテーマを取り上げてみたいと思います。まずは建築の文脈からは離れますが、資料として配りました丸山真男『日本の思想』、吉本隆明『初期歌謡論』、柄谷行人『批評とポストモダン』からの抜粋についてです。これらでは日本では何かを構築しようとしても難しく、特に海外文化を受容する際に一生懸命輸入はするもののそれが根付かないまま次の流行に移っていくことが、政治─文化─思想の系譜において指摘されています。この、文学、思想での議論にはこれ以上深く立ち入りませんが、同じ構図が日本の建築の状況においてもそのままあてはまるだろうということが、今回の話に通底するモチーフとなっています。
磯崎新建築における「日本的なもの」』では、日本建築における「異文化の導入」と「和様化」の反復の歴史が指摘されています。それは、飛鳥から明治に至るまで、動乱期に要請された新しい文化がつねに「外部」から導入され、一方そのアレンジメントを通して和様化により洗練することをパターンとする受容形式です。磯崎さんのテキストではこのパターンは二一世紀においても適応されるとなっていますが、ポストモダンの喧騒と混乱の後、モダニズム再読やミニマリズムが流行っているのは、一種の和様化と言っていいのかもしれません。では、その構造とは何なのか、また、その構造には何か別の可能性があるのか、今後どのような受容と変質作用が働くのかについて考えてみたい。以下では、まずその事例を私なりに時系列で示したいと思います。

まずは《法隆寺》です。世界最古の木造建築とされ日本を代表する建築ですが、大陸から渡来した様式の最初期の例であり、六世紀頃にはそうした建築物が大量に建ちます。続く平安後期では、建物で適当な例がなかったので『源氏物語絵巻』を持ってきましたが、この時期は国風文化と言われるように、日本固有の文化として純粋化し洗練していく方向に向かっていく。その前の文化が雄大で、パワーがあるのに対して、優美な世界になっていくのが和様化の特徴です。
つづいて鎌倉時代の《東大寺南大門》。この時期は中国から新しい天竺様が入り、折衷的でありながらきわめて創造的な傾向を持ちましたが、続く足利時代の後期に起きた東山文化では、《慈照寺東求堂同仁斎》に見られるように、静謐で端正な空間が好まれるようになります。
次は安土・桃山時代の《安土城》の復元図ですが、それまでの日本の空間になかった大胆な垂直空間、装飾が現われ、それはバロック的であるといってもいいダイナミックなものです。ところが、やはりその後の江戸期では、鎖国といった政策もあり、独自の美意識に基づく洗練の時代を迎える。まずはこのように、日本の建築の歴史全般にわたって、外部の導入による活性と内省ともいえる洗練が繰り返されてきたことが確認できると思います。
さて、その後の建築における海外建築の受容を見てみましょう。明治になると西洋の様式が必須のものとして入ってきます。二代目清水喜助が明治五(一八七二)年に建てた《第一国立銀行》は、下半分はヨーロッパ風、上半分は日本の城郭建築というかなり大胆な折衷様式です。この例のように、明治の早い時期から民間レヴェルではどん欲に西洋建築を取り入れ、キッチュとも思われるくらいあやういことをやっている。一九〇九年に片山東熊設計の《赤坂離宮》が完成し、西洋建築の日本への移植の到達点として語られますが、それには明治も四〇年近く経っていた。しかし現場レヴェルでは西洋建築の導入は先んじてどんどんやっていたわけです。そして西洋建築を自分たちでつくることが可能だという認識が広まります。しかしそれは西洋の様式を再現可能になったに過ぎず、また同時に西洋に追いつくという目的も失われる時期に当たり、日本に根付く動きにはなりませんでした。

1──《東大寺南大門》 出典=http://web.kyoto-inet.or.jp/org/orion/ jap/hstj/nara/nandaimon.html 撮影=増田建築研究所

1──《東大寺南大門》
出典=http://web.kyoto-inet.or.jp/org/orion/
jap/hstj/nara/nandaimon.html
撮影=増田建築研究所

2──《第一国立銀行》が描かれた錦絵 所蔵=島田昌和

2──《第一国立銀行》が描かれた錦絵
所蔵=島田昌和

3──片山東熊《赤坂離宮》 出典=http://www.linkclub.or.jp/˜hiro335/ a_map/tokyo_36.html

3──片山東熊《赤坂離宮》
出典=http://www.linkclub.or.jp/˜hiro335/
a_map/tokyo_36.html

次は堀口捨己が一九二六年に建てた《紫烟荘》です。オランダ旅行から帰国した堀口は二四年に『現代オランダ建築』を著わし、先端であった同時代のオランダ建築を紹介しています。ル・コルビュジエの「シトロワン住宅案」が二二年、グロピウスの《バウハウス校舎》が二三年、リートフェルトの《シュレーダー邸》が二四年であることと比較しても、堀口は現代建築の同時輸入を行なっていたことがわかります。この時期以降、他国の完成された様式を模倣するのではなく、同時代の動向を輸入するという方向にシフトするわけです。

4──ワルター・グロピウス《バウハウス校舎》 出典=http://www.paw.hi-ho.ne.jp/tnktanaka/ world%20heritage.htm

4──ワルター・グロピウス《バウハウス校舎》
出典=http://www.paw.hi-ho.ne.jp/tnktanaka/
world%20heritage.htm

5──ヘリット・トーマス・リートフェルト《シュレーダー邸》 出典=http://tenplusone.inax.co.jp/ archive/ned2/NL2_042.html

5──ヘリット・トーマス・リートフェルト《シュレーダー邸》
出典=http://tenplusone.inax.co.jp/
archive/ned2/NL2_042.html

