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「暗黒」から建築を建ち上げる | 日埜直彦
Building up the Architecture from "Dark" | Hino Naohiko
掲載『10+1』 No.31 (コンパクトシティ・スタディ) pp.18-19

建築を建築として見るようになった頃から、どうもロマネスクの建築というのが気になってしようがない。御多分に洩れず学生の頃ヨーロッパに行き近代建築など忙しく見て回ったが、そういう見方とは少し違う欲望に促されてロマネスクの修道院を巡り、各地の田舎をうろついた。そもそも出かける前の下調べをしている時点では、何の気なしに一つ二つは見てみようと思っていただけでそんなに時間を割くつもりはなかった。それが結局は旅程の半分近くを費やして不便な場所にある修道院を訪れることになってしまったのだ。当時感じていた魅力をコトバで説明すると、どうも嘘を言ってしまいそうな気がする。ひっそりとした石の質感、深く豊かな陰影と光、なんていう誰の言葉か知れないデタラメを口走ってしまいそうだし、今ここでロマネスクについて書き始めた理由はそういうことではない。それを一言で言うならば「シンパシー」だ。かすかで、ほとんど妄想にも近い、千年前の建築に対する共感である。

ロマネスクの建築は、その技術において、その構成において、かなりプリミティヴな成り立ちをしている。やみくもに頑丈に積み上げられた壁、そこに恐る恐る開けられた小さな窓、素朴な柱と律義に半円を描くアーチ、装飾的要素はけっして少なくないのだが、建築化された部分は限定的であり、ある意味では稚拙と言ってもよいだろう。内部に入ってざっと見ればその幾何学の導き方が読み取れる程度のグリッドからプランは決められていて、ルネサンスの崇高な明瞭さに対して言えば、それはただ単純で簡素である。断面方向についてもおおむね同じようなことが言えて、技術の素朴さが強いる不自由さが全体を規定している。
ローマ帝国の崩壊が引き起こした統治体制、社会構造、そして文化一般の秩序の崩壊が、ローマの誇った建築土木の伝統を失わせロマネスクの建築にこうした素朴さを強いたのだという。蛮族の侵入によってローマ帝国は分裂し、当時の農業生産力は人口に比して十分とは言い難い水準にあった。そうした社会の混迷において知的伝統を途切れつつも細々と伝えていたキリスト教教会がヨーロッパ全土に浸透していくなかで、ロマネスクの建築は各地に造られていく。社会の上部構造としての統治機構が崩壊したことによって建築技術のような下部構造までもが失われるものか、そう聞いてもどうも素直に納得できない部分もあるのだが、ローマの遺構とロマネスクの教会堂が並んでいるのを実際に見れば両者の間の断絶は明らかだ。ローマの壮大な建築の背後にある成熟した幾何学のコントロールとそれを裏打ちする建設技術。ロマネスクの建設に携わった人々もそれを横目に見ていたに違いない。スケール、構造的解決の巧みさ、そこに注ぎ込まれる圧倒的な物量と人的エネルギー、どう見ても比較できるものではない。どんな気持ちで彼らはそれらの遺構を見ていただろう。先人たちがなしえたことを、自分たちはどうあがいても実現できないのだ。けっして技術だけの問題ではない。今で言えば、建築設計の水準においても、ローマの伝統を喪失したところにロマネスクはある。
プレ・ロマネスク期には教会堂は納屋とほとんど建築的に区別がない。教会堂と納屋の違いは十字平面や屋根の構成によって示される単純な中心性によって示唆されるに過ぎなかった。そのような水準からロマネスクの建築家たちは建築を造り始め、平面と断面を相互に関連づけて立体的オブジェクトとしての建築を構想し、柱と梁の連続によって分節された空間性を意識し始める。宗派によって基本形が考案されてそれが各地の修道院で展開されるとともに、地方ごとの独特の性格が醸成され全体としてロマネスク様式と名指される建築が成立した。建築技術においても後にゴシック様式へと発展するリブ・ヴォールトの確立、多層化されたアーケードによる高さの追求、柱スパンの拡張などが達成されていく。
中世、ロマネスク期からゴシック期を「暗黒時代」と呼んだのは、ダンテとともにルネサンス=文芸復興の主導者であったペトラルカだが、宗教的ドグマを退けてフマニズム(人文主義)を掲げるペトラルカにとって、ロマネスクは確かに「暗黒」であったかもしれないが、建築家にとってロマネスクとは、建築が如何にして開始されるか、というひとつのケースとしてある。

