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都市をn次元化するテクスト | 南明日香
Texts for Converting Cities into n-Dimensional Space | Minami Asuka
掲載『10+1』 No.33 (建築と情報の新しいかたち コミュニティウェア) pp.30-32

空撮映像作品『東京スキャナー』(押井守監修)を見た。森アーツセンターのオープニングに際して特別上映された話題作だ。前評判ではハリウッド風ダイナミズムということだったが、むしろいかにも日本的劇画タッチのスピード感と音響効果とで構成されている。極端なズームインとパン、望遠を繰り返しながらも視界に納まるのは古い低層住宅と高層ビルとの果てしないランダムな重なりあいで、そのためかえって画面がフラットに感じられてしまう。この景観を難ずるか、あるいは表通りも裏通りもそれぞれに多彩な顔を見せている点に活気を見て、積極的に評価するか。現今の東京論はこの二極に収斂する。五十嵐太郎の言葉を借りて言い換えると「西洋の理想化による日本の都市批判」と「カオス/迷宮礼賛論」ということになる★一。いうまでもなく二つとも欧米人、もしくは欧米での居住経験のある日本人の評価を反映している。都市は、超越的視点から語られる計画の言語によって構成される/されないという、都市の生成を自然都市(セミラチス)と計画都市(ツリー)とに分類したクリストファー・アレグザンダー以来、おなじみの評価軸でもある。
この二分法から抜け出る発想はないわけではない。例えば最近とても人気のある「ファッション」と「建築」を等価に扱う雑誌のように、都市を都会と言い換えてひたすらそのイメージを肯定的に語ってみることもできる。ディケンズの小説やボードレールの散文詩経由で、都会のイメージが言説レヴェルで確立した大正時代から見られるものでもある。すなわち

この美しい都会を愛するのはよいことだ
この美しい都会の建築を愛するのはよいことだ
すべてのやさしい女性をもとめるために
すべての高貴な生活をもとめるために
この都にきて賑やかな街路を通るのはよいことだ
萩原朔太郎『青猫』(一九一七)


と寿いでしまうのだ。だが、このような一元的発想が関東大震災以後の「モダン都市」のイメージを通過して今日まで生き延びているとしても、話者も読者も同じ価値観に巻き込む単純さが通用する範囲はけっして広くない(件の雑誌が建築界にネガティヴな反応を引き起こしているように)。そこでこの連載の最初に書いたように、体験的都市の読解を史的実証主義で相対化し、そのうえでテクスト上に立ち上がるヴァーチュアルな空間イメージの言語化を試みる。取り上げるのは、都市を描いた文学テクストとしてよく知られている三作品であるが、無論いまさら「都市空間の中の文学」(前田愛)として紹介するために持ち出すのではない。またジャン・ヌーヴェルがプレゼンテーションのために創るという、建築空間体験のシナリオとも異なる。テクストが都市の観察や体験の記述ではなく、そのイメージを人物を通して表わしうることを教えてくれる、そういうものである。
最初に、現・長野県知事田中康夫の処女作『なんとなく、クリスタル』(一九八〇)。主人公は原宿に住みアルバイトでモデルをしている大学生で、彼女が自分の生き方を一言でまとめた言葉がタイトルになっている。同書が画期的であったのは、ヒロインの一人称の語りとは別に、衣食住のエレメント、ショップ、大学、町名、音楽や趣味まで、都市を構成する諸々の要素を四四二の註の体裁で並列化して見せたことである。

114 クリストファー・クロス テキサス出身なのに、西海岸の香りがするシンガー=ソングライター。
115 イエーガー イギリスの高級ニット・ブランド。オスカー・ワイルドや、バーナード・ショウも好んだ、イエーガーのニット・ウェアは、キャメルやフランネル・グレイなどの独特の染色で、日本でも本物のわかる人に愛されているそうです。
116 インクレディブル incredible
117 青山 南青山三丁目に住みたいなんて、ちょっとした人の前では恥ずかしいから、言わない方がいいです。


