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昭和四五年の呪いとゼロ次元の笑い(別称=昭和残響伝・号外篇) | 小田マサノリ
A Curse from 1970, A Laugh from Zero. (a.k.a. An Echograph of the Showa Era) | ODAMASANORI
掲載『10+1』 No.31 (コンパクトシティ・スタディ, 2003年07月01日発行) pp.20-21

昭和四五(一九七〇)年、日本各地では全学連やベ平連をはじめとする様々な組織や運動体が「日米安全保障条約」(別称=アンポ)粉砕のデモンストレーション(別称=デモ)をくりひろげていた。前年の東大安田講堂の陥落で、学生運動には多少の翳りが現われてきていたものの、その日、一九七〇年六月二三日には、日本全国で七七万四〇〇〇人もの人々がデモに参加し、東京だけでも一四七件のデモの届け出があったという。にもかかわらず安保条約は、「期限ギレ自動延長」という、まさになしくずしのかたちで日本に再インストールされ、以後それは「ガイドライン」というかたちでアップデートをくりかえしてきた。そして今日、二〇〇三年の五月一五日、その最新ヴァージョンというべき「有事関連三法案」(別称=戦争国家法)が衆議院であっさりと可決され、まったりと参議院に送られた。本国会での法案成立はほぼ確実だといわれている……「何かがはじまっている。私にはそんな気がする。実感として、する」(小田実)、という言葉すら待たずに、それはとっくに始められていた。とっくの昔から準備されていた。こういうことになるのは知っていた、にしても、今ほどこの言葉が強い実感をもって感じられることはなかった……ソウ、ソレハヤッテクル、運命ノヨウニヤッテクル、電光石火ノゴトクヤッテクル、原因モナク理由モナク、ソシテ遠慮モ口実モ何モナク、ソレハヤッテクル。どうやってそれが首都まで浸入してきたのかわからない、だがそれはもうここにいる。朝がくるたびそれはどんどん数が増えてゆくように思われる……。昭和と呼ばれていた時代から様々なものが回帰してくるなかで、その最悪のものがいま息を吹き返そうとしている。その残響をにわかに響かせてきている。またしても最新のテクノロジーの怪物と結びついて。今度もまた都市が主戦場となるだろう。だが、それは一九六八年一〇月二一日の騒乱罪の夜、今の新宿アルタ前が戦場であったようにはならないだろうし、むろん、一九九五年三月二〇日の、朝の地下鉄のようであっては断じてならない。大島渚の映画に『東京戦争戦後秘話』という作品がある。昭和四五年、安保闘争の終わりの「くじけの季節」にそれは撮影された。この時代説話には、ひたすら東京の「風景」を撮り続け、そのフィルムを残して消えた学生運動家の幽霊がでてくる。運動の終焉とその現場からの距離を感じさせる以外には何の意味も見えてこない、その「風景」にこめられた幽霊/作家の意図は、自分の足もとをじっくり見つめ返すことから、もう一度はじめよ、というものだった。その当時の日本には「風景」があり「地下」があり「闇」があった。足立正生の映画『略称・連続射殺魔』にそれを見ることができる。その頃の「都市は森であり、街は林であり、市民は海であった」からこそ、ベ平連の地下組織(別称=JATEC)は、そこに闇のルートをたちあげ、ベトナム反戦米兵の脱走を支援する市民参加型のネットワークプログラムを走らせることができた。人が集まれば巨大な「人間の渦」となり「祭」となった。ヘルメットの仮面をつけて姿をくらますことができた。だが、魔法はいつかとける。ふたたび昭和四五年。この年の三月一五日、日本万国博覧会(略称=バンパク)が開催された。大企業や農協をはじめとする様々な組織や団体を通じて人々が召集され、学童たちが総動員された。ベ平連やゼロ次元などによる様々な反博運動が展開されたものの、終わってみれば、総入場者数六四四一万人という史上空前の大成功だった。アンポの日の六月二三日の一日だけをとってみても二二万二〇〇〇人もの人々が万博に参加し、四四件の迷い子と三二六件の尋ね人の届け出があったという。二一世紀の今の日本をシミュレートした会場には、テレビつきの未来電話や巨大なマルチ・スクリーンがディスプレイされ、「あらゆる場所にコンピュータを」というユビキタス・コンピューティングの夢がデモンストレーションされた。