そういうロマネスクにシンパシーを抱いている。ホラ話に聞こえるのを覚悟して言えば、ローマ的伝統の崩壊において建築を開始するロマネスクと、近代主義の崩壊において建築を開始するわれわれ、という類比において。言うまでもなく中世と現代をそのまま類比しようにも両者の背景は千年の歴史によって隔てられた、まるで異なるものだし、近代主義の崩壊と一口に言っても、具体的になにが崩壊したのか、が当然問題となる。しかしなにを拠り所として建築に取り組むか、その拠り所の喪失において敢えてこの隔絶を脇に置くとき、われわれの置かれた状況はいかなるものに見えてくるだろう。
以前、土居義岳氏を招いて行なった講演会で、土居氏は一九七〇年代を啓蒙主義の時代の終焉として考えられるのではないかと述べていた。一八世紀後半以来、建築家は社会的需要を満たすための解答を求められる職能としてあったのだが、このような啓蒙主義的な時代が七〇年代において終わったように思われる、というのが発言の主旨だが、こうした問題意識は建築分野に限らずまとまりを見せつつある六八年再考の動き、ポストモダン的論調の後退とその隙間に進出してきた社会学的言説の論調とも符合して、重要な問題設定であるように思われる。一九六八年ないし七〇年代において終焉したのが、近代主義なのか啓蒙主義なのか、あるいは戦後民主主義なのか、というのはさしあたりそれが提起される文脈に応じて問われるべき問題だろう。最も広義に考えればルネサンス以来の哲学・思想の人文主義的規範の連続性がそこで転回したと言うことも可能であり、建築分野に引き寄せて最も狭義に考えれば日本の近代建築史上の近代主義がそこで終焉したということになるだろう。いずれにしても批評家秀実が近著『革命的な、あまりに革命的な』で強調するように、六八年の運動は歴史的現実としてわれわれの現在を規定しており、むしろそれを隠蔽し意識の外に追いやろうとする事態をこそわれわれはあらためて検討しなければならない。
しかしながら論を進める前に、まずは読者の理解の前提として「六八年」というほとんど符牒めいた言葉について最低限の情報を提示しておかなければならないだろう。ここでいう六八年は特定の年号というよりも世界的に巻き起こった既存体制に対する異議申し立ての運動を指す。フランスではパリの五月革命、アメリカでは公民権運動とヴェトナム反戦デモがその文脈にある。日本においては特に、六〇年代後半から活動を開始し七〇年代前半にいわゆる内ゲバとともに自壊していった、全共闘ないしそこから直接、間接的に波及した運動を指す。米ソの冷戦、毛沢東と文化大革命、ヴェトナム戦争、大阪万博、三島由紀夫の割腹自殺等々、当時の世相の緊迫と混迷はきわめて特殊なものだが、その裏面では既存体制に対して具体的に抵抗し、時に鋭く批判的であるべきだという意識が確実に浸透していく。パリの五月革命はフランスの知識人にその事態をどう捉えるのかという問題を突き付け、その反応から生まれたのが一般にポストモダニズムと呼ばれているフランス現代思想だが、これがその後現在に至るまでの知識人の問題構成を事実上規定するフレームとなってきた。
そうした状況に平行して、建築においても既存の近代主義の現実に対して批判の声が高まり、新しい動きが生起してくる。国内では村松貞次郎らによる『日本近代建築史再考──虚構の崩壊』(一九七五)が、それまでの近代主義の建築を「人間不在の近代化」という虚構の構築であり、「大義名分論の支配」に堕したと明確に批判し、海外でもCIAM解体(一九五六)以降、近代主義への批判的検討が一般化し、『建築の解体』(一九七二)に磯崎新がまとめたような新しい傾向が同時多発的に登場してくる。ポストモダン建築と呼ばれる流れにそれらは接続していき、九〇年代中頃まである程度まとまりを持った動向としてあった。