その後一九三〇年代半ばになると、インターナショナル・スタイルの建築は、南米や中近東を含むまさに世界中に同時多発的に建てられます。これは一九三四年の山口文象の《日本歯科医学専門学校附属医院》です。しかし日本でも、三〇年代には「白い箱」住宅が多数つくられましたが、それらはあくまでも一部のオピニオン・リーダーがつくっただけであり、帝冠様式が支配的であったりと、モダニズムは戦前の日本に根付かなかったという議論があります。僕も最近までそうだと理解していたのですが、藤森照信さんは、日本は世界に先駆けて戦前にモダニズムが広まった国だと書いています。というのは、全国の小学校や郵便局がモダニズム様式でつくられ、例えば東京では関東大震災後の復興政策としてそうした小学校が大量につくられました。このようにしてモダニズム建築が様式として自然に流布していったわけです。
戦後になると、大江宏や白井晟一などがモダニズムや西洋と格闘します。大江が一九五五年につくった《法政大学》はミース風と呼ばれるモダニズム建築の典型的なものです。しかし大江は若い頃はモダニズムを採用するものの、晩年の代表作は《国立能楽堂》であり、ほかにも《伊勢神宮神楽殿》をつくるなど、明らかに「和」に戻る。この世代の前後の建築家は若い頃はアヴァンギャルドだけれども、晩年は「和」に戻って数寄屋や茶室をつくり、それは一種の転向であり、一貫した姿勢として弱いのではとされます。しかし大江の場合でも、日本的とはいいながら石造の中に木の架構があるというような複雑な構成を模索していたように、印象としては和風なのですが、日本と西洋の関係を最期までテーマとしたことは間違いないようです。
視点を変えて、六〇年代の受容の仕方を見てみましょう。例えばイギリスのピーター・クックを含むアーキグラムなどのポップな表現や未来志向が、アヴァンギャルドとして、いままでの歴史から完全に切り離された世代の志向として紹介され、世界中の同世代に受け入れられる。この頃は世界的に学生や若者のムーヴメントがあって、日本も積極的にアヴァンギャルドを輸入していた時期です。しかし今見返してみると、たとえばピーター・クックの紹介のされ方には、かなり偏りがあったと言っていいでしょう。イギリスにはレッチワースの「田園都市」やハワードの『明日の田園都市』(ともに一九〇二)に見られるような理想的な郊外に対する憧憬が根付いており、ピーター・クックも何もないとこから出てきたラディカリストではなく、このようなイギリスの文脈を背景に持つアルカディア(理想郷)をテーマにした作品をつくっている。ほかにもイギリスの前衛作家には、社会主義的思考が色濃く見られることが共通しているのですが、しかし日本に輸入する段階ではそこまでは伝えられず、利用しやすい文脈に整理してしまう。そうすると現代建築といえども脈々と流れている伝統に乗っていることはわからないし、結果表面的な理解に終始してしまう。

6──大江宏《国立能楽堂》 出典=http://www.linkclub.or.jp/ ˜hiro335/a_map/tokyo_53.html

6──大江宏《国立能楽堂》
出典=http://www.linkclub.or.jp/
˜hiro335/a_map/tokyo_53.html


日本から海外へというヴェクトルも見てみましょう。一九五九年に菊竹清訓が「海上都市」を考えます。翌年の六〇年にルイス・カーンも参加した「世界デザイン会議」が東京で開かれますが、それに合わせて日本からも発信しなくてはということでメタボリズムの運動が用意されます。ここには二つ大事なことがあり、ひとつは、東京オリンピック(一九六四)、大阪万博(一九七〇)という国家的なイヴェントと同様、日本が世界的な枠組みへの復帰の御墨付きをもらったことです。もうひとつは、メタボリズムは偶発的に組織されるのですが、単に若い人を集めたという以上の意味を生みだしました。コンセプト発信のレヴェルにおいて、メタボリズムは日本が同時代的に発信しえた初めてのムーヴメントです。それまでも日本の伝統的デザインモチーフなどが外国で評判を呼ぶことはありましたが、現在形の都市や建築への提案が受け入れられたのは初めての出来事でした。これは今日に至ってもメタボリズムが突出した意義を持つ理由であり、メタボリズムは日本で考えられているよりも、外国では遙かに評価されています。ヨーロッパだけでなくアジアでもメタボリズムはみな知って参照している、世界性をもったムーヴメントであったわけです。
対照的な例を挙げると、このところ「小さい家」という切り口があり、また住宅ブームがありますが、小さい家が成り立つのは日本をおいてない。ドイツ都市部では二〇〇平米以下の住宅はつくってはいけないという法律があるなど、外国ではそもそも小さい家がつくれない社会構造になっている。最近は外国の出版物でもスモール・ハウス、ミニ・ハウスなどが多く紹介されていますが、しかしこれはあくまでも「面白い」「珍妙なもの」として受け入れられ、一般的なものとして受容する対象にはなりえていないと思います。広い意味でのオリエンタリズムを物珍しさから輸入しようという構図ですね。七〇年代後半からは毛綱毅曠さんや石山修武さんなどのポストモダニズム世代が活躍し、海外にもそれは伝えられましたが、これも外国にとっては受容する対象というよりも、遠い島国で変わったことをやっている動向があると見られていたのだと思います。

では、外国ではムーヴメントをどのように受け入れるか。モダニズムにおける象徴的な例では、一九三二年にMoMAがモダン・アーキテクチャー展という展覧会を企画します。これによってインターナショナル・スタイルが近代建築のスタイルとして認識され、流通するわけです。ヨーロッパの最新の動向を単純化した「様式」として仕立て上げ、アメリカ人がそれをスタイルとして受け入れ消化する。ミースは戦争中にアメリカに渡りましたが、戦後すぐの一九四七年にMoMAで展覧会をやることによって完全にオーソライズされました。
磯崎さんの《つくばセンタービル》は八三年ですが、日本ではこれを機に本当の意味のポストモダンという括りが作動し始める。「ポストモダン」展がドイツの建築博物館で始まり、日本を含む世界に巡回する。ポストモダン自体、時代のレッテルを張る試みですが、その後はまさにポストモダン的に何でもありの状態となってしまう。八八年に「デコンストラクション展」がMoMAで開催されますが、参加した建築家七人はみな「自分はデコンではない」と、同一にグルーピングされることを拒みます。妹島さんの 《再春館製薬女子寮》がカタログの表紙を飾った九五年のMoMA「ライトコンストラクション」展のコンセプトは、「なんとなく軽い」と、いよいよいい加減になってきています(笑)。九〇年のMoMA「アンプライヴェートハウス」展などはもう日本に伝わっていないのではないでしょうか。「アンプライヴェートハウス」は日本的に言うと「脱nLDK住宅」で、それまでの慣習的な住宅でなければよく、現代建築の面白いものであればもう誰でもいい。かつてはMoMAのような権威機構が捏造してでもトレンドを決定していましたが、現在はもう明快なムーヴメントをつくれない状況になっているのだと思います。
九〇年代は、H&deMやギゴン・アンド・ゴヤーなどのスイス・ミニマリズムとダッチモデルを含むオランダ建築のみが、まとまった動向として紹介されたとの感があります。スイスとオランダ以外では、国・地域・時代ごとのスタイルや、発信しやすい明解なムーヴメントが見出せなくなっていたからです。オランダには中心的グループ──OMAやMVRDVなど──があるので、「アーティフィシャル・ランドスケープ」や「スーパーダッチ」という括りをすることができた。その後は同じくOMAのレム・コールハースによる「¥€$」というマニフェストが出され、今日のグローバリズムと建築を結ぶ大きなテーマとして人々の注目を集めていますね。「¥€$」は、このグローバル化が進み高度な資本主義が支配的な世界においては、地域的なムーヴメントが出にくくなっていることの証左でもあります。