大量消費社会ラスヴェガスの特性を論じたロバート・ヴェンチューリの分析と比べることもできよう。また同小説が「文藝賞」に入選した際の選考委員でもあった江藤淳の、蓮實重彦との対談での指摘も珍重に値する。

いまの東京のいったいどこに、都市空間などというものがあるのだろうか。そんなものがもはや存在していないことを、完膚なきまでに残酷に描き切ったところが、田中康夫の『なんとなく、クリスタル』の新鮮さではなかったのか。田中君は、東京の都市空間が崩壊し、単なる記号の集積と化したということを見て取り、その記号の一つ一つに丹念に注をつけるというかたちで、辛くもあの小説を社会化することに成功しているではないか。
          江藤淳+蓮實重彦『オールド・ファッション』
(一九八五)


江藤自身にとっての都市空間を彼は説明していないが想像するに、消費生活以外に集団的知的生産の場(図書館、カフェ、ホール等)としてあり、放射状の道路と広場の組み合わせに見られるような中心や軸線と小路の構成が自ずと通行者の感性を統御する、多分こういうものだったはずだ。だが田中の小説がオリジナルなのは、ありうべき都市の成立していないことを書いたからではない。おびただしい註が、公領域としての都市感覚からも読者の知識量への配慮を考える編集者的視点からも遠いスタンスから付せられていることである。物語とは別にテクスト中には、ヒロインと同じ価値観を持ち、それを短い言葉で敷衍化することのできる語り手が存在する。予定調和的都市構成の不可能性というよりも、田中のそれは、あくまでも個人の感覚でより分けマーキングされた点の集積になっている。
もうひとつの小説は夏目漱石の『三四郎』(一九〇八)。以前にも書いたように、東京が都市らしさを見せるのは一九〇〇年代後半で、この時期に都市を描いた代表的な小説のひとつになる。視点は熊本からの上京大学生小川三四郎にある。東京に市電が敷かれた一九〇三年以後西の郊外ヘのスプロールは著しく、三四郎が秋の新学期のために上京した一九〇八年には、「流行の郊外生活にかぶれて初めて郊外に住んだ連中」(『竹の木戸』)の生活を国木田独歩が短編にしているほどである。電車通勤する勤め人や、一八九九年の「高等女学校令」施行以来、増加した女学校に通う若い女性の姿が見られるようになった。田山花袋は小説『少女病』(一九〇八)で、郊外の新興住宅地から神田への通勤途中に、お気に入りのタイプの女学生を見るのを人生唯一の楽しみにしている出版社勤務の中年男性(明治版ストーカー?)を、戯画的に描いている。郊外住宅、電車、出版社の三つの空間が少女に憧れる男の目を通して異化されるのである。三四郎のほうは上京して直ぐ「電車のちんちん鳴る」こと、「其ちんちん鳴る間に、非常に多くの人間が乗つたり降りたりする」こと、「何処迄行つても東京が無くならないと云ふ」こと、「凡ての物が破壊されつつある様に見える。さうして凡ての物が又同時に建設されつつあるさまに見える」ことに驚いている。ここまでは、よくある社会学的にみたときに指摘しうる文学に描かれた都市の姿である。
われわれにとって興味深いのは、主人公が自分の生きる空間世界を時間軸によって三等分していることだ。ひとつは郷里が喚起する世界。これを彼は遠い過去のもののようにも感じ始めている。が、母の手紙や仕送りは現在の彼の東京での生活に充分影響を与えており、また母の勧める許嫁いいなずけらしき女性の存在が未来に投影されている。二つめは大学の図書館や実験室に象徴される世界である。『三四郎』には当時の帝国大学のキャンパスの地勢、各科ごとの建築の概観が詳述されていて、それらがひとつのトポスとしての様相を作っていることが容易に読み取れる(漱石自身建築に興味があり、義弟は中京地方を中心に活躍した建築家の鈴木禎次であった)。