近代建築はまさしく国際建築として主題化されていた。地域的多様性が強調される場合であっても、例えば技術において、あるいは問題解決の方法論においては近代建築を採用し、それに対して修正的に介入するであろう因子として地域性があったにすぎない。そうした地域性を近代建築に対する批判的契機として捉える意識もあったにせよ、事実として近代建築は全地球的に伝播しひとつの普遍的水準として実施された。しかしもはや建築を構想する際の拠り所として近代主義が承認されることはありえないだろう。啓蒙主義であれ、近代主義であれ、それらは六八年に象徴されるあの時期に決定的に崩壊した。が言うように「六八年が今なお持続する世界革命であるとは、それが圧倒的な「勝利」以外の何ものでもないということなのだ。六八年への批判が必要だとすれば、それはなによりもその勝利を「挫折」と見なさせてしまう歴史的な光学に対してであり、その今日的な帰趨なのである」。それに対して言えばポストモダン建築とその後の建築の展開などはマイナーな問題であるように思われる。われわれはいまだに近代主義の崩壊というパースペクティヴにおいて、近代主義の乗り越えに向けた糸口を探している段階だろう。近代主義が近代的人間の像と対応してあったように、ポストモダニズムも対応した主体の像を備えていた。したがって近代建築が近代的人間のための建築であったように、ポストモダン建築は近代以降の主体のための建築としてあるはずだろう。実際にそうした問題設定がなかったわけではない。しかしながらポストモダン建築は歴史折衷主義のような造形論理として一般に理解され、また現実にそうした傾向の建築が多く建てられもした。裏打ちする理念を欠いた造形論理は消費されつくし、現在の日本ではむしろそれに対する反動としての擬近代主義(?)が主流であるようにすら思える。しかし造形論理としてのポストモダン自体が言ってみればどこかズレてしまった問題設定であったとするならば、そうした反動もまた同様にズレた問題設定であるように思われる。
ともかく、近代主義の崩壊という事態を現実として、建築を構想するにあたり信頼するにたる拠り所を喪失している状況を直視しなければならない。それがローマ帝国崩壊という現実に直面し、建築をあらためて建ち上げていくロマネスクの建築家たちに対する私のシンパシーに繋がる。失われた拠り所は、彼らとわれわれのどちらが大きいであろうか。そして彼らが建築的統辞法を少しずつ組み立てていった道程に比すべきプロセスをわれわれは辿るのだろうか。さまざまな模索が行なわれている状況を横目に見つつ、六八年以降の思想の動向と建築の議論をおおまかな視野として、次回以降考えていきたい。

フォントネイ修道院(1139-1147) 筆者撮影

フォントネイ修道院(1139-1147)
筆者撮影

補足
語の混乱を避けるため、この連載における用語法を整理しておく。近代思想としてのモダニズムを〈近代主義〉、モダニズムの建築を〈近代建築〉、いわゆる現代思想を〈ポストモダニズム〉、八〇年代を中心に隆盛したアイゼンマンらに代表される建築を〈ポストモダン建築〉と呼ぶことにする。それ以外の呼称、例えば〈現代建築〉といった呼称を用いる場合は、以上のような呼称によって包含しきれない対象を指すものとする。

>日埜直彦(ヒノ・ナオヒコ)

1971年生
日埜建築設計事務所主宰。建築家。

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建築史。九州大学 芸術工学研究院 デザインストラテジー部門 教授。

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1931年 -
建築家。磯崎新アトリエ主宰。