7──磯崎新《つくばセンタービル》 出典=http://tenplusone.inax.co.jp/ archive/isozaki/isozaki012.html

7──磯崎新《つくばセンタービル》
出典=http://tenplusone.inax.co.jp/
archive/isozaki/isozaki012.html

討議 今村創平×今井公太郎×日埜直彦×吉村靖孝

日埜──フランプトンの弟子のケン・タダシ・オオシマさんをお招きして以前講演会をやったことがあるのですが、モダニズムの初期、一九二〇─三〇年代にはすでに相当雑誌メディアが充実していて、世界中の建築の情報が流通するようになり、建築に対する視野が拡がるとともに一種の壮大な「誤解合戦」が始まった、というような話をされていました。その「誤解」のドキュメントが『a+u』の臨時増刊『ヴィジョンズ・オブ・ザ・リアル』の二分冊としてまとめられているわけですが、そこに見えるのはモダン・ムーブメントが世界中に伝播し、さまざまな風土、伝統、社会にそれぞれ独特の定着をした状況です。その「誤解」はとても生産的であって、モダンのひとつの具体的な側面を形成し、じつに多様な豊かさを実現した。世界の建築の状況を正確に知りたいという各国の建築家の関心が、意図したわけではないにしろ、結果的に本来の文脈を離れてモダニズムのヴォキャブラリーを多様なものとしていったわけです。グローバルなメディアの発達の初期においてすらそのような読解=誤解が生産的な活動のリソースとなっていたわけで、背景を異にする建築の誤解をはらんだ伝播について積極的に評価する考え方もあるんじゃないでしょうか。一九六八年をひとつの起点として、正統性としてのハイ・カルチャーに対してロー・カルチャーがあるという構図が空洞化していくわけですけど、オオシマさんの指摘する事態はそうした意味でも文化的に追認されていくわけです。「正統な受容」というのはオーソドキシーを求めるアカデミズムにはある程度必要でしょうが、しかし誤読の生産性にもう少し積極的な意味を見ることもできるんじゃないかと思います。どこかに正統性があって、そこからの距離によって価値が測られるような枠組みは明快ではありますが、デリケートに考えなくてはいけないような気がします。
今村──かつては基礎をきちんと学ばなくてはいけないという意識がプレッシャーとしてあり、教養を前提とすることができたのでしょう。それは明治初期にはきわめて顕著な姿勢ですが、戦後くらいまではあった、西洋の教養は学ばなくてはいけないという意識が六八年頃からルーズになってくる。なぜそういうことに無頓着になってきたのでしょうか。規範に縛られるよりも、使えるものは使って器用に組み立てるほうが簡単だし、精神衛生上いいのは明らかです。しかし、客観性や枠組みを作るためにお互いを比べ、批評性を高めるというヴェクトルもあるはずです。昔のようなスタンダードや権威に対して追いつかなければという意識はすでにないけれども、何でも受け入れ、うまくいけばいい、楽しければいい、という刹那的な状況に多くの人が漠然と不安を抱えていると思うのです。
日埜──個人的な実感を言えば、建築であれ批評であれ、「正しさ」よりもそれが生産的であるかどうかということのほうがより重要な問題だと思います。アカデミズムやオーソドキシーが正しくても何も生まないのだったらさして意味はなく、誤読であれなにかを掻き立ててくれるような生産的なものに興味がある。「次の方向はこれだ」というあからさまなトレンド・セッティングを誰も「正しい」とは思わない現在、かつてのようなムーヴメントが成り立たないのはそういう不毛さをわれわれは知っているからですよね。例えば「フォールディング」を前回扱いましたが(『10+1』No.35参照)、それが「正しい」か、と問うならばたぶん正しくはない。しかしそこから生産的なものを汲み取ることは可能だし、その意味で「フォールディング」はわれわれにとっても意味がある。それが自分にとってのリアリティだと思うんです。ある意味では正しいものはたくさんあって、ひとつだけが「正しい」とは言えないわけですよね。
今井──いろいろな「正しさ」が並存している、一種の相対主義的状態だということですね。「受容」が成立するためには、日本的なものと、日本の源流にはないものというはっきりした区分けが歴然と必要です。つまり「受容」とは、日本の源流にないものを受容して日本的なものに取り入れるということです。相対主義の現代の日本では今この瞬間の日本的なものの定義が成立しなくなっている。たしかにそもそも日本文化にはオリジナルなどなく、受容してソフィスティケートしていくこと自体が日本文化なのかもしれません。ですが、情報化により相対化が進行した現代の環境で育ってしまった自分を前提にすると、日本的ななにかという内部をそもそも自分なりに規定することが難しいと思う。日本的だと思うその感受性自体が怪しい。寺や神社、仏閣すら全部キッチュに見えてきてしまうことがある。そのような時に「受容」と言われても、何が何を「受容」するのかという問題自体が定義できなくなっているのではないでしょうか。
日埜──ものを考えるときに、なにか根源的なものを掘り下げることよりも、背景になっているコンテクストを考えることが要請される場面が増えているんじゃないでしょうか。そしてそういう意味でなら、どれほどリアリティがあるかは脇に置きながら、例えば「日本」というコンテクストに具体的にぶつかり、それを生産的な契機とすることは考えられる。「日本的なもの」を具体的に咀嚼しようとすればそれは誤読にならざるをえず、そこからきっとなにかおかしなものがでてくるでしょう。内面というのは不安なものだから、しばしば外部を取り込む意志が働きます。海外文化に目を向けたり逆に桂離宮をあらためて見るのもその意志の表われで、結局それは自分にノイズを取り入れ、そこから何かを組み立てるということのような気がします。
ところで吉本隆明は「知識人」と「大衆」の関係について、正しさによって運動を牽引しようとする知識人の意識が大衆から乖離していく状況を見つつ、運動の内なる「大衆」に目を向けるべきだというようなことを言っています。吉本のこの論法は僕には受け入れ難いのですが、こういう罠は意外にあちこちにある。抽象的な視野で実感を云々することほど危険なことはなくて、むしろ実感から身を引き剥がす意味で、きちんと理解するという一種の誠意の意義を捉え直し、構築なき消化に抵抗してみることが必要なのではないでしょうか。
今村──われわれはものをつくる立場にあるので、例えば『Casa BRUTUS』を立ち読みする人とは明らかに違う側にいるわけです。自分たちはかなり「正しさ」や「受容」に対して意識的だと思うのですが、一般には意識する必要のない問いなのかもしれない。ただし、実際の設計のプロセスでは何らかの判断の基準が必要となり、その結果として何が「正しい」のかという問いに自覚的にならざるをえない。
日埜──その困難と、取り入れた形式がすぐにグズグズに崩されフラットになってしまうという磯崎さんの「和様化」の問題は重なる部分があると思います。相対主義が素朴で実感主義的な態度──どうせ「正しい」ものがないならワタシの実感を信じる──という開き直りに繋がる危うさは無視できない。正統性というものを一方でどこかに仮託しつつ、それに対して求道するポーズをしてみるなんていうことはもちろんばかばかしいことだけれど、しかし構築性の「正しさ」に対する倫理性を見失って開き直ればこれもまたどうしようもない。そういう話と「和様化」の問題は具体的にはかなり違うけれど、結果には似たような構図があるかもしれません。その構図はとても抽象的なものですが、その抽象に実際に嵌まる人も少なくない。
今村──相対主義においては、批評性がないまま感覚に拠って「良い建物」「悪い建築」と選り分けてしまうけれども、それには気をつける必要があると。
吉村──海外の建築に関しては、その依って立つ文脈を正確に理解するのが困難なわけで、感覚的な選択眼に頼らざるをえない面はある。どちらかと言えば、僕はそういう直感を信頼している人間です。ものをつくるためになにかを吸収するのならば、そこにはなんらかの誤解や断絶が必要なんじゃないでしょうか。正確さに固執することにもさまざまな危険が潜んでいるようにもおもうんです。今村さんのプレゼンテーションを拝見する限り、海外に送り込んだ側の思惑はいざしらず、送られた側は古今冷静に誤解しつづけているような印象を受けました。
今井──「正しさ」よりも「生産性」が必要だという話をしながら言うのもなんですが、生産的なものを求める態度は、できあがったものが良いかどうか、つまり正しいかどうか結論が出たときにはじめて評価されます。「正しさ」や「生産性」は、どちらかのみの追求だけではアカデミックな凝り固まりや開き直りになり、どちらも同じくらい下らないので、そのバランス感覚がプラクティカルに必要です。歴史的考証を積極的に行なおうとする意志には、「正しさ」への意志と歴史の読み取りからもたらされる「生産性」への意志との両方あるのだと思いますが、そのバランスをどうとるかという問題は歴史家だけの問題ではなく、私たちがものを考え、つくるときに必ず踏みとどまるべき問題だと思います。
 [二〇〇四年六月一八日]

