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在来交通網の継承と革新 | 山根伸洋
Succession and Innovation in the Indigenous Transit System | Nobuhiro Yamane
掲載『10+1』 No.36 (万博の遠近法) pp.39-40

日本近代を思考の対象とする際、近代の端緒を「黒船来航」の一八五三年(嘉永六)とする時期区分は、東アジア、とりわけ日本にとっての近代が欧米文明との出会いによって特徴づけられているからに違いない。ペリー提督が浦賀沖から江戸湾内に立ち入り、その後久里浜へ上陸して米国大統領の親書を手渡して後、琉球へと向かう。その翌一八五四年(嘉永七)には、銀板写真機、電信機、鉄道模型(実寸の三分の二であったと言われる)をはじめとする献上品を携えて、再度、神奈川に上陸し日米和親条約を締結した。この時、初めて、電信機や鉄道模型が展覧され、実地に、その効能を見せつけられることになった。一八五三年から一八六八年の明治維新までのおよそ一五年間にわたって、幕藩体制の動揺は頂点に達していくことになる。逆に言えば、幕藩体制から明治維新までの一五年間があってはじめて、明治維新政府が「富国強兵」「殖産興業政策」という、いわゆる「上からの」近代化政策を実施することが可能となったということができるだろう。
この小論において、主として輸送・通信網の近代化をめぐるエピソードを紹介していくことになるが、明治期に本格的に始まる近代化政策が、幕藩体制期の最後の一五年間という準備期間があってようやく可能となったことを銘記しておく必要があるだろう。欧米からの技術情報の流入は、明治期以降に始まるのではなく、この幕藩体制最後の一五年間で、多くの人々が欧米へ留学、あるいは密航することで、欧米の「文明」を実地に経験するところからすでに始まっていた。それは、限られた情報ルートから間接的にもたらされる情報ではなく、もはや「開国」を余儀なくされて、世界市場へ自国を開いていくことを運命付けられた時代における能動的な情報の取得としてあった。明治維新期研究の第一人者でもある田中彰氏は、一八七三年(明治六)以降、大久保利通が実権を握った政治体制を分析して、「藩閥色を濃厚にもちながらも、機構そのものをささえる中・下層官僚は、意外に旧幕臣層に依拠するところ大きく」そうであるがゆえに「列強の先進的な技術を受容、継受する能力」をもつ、とする。その上で、明治国家の創出の基礎をつくりえた根拠に、「幕藩体制内部に形成され、蓄積された技術的、実務的ひいては文化的能力」の継承をあげている★一。田中氏は、幕藩体制と明治国家との間の体制間の断絶面が一般的に強調される傾向に対して、連続面を考察することの意義を強調する。そして、この「連続面」こそ、幕藩体制期に整備された交通網(輸送・通信網)の近代化をめぐる諸相を捉える上で、非常に重要な視点となる。
幕末の一八六六年(慶応二)に、福澤諭吉は『西洋事情』の「初編」を、一八六八年(慶応四)には「外編」を、そして一八七〇年(明治三)に「二編」を刊行した。福澤は『西洋事情』刊行までに、一八六〇年幕府遣米使節団に随行しての渡米を皮切りに、一八六二年には幕府遣欧使節団に随行、一八六六年にも渡米し、都合三回の洋行を経験していた★二。さて、一八六六年刊行の『西洋事情』「初編」巻之一の「扉絵」では地球の円形の周囲に均等に電信柱が建てられ、電信柱間に電信線が張られており、その上を「郵便脚夫」が郵便物を逓送している図柄が描かれており、その下方には、「蒸気船」、「蒸気機関車」、「都市の街並み」のイラストが配され、上方には、「蒸汽」、「済人」、「電気」、「傅信」の文字が羅列されていた。いまから、その「扉絵」を眺めれば、すでに一九世紀において、地球規模での情報網の構築が意識されていたとも見ることができる。実際、電信線の海底ケーブル技術が、一八五一年「英仏間海底ケーブル」の敷設に成功することをもって確立し、その後、一八五六年にはイギリスとアメリカを結ぶ「大西洋横断海底ケーブル」が敷設される。その後、世界規模での電信線路網の構築が進行し、幕末にはシベリア横断の電信線がウラジオストックまで延伸していた。『西洋事情』「初編」が刊行された当時は、まさに、欧州からシベリア経由の電信線とインド経由の電信線が北東アジアで接続される時期と重なっていた★三。