これは学生である三四郎にとっては過去とも未来とも自然に繋がる空間である。もっとも彼はそこに流れる時間が、めまぐるしく電車が走りスクラップ・アンド・ビルドが進む空間でのそれとはまったく通じていないことを知っている。最後に当時のエリートコースを進んだ彼の近い将来の可能性として、社会的名声を得て美しい女性と過すというほほえましいイメージがある。当時まだ珍しかった電燈がこの世界を照らす。電車のある世界のさらに上を行く近代化された世界である。こうした現在自分が生きている世界を複数の時間軸にそって空間イメージに再構築していくやり方に、都市の新たなイメージ化のヒントがありはしないか。
この逆の方法もある。思い出も期待も、個人性も歴史性、社会性もひとしなみに平面化してしまうのである。これは『三四郎』に対抗して執筆されたといわれる森鷗外の『青年』(一九一〇─一一)から抽出することができる。上京した作家志望の青年小泉純一は、鷗外その人が立案した地図帳の『東京方眼図』(一九〇九)を片手にまごつくことなく東京を横断する。フランス語に通じ、雑誌などを海外から取り寄せてそのグラビアなどを見慣れているために、ルネッサンス様式を模した有楽座(一九〇八年竣工)の「西洋風の夜の劇場」の華やかさにも驚かない。旧長州藩出身で、これが「今東京で社会の表面に立つ」のに有利であることがわかっており、また彼が書くべきはこの「現社会」だと思っている。が、それを積極的に利用することはなく、一方で郷里の亡くなった祖母が以前に話してくれた伝説の世界を書くことも考えている。一見『三四郎』と似た設定でありながら、物語の多くを彼の書く日記がしめ、そこではダイアグラムで東京を切り取った方眼図のように、淡々とこれらが紙のうえに並べられて、彼の人生上での位置が確認される。
こうした発想に人口に膾炙している都市を語るセミラチス、リゾーム、カオスといった幾何学分野の語彙は馴染まない。『三四郎』のそれは、むしろジル・ドゥルーズのいうレスパス・ストゥリエ(条里空間)に時間軸を挿入して多層化したものとみるほうが合っている。一方『青年』のそれは二次元に落としていくカルトグラフィ(地図作成術)になぞらえることができる。点の集合体としての都市イメージを喚起した『なんとなく、クリスタル』にも共通するのは、都市との関わり方に個人というプリズムが導入されていることである。しかもそれは「生きられた空間」といういささかロマンティックな表現に納まらない、人と都市空間とのあらたな関係性を浮上させる。
冒頭に挙げた『東京スキャナー』はカメラ・アイという明確な一元的視点から捉えた都市像であり、大衆的に成功したということで「期待の地平」に登場した作だということがわかる。だが、そもそも個人の指向性は「期待の地平」という一般のレヴェルに置かれるものでも、マスといって一塊にされるものでも、超越的視点によって意味づけしうるものでもないだろう。どのような都市が魅力的かを問う前に、空間を個人の体験から抽象イメージにするためのツールを多く提案し、より多様な物語を与えられるような空間を設定する試みがあってよいはずだ。


★一──五十嵐太郎「他者が欲望する黒船都市トーキョー」(『終わりの建築/始まりの建築──ポスト・ラディカリズムの建築と言説INAX出版、二〇〇一)。

>南明日香(ミナミ・アスカ)

1961年生
比較文学・比較文化。相模原女子大学教授。

>『10+1』 No.33

特集=建築と情報の新しいかたち コミュニティウェア

>五十嵐太郎(イガラシ・タロウ)

1967年 -
建築史。東北大学大学院工学研究科教授。

>クリストファー・アレグザンダー

1936年 -
都市計画家、建築家。環境構造センター主宰。

>ジャン・ヌーヴェル

1945年 -
建築家。ジャン・ヌーヴェル・アトリエ主宰。