同テーマをもとに吉良森子氏(建築家)をお迎えした第一二回現代建築思潮研究会の内容は、一〇月初旬更新の〈web site 10 +1〉に掲載予定。

ヘンリー・ラッセル・ヒッチコック+フィリップ・ジョンソン『インターナショナル・スタイル』(武沢秀一訳、SD選書、1978)
1920年代に成立し、建築史の基礎的な教養のひとつとも言える「インターナショナル・スタイル」は「ヴォリュームとしての建築」、「規則性」、「装飾付加の忌避(1951年に「構造の分節」と入れ替えられた)」を三原理とし、美学的に洗練された表現を強調するものだった。この様式を持った建築作品としてバウハウス校舎、バルセロナ・パヴィリオン、サヴォワ邸などがグルーピングされているが、本書の特徴はなによりも「インターナショナル・スタイル」の様式だけではなく、当時または、それ以前の時代背景と共に解説されていることで、どのような流れの中でこの様式が確立されていったのかということも理解できる点にある。「インターナショナル・スタイル」は確立されてから半世紀以上も経った現在においては、古典的な様式として捉えられている。しかし、多様化が進む現代において、近代建築の典型とも言える「インターナショナル・スタイル」をあらためて見直すことは、多様化に対抗する収束の核のひとつとなりうるだろう。
[吉村和真]

ヴァルター・ベンヤミン「翻訳者の課題」(『暴力批判論  他十篇』所収、野村修編訳、岩波文庫、1994)
1923年にベンヤミンはボードレールの詩集『悪の華』の第二部をなす「パリ情景」のドイツ語訳(対訳)を刊行し、その序文として書かれたのが「翻訳者の課題」である。本書では翻訳の存在意義について論考が進められる。通例、翻訳とは逐語訳と意訳の微妙なバランスを調和することにあると考えられてきたが、この考え方に対して著者は翻訳における意味の伝達を意味の再現と同義に捉え、異なる言語間では原作のもつ意味を完全に再現することはできないという論考を提示している。著者にとっての翻訳の目的は原作の模写でも伝達でもなく、二つの言語の親縁関係──根源においては同一でありながら、独立した存在へと分かれたものの関係性──を現出する「純粋言語」を導くことにある。現代における言語の変質化、道具化と記号化という徴候を批判し、根元的言語に連なる「純粋言語」を復元しようとする著者の志向は、忘れられ失われつつある言語の本質的・創造的意義を再考する契機となるだろう。 [佐々木一晋

ブルーノ・タウト『ニッポン──ヨーロッパ人の眼で見た日本』(森儁郎訳、講談社学術文庫、1991)
1933年日本に訪れたドイツの世界的建築家ブルーノ・タウトの「日本文化論」。1936年まで日本に滞在したタウトは、桂離宮や伊勢神宮など日本の伝統的な建築を精力的に見て歩き、そこに「日本文化」、「日本的な美」を発見する。とりわけ、日光東照宮の権勢を誇示するための装飾や意匠に比して、桂離宮の簡素で静閑な美を「日本的な美」の象徴として絶賛する。タウトは、日本が古来から外国の影響を摂取同化・変形し、日本独自なものを生み出してきたとしており、近代における欧米の影響をも日本的なるものへ変化させることを期待した。しかし、タウトのこうした日本美の発見は、軍国主義のナショナリズム宣揚のなかで誇張され、建築界のみならず社会全体に受容されていったのである。その経緯については井上章一『つくられた桂離宮神話』が詳細に論じている。[川崎宇希子]
参考──ブルーノ・タウト『日本美の再発見』(増補改訳版、篠田英雄訳、岩波書店、1962)。
ロラン・バルト『表徴の帝国』(宗左近訳、ちくま学芸文庫、1996)。