最新のテクノロジーによる光と音の祭典に人々は目と耳を奪われ、これが戦後最大の国民国家行事であることを忘れた。未来都市の「風景」を伝える連日のメディア報道が目下の都市の騒乱をカモフラージュした。ここで思い出してみよう。一九四五年八月一五日。「わたしたちが美しいと見たのは、終戦の日のあの夜(…中略…)電灯の覆いが取られ、電灯のひかりが大っぴらに外に洩れていた、あの涙のでるような風景ではなかったのだろうか」(花森安治)。戦後の復興を支えた電気の夢の都の風景は、バンパクの中で電子の夢の都のそれにアップグレードされ、日本に再インストールされた。以後それは「ハイテク」や「マルチメディア」というかたちでアップデートをくりかえし、そして今日、その最新のテクノロジーは、携帯電話(別称=ケータイ)に結集され、東京はまるでバンパク会場のようになった。メールやブラウザはもちろん、位置確認装置に加え、高解像度のムービーカメラが搭載され、ついには指紋認証システムまでもがケータイの中に埋め込まれようとしている。「我々のやることのほとんどは家の外で記録されている」とレッシグはいう。たしかに。かつては脱走のための森であった都市のビルには監視カメラが、林であった街の通りにはNシステムが、海であった市民の携帯には通報装置とカメラが搭載され、それらはすべて見えない回線でつながれ、ネットワークされている。クレジットカードはおろか、住民基本台帳、コンビニでの買物記録や地下鉄の利用状況までもがそれにリンクされようとしている。でも、なんのために。それは決して僕らの「暮し」のためにではないはずだ。「万国の管理者諸君、いや、失礼、帝国の管理者諸君、あともうひとふんばりだ」と、そう云いたくなるような万全のセキュリティ天国と管理地獄。映画は死んだがカメラは残った。おかげでもう人は都市で迷子になることはない、ゆきだおれになることもない、なりたくてもなれない。はぐれたくてもはぐれられない。消えたくても消えられない。逃亡したくても逃げられない。それに、もし……カメラつきケータイとその持ち主が機械状アレンジメントして「動く監視通報機械MMM=モバイルモニタリングマシン」になってしまったら、もはやそこではオーバーグラウンドとアンダーグラウンドの区別さえないに等しい。万人の万人に対する新たな監視状態としての動くユビキタスがそこに出現してしまえば、目立ちすぎる監視カメラや固定式のNシステムなどダミーで十分だ。そして、これがまさに最新版の、次世代の「考えられた」都市の「風景」である。僕らがじっくり見つめ返さなければならないのはこれであり、論じなければならないのは文字通りの意味での「建築」よりもむしろそこに埋め込まれた、この管理のアーキテクチャのほうである。いまや東京のみならず、日本の都市は二四時間三六五日、誰かに監視され、誰かに記録される透明な水晶宮、見られる博覧会場である。まさかこんなことになろうとは誰が予想しただろうか? 否、ゼロ次元はそれを予言していた、そしてそこで何をすればよいかも。ゼロ次元の加藤好弘はこう書いていた。「博覧会は見る所ではなく、九九パーセントに見られるところなんだ。見る所を見られる所にしてしまうことが革命なのよ。巨大なハプニング会場がわれわれを嬉々として待っているのだ」(加藤好弘「万博破壊活動第一宣言」[針生一郎編『われわれにとって万博とはなにか』田畑書店、一九六八]、以下同)。かの世代が「政治よりもビジネスを!」と、「革命」をくさしていた間にテクノロジーの革命だけがどんどん進み、すべてを見通す都市のアーキテクチャが僕らを待ち伏せていた。有事法制がこのままなんの抵抗もなく成立し、その新たな戦争国家に、僕らが匿名の存在として抵抗しようとしても、都市のアーキテクチャはそれをゆるさないだろう。戦争国家への不服従をしめすために逃亡をはかろうとしても、都市のアーキテクチャはそれをゆるさないだろう。隠れ家やアジトや避難所を持とうとしても、都市のアーキテクチャはそれをゆるさないだろう。でも、いったいそれはどこまで本当なのだろうか。それはあくまで「考えられた」近未来でしかないのではないだろうか。アクセスしてみるまでそのサイトのことはわからない、そこで「生きてみる」までその社会のことはわからない。