『西洋事情』の「扉絵」が示しているように、福澤の目に映った「近代通信」の姿は、「電信」と「郵便」であった。『西洋事情』「初編」では、「飛脚印」(郵便切手のこと)という小項目を設定して、「西洋諸国にて飛脚の権は全く政府に属し、商人に飛脚屋なるものなし」と紹介した上で、国際郵便の紹介を行なっている。また「近代輸送」の姿は、「扉絵」に書き込まれているように、「蒸気機関車」と「蒸気船」に代表されていた。そして、「商人会社」という項目において、「総て商船を造て外国と交易し、飛脚船を以て世界中に往来し、為替問屋を設て各国と互に取引を為し、鉄路を造り製造局を建て瓦斯灯を設る等の大商売より、国内の諸商売に至るまで、皆この商社の為す所なり」として、民間資本の存在と役割の大きさを言い当てている。ここで言うところの「飛脚船」とは、郵便請負をした海運会社の汽船を指すのであろうが、『西洋事情』刊行時における「郵便請負」を名目とした汽船定期航路の開設と維持に対する国家補助制度のことまで、当時の福澤も見抜くことができなかったのであろう★四。このほかにも「蒸気船」、「蒸気車」を紹介しながら、「蒸気車」の「蒸気船」に対する速度の圧倒的優位性を強調した上で、その社会的効能を「各地産物の有無を交易して物価平均し、都鄙の往来を便利にして人情相通じ、世間の交際俄に一新せり」と記述している。そして「蒸気車」の紹介の次に、「伝信機」の項目が続き、ここで、その通信の速度を「その神速なること千万里と雖ども一瞬に達す」と紹介する。その上で、海底ケーブルを、その建設費も含めて紹介し、当時の整備状況を「現今西洋諸国には海陸縦横に線を張ること恰も蜘蛛の網の如し」として、福澤の驚嘆の思いが書き上げられている。
福澤が「書状逓送」を中心とした欧米の郵便事業に関して、「蒸気車」や「伝信機」ほどには注意を払わなかったのは、ペリー来航以来の欧米文明の所産である電信機や蒸気鉄道の新奇性に目を奪われていたからなのだろうか。いや、「飛脚の権」が政府に属していることは、「飛脚印」の項目で紹介しているのであるから、むしろ、「飛脚業をなぜ政府が担うのであろうか?」という疑問が先立ったのに違いない。実際に、初代駅逓権正であり杉浦譲と協力して日本において近代郵便事業を創始した前島密をして、「当時私自身すらも賃銭を取つて私人の信書を送達するなどといふ事は飛脚屋輩の営業である」として「賎視する観念」があったことを述懐しているほどであった★五。
しかし、上記の前島の述懐は、少々疑わしいところがある。もちろん、前島の述懐に該当する「世相」があったことは確かだろうが、それにもまして、書状逓送などの輸送・通信事業について幕藩期に、すでに相当程度の整備が達成されていた。このことが、じつは、書状逓送業務の問題は、電信・鉄道などの整備への志向性に対して、あえて郵便事業を後景化していた原因とも言えよう。幕藩期において、輸送と通信は未分化であるなかで、幕藩体制初頭において、「参勤交代」という幕府の諸大名支配の制度の貫徹のために、つまり、政治的要請にしたがって、五街道を中心として輸送労働力が保持された交通基地としての宿駅を整備し、その後、輸送力不足の補充のために近隣の村々に対して労働賦役(強制徴発)としての助郷・伝馬役負担を課していく。このように政治的要請にしたがった上からの交通政策に対して、一八世紀の後半には、農村の農耕用牛馬を用いて、牛馬の背に附け荷をして貨物を輸送する「中馬稼ぎ」が、周辺の宿駅との抗争を経て営業免許を得る★六。まさに農村の商品生産力の上昇にあわせた経済的要請による新たな輸送網が「中馬稼ぎ」のネットワークとして整備されていく。それと並行して三都の飛脚業者が力をつけて、積極的に荷物輸送から書状逓送までを引き受け、全国的ネットワークを形成した。じつは幕末の時点で、本州・中国・九州・四国の輸送・通信をはじめとする交通網は、相当稠密に整備されており、そのような国内事情のゆえに、欧米各国の「郵便事業」それ自体を見聞しても、電信や鉄道を見聞した上で抱く「喪失感」と激しい「欲望」は生じえなかったのではないだろうか。
日本における電信の整備は郵便事業の創始に先行する。その訳と郵便事業の創始が、在来の交通網の継承との関連で、いかに「洗練」された地方行政政策であったのか、次回以降で論を進めていきたい。