磯崎新『建築の解体』(美術出版社、1975)
磯崎は本書で、ハンス・ホライン、アーキグラムなど、5人と3グループの建築家を取り上げ、その建築的実践の紹介と、60年代建築の「解体」症候群の検討を試みている。この論考の『美術手帖』誌への掲載は、前年1968年に彼自身が参加した第14回ミラノ・トリエンナーレでの、海外のラディカリズムとの接触が動力であり、70年代以降、ポストモダニズムのなかを彷徨する日本の建築界と建築批評に、大きな衝撃と方向性を与えたことは疑いない。とりあげた建築家たちを「自らの作業の系を解体すると同時に、既成の建築という概念をも解体する連中」と磯崎は評する。また、磯崎は、1989年は「歴史の終わり」ではなく、1968年から空白の20年を越えた、新たな「始まり」であると言う。つまり90年代は、60年代同様、ラディカリズムが待たれると。溢れる海外メディアへの大きな依存を認めざるえない現代の日本の建築界において、海外建築情況の受容そのものを再考する際、本書はその有用性を十分に発揮するであろう。 [松田聡平]

都市デザイン研究体著、彰国社編『日本の都市空間』(彰国社、1984)
1968年、東京大学丹下研究室の伊藤ていじ、磯崎新らが全国的な集落調査に基づいて日本の伝統的空間をまとめたデザイン・サーヴェイの教科書的存在。当時、G・カレンの『都市の景観』、J・ジェコブスの『アメリカ大都市の死と生』、さらにK・リンチの『都市のイメージ』など都市を計画論としてではなく、むしろ解読すべき多様な織物として扱うようになった。本書は都市空間のもつ多様な性格に対し、エレメントのシンボル化という手法を用い、具体的な事例にダイアグラムと巧妙な日本名を与えることで伝統的な空間感覚を提案する。今日、国際的にも知られる「間」のような概念の多くがこの本で紹介されている。序文で丹下健三は当時のメタボリズムと結びつけ、「日本の都市デザインに関するいくつかの新しい創造的な挑戦と提案が世界に対して指導的役割をになって登場してきた」と述べ、本書もこうした創造的活動のひとつと位置づけている。 [大島耕平]

柄谷行人「批評とポストモダン」(『差異としての場所』所収、講談社学術文庫、1996)
日本にポストモダンの嵐が吹き荒れていた84年に、それに対する違和を述べた論考。いわく、当時思想家や文学者が西欧からさかんに移入していた脱構築(創造性や主体の否定)は、もともと他人志向型(リースマン)の日本にとってみれば逆に主体を強化するのみであり、われわれの実感としての日本的自然は、構築対脱構築という二項対立の枠内に入っていないのだ。ここでこの違和は、島国日本における思想の歴史──海外からの優位な文化を、実感の薄いままにたえず踏襲し続けた(吉本隆明『初期歌謡論』)、自己を歴史的に位置づけるような座標軸が形成されなかった(丸山真男『日本の思想』)──を鑑み、当時の状況に照射した結果である。さらにそれを建築の領域に演繹すると、その後日本で欧州以上にポストモダン建築が花開き、そして急速に凋落したという光景(われわれにとっては脱構築自体ですらサンプリング・ソースでしかなかった)を見事に予測することになる。 [本間健太郎]

原広司集落への旅』(岩波書店、1987)
1970年から世界中を駆け巡り各地の伝統的な集落を調査・観察したフィールドワークを纏めた本書は、後に「住居集合論」として結実する。原のフィールドワークは現地において問題発見的な構えをとり、観察を通じてそれらを語りうる視点を探していく。それは、ある地域を限定せずに広範な集落空間の一般構造の把握を目指したものであり、方法論的な視点から観察を重視している点で文化人類学的、民族学的な影響が読みとれる。世界の集落調査を通して獲得してきた空間デザインに関する著者の教えは熟成された100のフレーズとして多数の論考と写真図版とともに「集落の教え100」に詳細されている。海外のヴァナキュラーな建築に対して建築的アプローチが本格的に行なわれたのは、MoMAで開催されたB・ルドルフスキーの「建築家なしの建築」の展覧会が開催された1964年以降であり、近代以降の日本においては柳田國男の民俗研究を端緒として集落や民家が研究対象となった。本書は文化のインターナショナリズムと集落個性の共有関係を独自に見出し、新たな「世界風景」の形成を試みている。 [佐々木一晋]

井上章一『アート・キッチュ・ジャパネスク──大東亜のポストモダン』(青土社、1987[1995年、『戦時下日本の建築家──アート・キッチュ・ジャパネスク』と改題され朝日出版社より刊行])
戦時下から戦後(1940年代後半)にかけての日本の建築を取り巻く状況や潮流を、主に当時行なわれた競技設計等の膨大な資料をもとに読み解いている。東京帝室博物館競技設計においての帝冠様式対モダニズムの構図や、以後の万博日本館、大東亜建設記念造営計画の競技設計などのいきさつなどから、モダニズムからポストモダンの源流とも言うべきモダニズム以後の時流や当時の海外建築情報の受容の様子が把握できる。また帝冠様式に関して、著者は従来の見方とは異なる見解に立ち、当時の日本趣味派の建築家たちが「非常時」の時局に便乗し、日本趣味をまぜたのではなく、クラシックからモダニズムへ時流が移行する際の様式の空白が成立させたデザインとしている。その前提として軍部の建築の例から日独伊のファシズム国家政策においての建築の重要性の相違を言及しているが、そこには現代に通じる都市計画に対する文化の違いが感じられ、妙に納得するのである。 [秋永絵理]

