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批評の無重力に抗して──『怨恨のユートピア──宮内康の居る場所』 | 大島哲蔵
Against the Zero-Gravity of Criticism: Enkon no ûtopia: Miyauchi Kô no iru basyo | Oshima Tetsuzo
掲載『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) pp.44-45

宮内康(一九三七─九二)は批評家、建築家、教育者として精力的に活動し、六〇年代末から七〇年代の言説活動を中心に根強い支持を得ている。六二年に東大建築学科を卒業して同大学院に進んでいるから、いわゆる第一次安保闘争の世代に属するが、「全共闘運動の鮮烈さに比べれば、あの六〇年安保闘争も、私にとってはいささか影が薄い」(三〇九頁)と語るように、彼は三〇歳になってから自己認識と社会意識が切り結ぶ実感を得た。この本に収録された論考(主要なものが網羅されている)もこの時期に書き始められた。宮内は六九年に始まった理科大闘争──「専任講師」として勤めていた──で、いわゆる「造反教官」の立場に立ったため、七一年に大学当局から免職を通告され、以後七四年まで苦しい裁判闘争を続ける(勝訴したが、控訴され「和解」という苦渋の選択を強いられた)。そうすると、いわゆるニューレフトの原則的立場から反動化する建築情況を「ラジカルに」切り捨てる痛快な内容かというと、そうでもない。設計にも手を染める個人事務所の主宰者(「骨の髄までプチブルである建築家」と彼自身が規定している[九七頁])として、それでも「権力の意志の表現としての『建築』ではなく、民衆の意志の表現としての建築があるとしたら」(一八頁)と問いかけ、はっきりと後者の立場に立つと言い切る。その口調が歯切れのよいものであればある程、本人の実践活動は矛盾と苦悩に満ちたものとならざるをえない。
この本に収録された言説は、建築誌に発表された論考の集成、つまり『怨恨のユートピア』(一九七一)に含まれていたものと、『風景を撃て──大学一九七〇─七五』(一九七六)に収録された免職の白紙撤回を求める裁判闘争の記録(陳述書を含む)を合わせて、新たに「建築ゆうとぴあ(後期論集)」の章に集められた論考をフィルアップしている。この間に建築議論の焦点は「モダニズム批判」から「ポストモダンの登場」という決定的な岐路にさしかかっていた。

『怨恨のユートピア── 宮内康の居る場所』 (『怨恨のユートピア』刊行委員会編、 れんが書房新社、2000)

『怨恨のユートピア──
宮内康の居る場所』
(『怨恨のユートピア』刊行委員会編、
れんが書房新社、2000)