1──『西洋事情』巻之一の扉絵 出典=『福澤諭吉著作集 第1巻 西洋事情』 (慶應義塾大学出版会、2002)

1──『西洋事情』巻之一の扉絵
出典=『福澤諭吉著作集 第1巻 西洋事情』
(慶應義塾大学出版会、2002)


★一──田中彰『明治維新』(講談社、二〇〇三)三二一─三二二頁。
★二──福澤諭吉『福澤諭吉著作集 第1巻 西洋事情』(マリオン・ソシエ+西川俊作編、慶應義塾大学出版会、二〇〇二)。福澤諭吉の幕末洋行に関しては、前掲書「解説」および、『国史大事典』(吉川弘文館、一九九一)の「福澤諭吉」の項目などを参考としている。
★三──石原藤夫『国際通信の日本史』(東海大学出版会、一九九九)。
★四──郵便逓送の請負契約をめぐる海運会社と国家との関連については、下記が参考となる。後藤伸『イギリス郵船企業P&Oの経営史 一八四〇─一九一四』(勁草書房、二〇〇一)。
★五──前島密「郵便創業談」(『鴻爪痕』[市野彌三郎編、一九二〇]所収)。なお、前島は、本文紹介の文言の直後に、福澤の『西洋事情』に触れて、次のように弁明している。「福澤氏の西洋事情に、西洋の國々では通信は官の事業であるといふ事が載せてあるというふ事は、後に或人から示されたが、私も明治元年の春、幕府の命で官軍應接のため、東海道に向つて出發する日、此本を買つて籃輿の中で讀んだけれども、晝夜兼行で、疲眠を堪へながら視たものであるから、其處を視落したかして、覺えて居なかつたのです」。
日本における郵便創業の立役者、前島密、杉浦譲ともに旧幕臣であった。郵便創業に携わった官吏が何故旧幕臣であったのか、という点については、今後紹介する。前島密の最新の伝記として以下の文献を紹介する。『便生録「前島密郵便創業談」に見る郵便事業発祥の物語』(日本郵政公社監修、アチーブメント出版、二〇〇三)。
★六──一七六四年(明和元)に、中馬慣行に対して、輸送品目の制限をつけて営業を許可する「裁許書」が下りる。中馬に関する代表的研究を以下紹介する。古島敏雄『信州中馬の研究』(『古島敏雄著作集 第四巻 信州中馬の研究』[東京大学出版会、一九七五]所収/伊藤書店、一九四四、初出) 。

>山根伸洋(ヤマネノブヒロ)

1965年生
明治学院大学、玉川大学非常勤講師。歴史学、社会学。

>『10+1』 No.36

特集=万博の遠近法