ジェイムズ・クリフォード『文化の窮状──二十世紀の民族誌、文学、芸術』(太田好信ほか訳、人文書院、2003)
地域性という言葉の持つ伝統的連続性から、個別的な歴史の解放を文化人類学という領野から記述した本書。とくに、サイードの『オリエンタリズム』を引用し、ある部分では肯定しつつも「もっとも重要なのは、〈文化〉という概念である」と述べ、近代的全体主義がもつ〈文化〉の視点と態度を異にしている.では、その〈文化〉という概念は何なのであろうか?  クリフォードは、文化という概念は〈グローバルな移動が日常化した世界〉では、もはやひとつの空疎な全体像として解答が出せなくなったことだけは事実であると述べている.しかし、個別的な〈文化〉というものが描き出せるのか? その解答も、著者が述べる「〈根(ルーツ)〉をなくした世代の〈経路(ルーツ)〉」という個人的選択の中に見出せる〈文化〉があると述べている.と、本書の内容は説明可能であるが、私は日本人であるという歴史の中に、本書をどのように私の〈経路(ルーツ)〉とし翻訳すべきかを考えさせられた1冊である。[金子祐介
参考──エドワード・サイード『オリエンタリズム』(今沢紀子訳、平凡社、1993)。

中谷礼仁『国学・明治・建築家──近代「日本国」建築の系譜をめぐって』(波乗社、1993)
本書は、近世の国学における「本居宣長的なもの」と「平田篤胤的なもの」の二分法により、明治から戦後にかけての建築論の再構築を試みる実験的な論文である。この二分法は、江戸時代の国学を「内的秩序を継続させるために発生する『自律的』な観念の構造」と規定したときの、「論理を還元するもの」と「論理をたてるもの」という二項対立のモデルである。そして、本論では、国学のナショナリズムにおける「外部─内部」の関係を、日本近代建築の文脈の中で、「外部空間─内部空間」や「社会─自己」、「都市─建築」などと読み替え、モデルを当てはめながら建築論を検証してゆく。こうして、日本近代建築の言説空間が「宣長的自然」を前に陥りがちなニヒリズムが浮き彫りにされると同時に、それを乗り超えるための新たな論理の方向性が「篤胤的なもの」を通して模索される。建築論の問題点と可能性の両方が示されたという点で、重要な一冊といえる。 [岡村健太郎]

ヘンリー・プラマー『日本建築における光と影』(エーアンドユー、1995)
「日本建築」とはイメージである。日本に住むことによって、あるいは書物で読むことによって、それぞれ個人が心のなかに作り出すイメージである。本書は、その不可解な「日本建築」を圧倒的な量の情報を重ね合わせることによって定着させる、ひとつの試みと言える。500枚を超える美しい写真、200近い印象的な引用、そしてプラマー本人による流麗な文章。多少美化されすぎたそれらを、次々に頭と体に流し込まれることによって、われわれはプラマーの描く「日本建築」を知るのである。われわれはこの本によって、理屈ではなく、日本建築の気配や空気といった「感覚」を、まるで昔から知っていたかのように定着させられる。この圧倒的な日本イメージの定着は、2つの点において、これからの日本の建築に大きな意味をもつだろう。ひとつには従うべきものとして。そしてもうひとつには、相対化し超えるべきものとして。[猪熊純]

参考──Moriko Kira, Mariko Terada, Japan. Towards Totalscape: Contemporary Japanese Architecture, Urban Design and Landscape, NAi  Publishers, 2001

八束はじめ「インターナショナリズムvs.リージョナリズム」(『20世紀の建築』所収、デルファイ研究所、1998)
20世紀の建築を俯瞰する切り口は数多く存在し、それらの要因が複雑に交錯しているために、同じ軸で語っていたとしても個々の事例の評価が論者によって異なる場合も多い。筆者はこの論考で、「インターナショナリズムvs.リージョナリズム」という構図がかたち作られた背景や、その図式のなかで語られる建築家の評価のされ方を、ケーススタディを通じて詳述している。次いである概念はその対立項の登場によって初めて生み出される、という仮説の検証を通じて、社会や歴史のなかで建築を位置づけるという行為そのものに潜んでいる矛盾に対して、独自の視点からの解釈を述べている。新しく形成される概念を操作しようとする政治的な意図、その時代を支配するイデオロギー等の存在によって、建築を国際的に評価することが困難であり、かつその評価自体が危ういものであるという事実を理解するのに、非常に参考になるエッセイである。[江口亨]
参考──佐々木宏編『近代建築の目撃者』(新建築社、1977)

椹木野衣日本・現代・美術』(新潮社、1998)
予め断っておくが、本書はオタク批評の本でもなければ、村上隆を紹介する本でもない。気鋭批評家による反=日本現代美術史である。とはいえ、現代美術の四番バッターとしての、村上隆には注目せねばなるまい。現在に至るまで彼の活動には、田宮模型のトレードマーク「TAMIYA」を模して「TAKASHI」と描いたものや、オタクが好みそうなフィギュアを作ったもの等々、再現やパロディが多い。これは果たして芸術なのか?  と、問いたくもなる。……そこで、本書の御出ましだ。日本を「悪い場所」と挑発的に形容する著者は、戦後の主要な美術批評や作品の解読を行ないながら、戦後美術と日本精神の再定義を行なう。「近代」を喪失した「日本」の行く末は、捏造と反復(再現)による「支離滅裂(スギゾフレニー)」たる、そして、「閉じられた円環」たる「現代」であったのだ。……なるほど、村上の作品は「日本画」を描いてきた彼だからこそ創りえた、あまりに狡猾な芸術作品であるようだ。 [大城達郎]

淵上正幸著、ギャラリー・間編『ヨーロッパ建築案内』1─3(TOTO出版、1998/99/2001)
このシリーズは、主に1970年以降のヨーロッパ現代建築をおよそ1ページで1建築ずつ紹介した、建築旅行の手引きとして有名である。だが旅のお供として使われるようにはあまり意図されていないようで、ひとつの建築あたりの情報が豊富なわりに地図が充実していないなど、日本でパラパラと眺めるのが正しい読み方かもしれない。そしてこの読み方は、ポストモダニズム以降に、日本が海外の現代建築群に与える見方──支配的な様式を軸に体系的に分類するのではなく、ただ等価に等距離に並置するという見方──そのものである。この構造と、旅行の手引きというどのページから読み始めてもよい(すべてのページ同士が等距離である)形式が同型なのだ。海外の現代建築を紹介する書籍はもはや、手引きや早わかり、辞書などの形式によって、地域や歴史的文脈から離れ、好きなときに好きなように手軽に参照できるデータベースとして情報を整理するしかないのかもしれない。 [本間健太郎]