裁判闘争のドキュメントについては、同氏の基本的な主張、当局への反論(事実経過)、それに自身の主宰する設計事務所の運営状態(なぜなら専任教官は大学の業務規定と建築士法によると設計業務を行なってはならない建前になっている)などが毅然とした態度で記述されている。読んでいて面白いところは限られるが、この人がリアルな認識と正確な判断で司直とやりあったことが知れる。提出書面ではむろん大学当局の方針、姿勢、組織体制、価値観までが厳しく批判されるが、それにもまして印象的なのは、彼が最も欺瞞的だと弾劾しているのが他ならぬ一般教官である事実だ。大学当局が反動的なのは不可避の生理現象だとして、自身の位置と根拠について反省し抜かねばならない教員が当局の走狗となって暗躍する事態こそが、彼にとっては耐え難いことなのだった。彼は何も性急に「大学解体」を求めたのではなく、教える側の無責任と無自覚という倫理観の欠如を告発したのだった。初め奇異に思われた「一年間だけ復職して、その後自主的に退職する」という和解条件の裏には、「こういう人達と一緒に教えることはできない」とする絶望的な認識があった。受講する学生が減るなかで、当局がブロックで封鎖して「塗り込めてしまった」研究室の代わりに、空いている教室や「廊下を一部ロッカー等で軽く区画し」(三一七頁)授業を再開しようと試みた宮内の心情は察するに余りある。
彼は建築家としての大学批判を、校舎(風景)やキャンパス(計画)に対する違和感の表明から始めている。「理大野田校舎は(…中略…)見るものに、あの場ちがいな情景に出会った時に生じる気恥しさを与える(…中略…)それはまさに異物であるが、自らが異物であることに金輪際気が付かない厚顔無恥な異物なのだ(…中略…)それ(キャンパス:筆者註)は、画一的、無機的、非精神的であり、少なくとも人間と人間の出会いの場であろうとする大学の場ではない」(一七四頁)これは残念ながら今も現実──本質はそのままに、かえってカモフラージュされている──で、学生はまず最初に無力感と不信感を教えられる。だが宮内の観察は学生にも及ぶ。「彼等は無表情であるという意味では共通の表情を持っており(…中略…)講義の中で、それでも時折自らの真実の一端を披瀝し学生への接近をはかるが、学生の固い表情によって、ものの見事に裏切られる」(一七五頁)。ここまで事情をクールに観察しておきながら、学生のストライキによって「もしかすれば、全く新しい両者の関係をつくり出すかも知れない可能性をもった、動的な関係」(一七六頁)が引き出せるかも知れない──との期待感を表明する。もちろん彼にも、その結末がどうなるかは予見済みなのだが、そのプロセス──彼を理解する鍵語である──のもつ意味を重視し、「管理者」としてではなく学生を覚醒させようとする。こうした教師を当局が見過ごすはずはあるまい。
そこで肝腎の論考である。彼は磯崎新氏や原広司氏と交友があり(後者は高校の一年先輩で、彼の主宰するRAS設計同人に三年間所属した)、その当時のテーマや関心に対して共通した問題意識をもっていたが、それに対して左寄りの視点から切り込んでいった。洞察力に満ちた評言も共感を誘うが、彼の特徴は逃げをうたないところにある。批評する建築家の最大の特徴は、自作という説得性が論述を暗黙裏に傍証することだが、それは同時に弱点でもある。紙上できっぱりと表明した立場が、自身の行動と設計にそのままはねかえってくる。したがって建築家の所論はあらかじめ曖昧化されるか、読者が割り引いて受け取る慣習になっている。しかし彼は言行一致を本気で追求する傾向にあり、もしくはその不一致に良心の呵責を感じる人だった。それどころか彼は、「建築」が虚飾によって人々の眼を裏切り、技術を駆使して重力を手なずけ、何もないところに伽藍を幻視させることに反発さえ感じていたように見える。
この時期、階級闘争の立場が招来する規範性(原則論)──「われわれの描き得る唯一の未来の都市が、資本主義的都市の廃墟である」(一四一頁)──と、批評的直感に由来するレトリカルな構え──「現代の建築は、すべてイロニーとなる」(四八頁)──を折り合わせることは見掛けほど容易い作業ではなかった。まして彼の場合、かつて曲がりなりにも空間の革命を標傍した近代建築の疎外態(国際様式)に対して乗り超えを図るという、いささか込み入った構図に依っていた。結果的に彼は、この実体の掴みにくいせめぎ合いを換骨奪胎した「建築の解体」劇(スクリプトライターは磯崎である)のバイプレイヤーとして機能してしまった。「アジテーションとしての建築」を求めた彼だが、メタファーとして語られた「解体」を額面どおりに受け取り、矢面に立って消耗したのは彼自身だった。この当時、モダニズムの資料編纂や分析はまだ本格化していなかった(こうした問題を考えるうえで格好の書と思われる『モダニズムの建築』[向井正也著、ナカニシヤ出版]が刊行されたのは八三年である)。次に宮内が初めてヨーロッパに出掛けたのも七八年になってからで、モダニズムの仮面をかぶった(不滅の)官僚的リアリズム──以前は古典主義の仮面を愛用していた──に直面して批判力が空転してしまった。後にそのことに気付いた彼は「反モダニズムとしてのポスト・モダニズムよりも、モダニズムのもっていた潜在的な可能性の方に関心をもっている」(三九八頁)──九三年に発表された文章──と書くことになる。
こうした経緯のなかで、八〇年代に入ると、彼はあまり論文を発表しなくなる。「この文章(『風景を撃て』:筆者註)以後、私にとって少なくとも『建築』について語ることは何もなくなり、そうして建築ジャーナリズムから私は遠ざかっていった」(四四九頁)──八三年三月に発表された文章──と自身はコメントしている。傷心の宮内康という感じだが、この時期、設計活動は活発だったし、情熱を傾けた《山谷会館》の話が舞い込んだのも八八年になってからである。自身の尽力の対象を「建築」ではなく建造物に絞りたいとの考えは当初からあったが、言語ではなくものの論理で押していこうと考えていた。こうして白井晟一の「建築」を高く評価する(評価してしまう)彼は「白井晟一の奇怪で不気味な物質の塊りは近代の技術やシステムに対する肉の告発である」(一二〇頁、傍点筆者)として、白井をアンチモダンの旗手と位置づける。ところがモダニズムこそ即物性を目指したわけだし、白井の強い物質感の背後には強烈な「観念」が先行していたはずで、物質と観念を切り離すことなど所詮ナンセンスである。一方で宮内の残した作品を参照すると、確かに淡々と設計されていて過剰な思い入れやこねくり回した跡は見られない。後期の《数理技研竜王社屋》(一九八九)など何か独特の趣味が感じられなくもない。しかしもの自身に語らせようとする姿勢はそれらには見当らず、彼はもの派ではなく施主の思いと同化し、身を挺して事に当たる「実感派」とも言うべき体質の人だった(したがって彼の建築の美質はなかなか伝わりにくい)。
結論的に評者としては、この少し高価な本をやはり推薦したいと思う。時代の強いる規定性(これは今も形を変えて存在する)にまんまと捕捉され、言語で建築を論じることの限界にまで拉致された人の言い分にこそ耳を傾けねばならない。イデオロギーは甘いが言語感覚は鋭い宮内康のパトスとロゴスの質(方向ではなく)を私たちは信頼することができる。ただ彼の繰り出す言葉の背景(言説作用の政治的含意)が、今の若い世代にどれだけ判別可能かとなると不安がある。確かにもう少しクレバーな建築観というものがあるのだし、磯崎に序文を依頼する(編集サイドの)呑気さもアホラシイが、それが彼の仕事の価値を減じるわけではないと思う。

『風景を撃て──大学1970─75』 (相模書房、1976)

『風景を撃て──大学1970─75』
(相模書房、1976)

>大島哲蔵(オオシマ・テツゾウ)

1948年生
スクウォッター(建築情報)主宰。批評家。

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特集=建築2001──40のナビゲーション

>ポストモダン

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>磯崎新(イソザキ・アラタ)

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1936年 -
建築家。原広司+アトリエファイ建築研究所主宰。