民族誌家ならそう考える。それに欠陥のないアーキテクチャがあるだろうか。バグのないシステムがあるだろうか。九九パーセントからはみだす一パーセントの思考と行動は予測可能なのか、そして万博の夢から醒めることはできないのだろうか。加藤はこう続ける。「片手あげてカッコいい君を皆がジロジロ見るだろう。万博にジロジロ見られる人にならなければ、万博を真に観る事はできないという簡単な真理を君は片手をあげつつゾロゾロ歩きながらインスピレーションするだろう」。その加藤も参加する「殺すな」のデモを、都市はまだ十分にジロジロ見ていないはずだ。都市にジロジロと見られる「殺すな」にならなければ、そのアーキテクチャを真に観ることはできないという真理をインスピレーションできるほどには、まだ僕らはゾロゾロ歩いていない。「君は、芸術とは力学なんだな、と直感するはずである」。そう、まだ僕らは都市のアーキテクチャと力学的にせめぎあっていない。「片手あげのハレンチ儀式革命はダレにだってできる手続きよ。ゲバ棒よりも安全だよ。世界中から日本万博に片手あげ人間行進だけを見て笑いころげるだろう」。世界中が笑いころげるようなことを僕らはまだ何ひとつしていない。「日本人は気痴害になったのかとブッタマゲルだろう」(原文ママ)。僕らはそんな気痴害にまだなりきれていない。「体制、反体制という基準からはゲバ棒も、オネンネ片手あげ行進ハレンチ儀式も全然はかり知れない所にある第三の人類の現象であったことがドキリと直感されてこよう」。第三の人類の現象ってナンダ? 何だか分からないがドキリとそれを直感してみたい。「君は私の狂気にチャンネルを同調させるだろう。それは今はじまっている」。そんな時に自分の思考のチャンネルにひきこもって、まだ「生きられてない風景」について思考実験してみてもはじまらない。ベルナール・チュミは云わなかっただろうか、アクションなき建築、イベントなき空間は存在しない、と。なにより、わざわざ自分の手で自分の自由を奪う必要はないし、むやみに他者を疑う必要もない。管理する側にも気痴害なエンジニアはいるはずだ。他者について思考実験することをやめ、他者の中で生きてみることからはじめよ。これが民族誌のスローガンだ。他者が地獄なのではなく自己こそが監獄であり、国家の管理のまなざしを自分のカメラにすまわせない抵抗からはじめなければならない。僕らがアーティスト・イン・レジスタンスとしてはじめた「殺すな」のデモの写真がここにある。「殺すな」がそこに現われたことで、都市にぽっかり穴があき、はだけたその裾から都市のアーキテクチャの陰部がわずかにのぞき見えた。デモとは都市のアーキテクチャを裸にするデーモンストリップショーであったということがドキリと直感されてこよう。ゼロ次元のハレンチがそうであったように。殺すなとそれを見ている人々との間は引き裂かれ、そこに御獄(うたき)のような何もないすきまが現われた。みえない結界がそこにはられている。でも、「第三の人類」の現象がもし起こるとすれば、このゼロの空間で起きるはずだ。狂気と笑いのチャンネルはそこにある。ようやく平和ボケが解消されたというのに、今度はすぐに戦争だなんてとんでもない。だから「殺すな」はゆく。政治的無意味を決意して「殺すな」はゆく。岡本太郎は云った。「そこにこそ無意味性が、そして笑いがあるのである」。哄笑が街にやってくる。「殺すな」を笑え、そして都市のアーキテクチャを笑いのめせ。
(つづく)

1──2003年5月10日東京・渋谷での 「殺すな」デモンストレーションの風景 ©奥村Takeshi

1──2003年5月10日東京・渋谷での
「殺すな」デモンストレーションの風景
©奥村Takeshi

2──京都大学教養学部本館屋上での ゼロ次元のデモンストレーション(部分) 出典=『アサヒグラフ』1969年7月4日号 (朝日新聞社)

2──京都大学教養学部本館屋上での
ゼロ次元のデモンストレーション(部分)
出典=『アサヒグラフ』1969年7月4日号
(朝日新聞社)

>小田マサノリ(オダマサノリ)

1966年生
東京外語大学AA研特任研究員。アナーキスト人類学。

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特集=コンパクトシティ・スタディ