高階秀爾ほか編『ル・コルビュジエと日本』(鹿島出版会、1999)
本書は、1997年に東京で開催された国際シンポジウム「世界の中のル・コルビュジエ──日本とコルビュジエ」の報告書。建築史や美術史分野の発表者たちが、幅広い観点で両者の関係を論じている。なかでも印象的なのは、戦前のル・コルビュジエの評価を通して、当時の日本の建築界の特徴を逆照射しようとする藤岡洋保の視点である。欧米と伝統の間で揺れ動く建築界の様子が、それをも内包する拡がりをもって日本に受容され続けたル・コルビュジエの思想や造形を通して描写されている。このように日本におけるル・コルビュジエの受容は戦前のかなり早い時期から始まり、今日に至るまでのその影響力の強さと持続性は、他の国と比べても特別であるといえる。しかし、日本におけるル・コルビュジエ受容の歴史を俯瞰的に眺めるような作業は、今まであまりなされてこなかったのではないか?  両者の関係性を一度整理するという点で、本書が果たす役割は非常に大きい。
[岡村健太郎]

「パリ、再び」(『建築文化』1999年1月号、彰国社)、「ダッチ・モデル」(『SD』1999年2月号、鹿島出版会)、
「百花斉方」(『a+u』2003年12月号、エーアンドユー)
3つの特集は各国固有の建築物やプロジェクトを説明するにとどまらず、世界潮流における各々の位置づけ、あるいはこれから進むべき日本の都市/建築のヴィジョンを読み解くための相対的な観測地点として提示されている。そして、「21世紀の都市/建築はどこに向かうのか?」という命題に対し、それぞれの都市はまったく異なる文化・歴史的コンテクストを持ちながら明快なヴェクトルを示している。「パリ、再び」は、オスマン以降20世紀の国家的プロジェクトによる都市空間の変遷を、さまざまな視点から再解釈することで、パリの未来像を繙く試みである。パリという成熟しきった都市を「イメージとしてのパリ」と定義し、政治的文脈のなかでの建築の役割を記述している面で非常に興味深い。また、「ダッチ・モデル」は、21世紀に向けて都市と自然との関係をトータルに捉えるオランダの都市システムを、5つのキーワードから建築、都市計画、ランドスケープについて地理的、社会的背景を通して記述している。巨大都市・中国を扱った「百花斉方」は、まずはそのスケールの大きさに圧倒される。あらゆるデザインやアイディアをすべて飲み込んでいく中国という巨大なマーケットは、これからの日本に大きな引力を与えるものであり、われわれは今後の中国の動向を強烈に意識せざるをえなくなるだろう。 [佐貫大輔

Rem Koolhaas, et al., MUTATIONS, Actar, 2000.
些か小ぶりではあるが、とにかく分厚い。彼の本は、それこそどれもXLサイズであるが、ジャーナリストという経歴をもつ彼自身を表わすように、サーヴェイの幅広さや深さもXLサイズである(いやそれ以上か)。内容は建築を取り巻く都市の変容について、5グループ(レム・コールハース+ハーバード都市プ ロジェクト、ステファノ・ボエリ+マルティプリシティ、サンフォード・クインター等)のリサーチをズラリと並べてある。内容の大半を占める、ハーバード大学都市プロジェクトによるリサーチの中でも、“shopping”に関しては興味深いところで、詳しくは『GUIDE TO SHOPPING』を見ていただきたい。一方で、パラパラとめくって雑誌的に楽しめる(時には笑える)『CONTENT』のように、あまり肩のこらない本もあるが、とまれ、コールハースを中心として、さまざまなプロジェクトがデータを生み、クリックが図面を生み、いつのまにか建築ができるところに不思議な魅力を感じずにはいられないであろう。……表紙には、もれなくマウスパッド付きである。 [大城達郎]

東浩紀『動物化するポストモダン──オタクから見た日本社会』(講談社現代新書、2001)
1980年代以降、必然として現われた「オタク」に糸口を置く、現代日本の文化状況分析。「ツリーではない」現代日本の都市文化様相を、東浩紀はセミラチスでもリゾームでもなく、「キャラクターへの欲望」(萌え要素)を蓄積したデータベース型と定義する。それが、フランシス・フクヤマの言う「歴史の終わり」に日本において、「日本的スノビズム」に終止符を打った、行動様式の「動物化」の説明である。依存を許容するような「大きな物語」を背後に発現する今まで文化様式とは異なる、手元に届くシミュラークル(類似品)が「大きな非物語」の本質となる消費文化様式である。そこにあるのは、オリジナルの劣位性ではなく、シミュラークルの氾濫に立証されるシニカルな生産力の呈示でもある。論は、具体的なゲームソフトの紹介、「スーパーフラット」に代表される現代日本の芸術情況、ついにはWEB構造にまで及び、普遍性の追求が強くうかがえる。 [松田聡平]

磯崎新+岡崎乾二郎監修『漢字と建築』(INAX出版、2003)
2002年の第8回ヴェネツィア・ビエンナーレ建築展の日本館で、コミッショナーの磯崎新とディレクターの岡崎乾二郎、4人の建築家(小嶋一浩、岸和郎、張永和、承孝相)によって「漢字文化圏における建築的言語の生成」展が開催された。そこではアジアの歴史的な4都市(ハノイ、北京、ソウル、京都)における、現代の住宅実践である「町屋」が取り上げられ、これらのケーススタディとして漢字という文字システムと建築言語の生成過程の関係性を探求している。本書は漢字文化圏における建築言語の生成をひとつのテーマとして当該建築展を誌上で再構成し、それを巡る鼎談、漢字文化論などの論考が収録されている。近代文化がその萌芽において近代批判と文化流入によるグローバリゼーション化した背景を受けて、西洋中心という単に一様なグローバリゼーションではなく、漢字というモデルを通じて別のグローバリゼーションの可能性を志向している。 [佐々木一晋]

磯崎新『建築における「日本的なもの」』(新潮社、2003)
本書は、7世紀以来その外部/内部の交錯する線上に立ち上がってきた「日本的なもの」という問題構制を表象する3つの出来事(建築)と、主に近現代の事象を扱う総括的な表題作の4本の論文から構成される。本書に限らず、「日本」を思考し、かつ強力な求心力を持つ日本的共同体に回収されてしまわないためには、外部からの視点で眺めるしかないというのが、「日本」に対する磯崎の一貫した姿勢だった。けれど90年代以降、グローバリゼーションの波の中で外部/内部の境界線が無化していくとき、果たして「日本的なもの」という問題構制自体が成立しうるのか、というのが60年代より継続されてきた磯崎の思考が本書において辿り着いた地平である。解答の一端はここに明示されている。世界の群島化は確かに起こっているのだろう。けれどそこからは、僕たちこそが引き受けなくてはならない。境界線が解除された後の世界で建築を思考し始めた僕たちの世代こそが。[山雄和真
参考──磯崎新『始源のもどき──ジャパネスキゼーション』(鹿島出版会、1996)

>今村創平(イマムラ・ソウヘイ)

1966年生
atelier imamu主宰、ブリティッシュ・コロンビア大学大学院非常勤講師、芝浦工業大学非常勤講師、工学院大学非常勤講師、桑沢デザイン研究所非常勤講師。建築家。

>今井公太郎(イマイ・コウタロウ)

1967年生
キュービック・ステーション一級建築士事務所と協働。東京大学生産技術研究所准教授。建築家。

>日埜直彦(ヒノ・ナオヒコ)

1971年生
日埜建築設計事務所主宰。建築家。

>吉村靖孝(ヨシムラ・ヤスタカ)

1972年生
吉村靖孝建築設計事務所主宰。早稲田大学芸術学校非常勤講師、関東学院大学非常勤講師。建築家。

>『10+1』 No.36

特集=万博の遠近法

>今村創平(イマムラ・ソウヘイ)

1966年 -
建築家。atelier imamu主宰、ブリティッシュ・コロンビア大学大学院非常勤講師、芝浦工業大学非常勤講師、工学院大学非常勤講師、桑沢デザイン研究所非常勤講師。

>ポストモダン

狭義には、フランスの哲学者ジャン・フランソワ=リオタールによって提唱された時代区...

>磯崎新(イソザキ・アラタ)

1931年 -
建築家。磯崎新アトリエ主宰。

>ミニマリズム

1960年代のアメリカで主流を占めた美術運動。美術・建築などの芸術分野において必...

>ル・コルビュジエ

1887年 - 1965年
建築家。

>バウハウス

1919年、ドイツのワイマール市に開校された、芸術学校。初代校長は建築家のW・グ...

>インターナショナル・スタイル

International Style=国際様式。1920年代、国際的に展開され...

>藤森照信(フジモリ・テルノブ)

1946年 -
建築史、建築家。工学院大学教授、東京大学名誉教授、東北芸術工科大学客員教授。

>ピーター・クック(ピータ・クック)

1936年 -
建築家。アーキグラム所属。

>アーキグラム

イギリスの建築家集団。

>ルイス・カーン

1901年 - 1974年
建築家。

>メタボリズム

「新陳代謝(metabolism)」を理念として1960年代に展開された建築運動...

>ミニ・ハウス

東京都練馬区 住宅 1999年

>毛綱毅曠(モヅナ・キコウ)

1941年 - 2001年
建築家。

>石山修武(イシヤマ・オサム)

1944年 -
建築家。早稲田大学理工学術院教授。

>レム・コールハース

1944年 -
建築家。OMA主宰。

>今井公太郎(イマイ・コウタロウ)

1967年 -
建築家。キュービック・ステーション一級建築士事務所と協働。東京大学生産技術研究所准教授。

>日埜直彦(ヒノ・ナオヒコ)

1971年 -
建築家。日埜建築設計事務所主宰。

>吉村靖孝(ヨシムラ・ヤスタカ)

1972年 -
建築家。吉村靖孝建築設計事務所主宰。早稲田大学芸術学校非常勤講師、関東学院大学非常勤講師。

>フィリップ・ジョンソン

1906年 - 2005年
建築家。

>ヴァルター・ベンヤミン

1892年 - 1940年
ドイツの文芸評論家。思想家。

>佐々木一晋(ササキ・イッシン)

1977年 -
建築意匠、環境情報科学。東京大学工学系研究科建築学専攻博士課程。

>ブルーノ・タウト

1880年 - 1938年
建築家、都市計画家。シャルロッテンブルグ工科大学教授。

>日本美の再発見

1962年2月

>日本の都市空間

1968年3月1日

>都市のイメージ

2007年5月

>丹下健三

2002年

>脱構築

Deconstruction(ディコンストラクション/デコンストラクション)。フ...

>原広司(ハラ・ヒロシ)

1936年 -
建築家。原広司+アトリエファイ建築研究所主宰。

>集落への旅

1987年5月

>集落の教え100

1998年3月

>金子祐介(カネコ・ユウスケ)

1978年 -
理論批評、インテリアデザイン史、建築史、都市デザイン史。芝浦工業大学博士課程在籍。

>中谷礼仁(ナカタニ・ノリヒト)

1965年 -
歴史工学家。早稲田大学創造理工学部准教授、編集出版組織体アセテート主宰。

>八束はじめ(ヤツカ・ハジメ)

1948年 -
建築家。芝浦工業大学建築工学科教授、UPM主宰。

>椹木野衣(サワラギ・ノイ)

1962年 -
美術評論。多摩美術大学美術学部准教授。

>藤岡洋保(フジオカ・ヒロヤス)

1949年 -
日本近代建築史研究。東京工業大学大学院教授。

>佐貫大輔(サヌキ・ダイスケ)

1975年 -
建築家。ベトナムにて設計事務所「sanuki design」主宰。

>東浩紀(アズマ ヒロキ)

1971年 -
哲学者、批評家/現代思想、表象文化論、情報社会論。

>スーパーフラット

20世紀の終わりから21世紀の始まりにかけて現代美術家の村上隆が提言した、平板で...

>岡崎乾二郎(オカザキ・ケンジロウ)

1955年 -
造形作家、批評家。近畿大学国際人文科学研究所教授、副所長。

>小嶋一浩(コジマ・カズヒロ)

1958年 -
建築家。C+A共同設立、東京理科大学教授、京都工芸繊維大学客員教授。

>グローバリゼーション

社会的、文化的、商業的、経済的活動の世界化または世界規模化。経済的観点から、地球...

>山雄和真(ヤマオ・カズマ)

1978年 -
建築家。CAt勤務。