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タイポロジー──アルド・ロッシからドナルド・ジャッドまで | 大島哲蔵
Typology: From Aldo Lossi to Donald Judd | Oshima Tetsuzo
掲載『10+1』 No.29 (新・東京の地誌学 都市を発見するために) pp.181-191

記憶に棲むオブジェ

今日はタイポロジーをめぐって、アルド・ロッシからドナルド・ジャッドまでお話する予定です。まずはオーソドックスな話から始めましょう。

私はかつて、イタリアの建築家、アルド・ロッシの主著である『都市の建築』(福田晴虔+大島哲蔵共訳、大龍堂、一九九一)の翻訳をやりました。七〇年代当時、彼は非常に人気があったにもかかわらず翻訳がでていなかったんですね。ロッシは若い世代にとても支持されていました。
この本の表紙中央の絵はローマのサンタンジェロ城の平面プランです。ピラネージもよくスケッチした、ものすごく分厚い石で固められた外壁の中を螺旋状に上がっていく建物です。ロッシはいつも三角形をうまく使うので表紙デザインに取り入れました。
この本の中の三一ページをプリントでお渡ししてあります。タイポロジーを日本語に訳すと「類型学」ですね。ロッシの言う類型学の問題に「都市的創成物」という語が登場します。これは原著では「artifact(アーティファクト)」というのですが、この訳語には少々頭を悩まされました。
「アーティファクト」とは日本語に訳すと「人工品」といったところでしょうか(私はこの語に「人巧物」という訳語を考えたのですが、気が弱くておしきられてしまいました)。民芸品などもこれに当たります。丹念に手を動かして作ったものをさすのでしょう。ではロッシがこの語で何を考えていたかというと、彼は集団の記憶ということを言うわけです。例えばイタリアの町中を歩くと中心に必ず聖堂などが建っており、ヴェネツィアの海には浮標が差し込まれています。これらはある特殊なイメージを町の人々に与え、深層心理の中に組み込まれていきます。共有された記憶の中に住み着くようなオブジェクト、そういうものを彼はアーティファクトと呼んだのです。そこからデザインをやっていこうというのが彼のひとつの戦略です。

そのページの一番最後に、類型とは「原初的類型である。また、神殿やもっと複雑な建物でも同じことだ」とありますが、彼の考え方がストレートに表わされています。

ロッシの有名な作品にヴェネツィア・ビエンナーレに出品した《世界劇場》[図1]があります。ヴェネツィアの石造の建築が建たない場所に、苦肉の策ではしけのような海に浮かぶ木造建築の劇場を作ったのです。夕焼けでドームがシルエットに還元されるようなイメージを、自分の作品で再生させたものです。

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歴史と超歴史性=タイポロジーとは何か?

一般に用いられるタイポロジーは、ムラトーリという学者が主として展開した、都市平面図解析などでよく使われる方法です。例えば住居のタイプであるドムスタイプという一戸建てのようなものがあります。それから入り組んだ住居がカッティングされているインスラタイプ、こういった現象的なタイプがあります。
また聖堂でも、例えばギリシアの十字型というのが元々はバシリカの基本形であったわけです。これが十字型の下方が伸びていき、さらに縦に三つに分割され、回廊が身廊と側廊に分かれていったりします。正方形平面に十字型の動線を描いて中央にドームが載るようなものも登場します。このように、いろんなタイプに分離・形成されてゆくわけです。
こういったものは歴史の中から抽出されてくるから、当然、タイプとは歴史そのものだと考えるのが普通です。しかし僕の考えではそうじゃない。歴史の中でこういったものが浮かび上がってくるのは事実ではあります。けれど、あるパターン、A、B……を、歴史上繰り返し現われる普遍的なものであると見る限り、それは超歴史=歴史否定だというふうに考えた方がいいんじゃないでしょうか。歴史とは無関係に、例えば田の字型のプランが突発的に東京の郊外に使われるということもあるわけです。自 覚 的スポンテイニアスにやったものの中に当然非自覚的なものが浮かび上がってくることもあります。しかし何が意識的なのかということは掘り下げていくと実は決め手がないのです。
要するに、類型、タイプはある歴史段階に固有の定型の言語として常に歴史を背負いながら再生されるものではなく、逆に歴史が付与する意味みたいなものを振り払いながら、ある一定の別の文脈の中ですっと出てくる。だからこそタイポロジーというものが、ある種の面白さと、超歴史性を持ったひとつの方法なんじゃないかと言える部分があると思います。
もちろんムラトーリの都市の解釈の方法は非常に重要であり、敬意を表して勉強しなければいけないものですが、必ずしも正しくない。もちろん僕が言っていることも必ずしも正しくない(笑)。
「(タイポロジーは)一つの論理的な公式として形態に先行し、且つそれを形作るものであると考えたい」とロッシは言っています。類型の概念が建築の基礎だと、こういうことまでロッシは言うわけです。
ロッシが影響を受けた啓蒙主義者クァトルメール・ド・カンシィも類型について触れ、モデルとタイプはどこが違うんだということを言っています。人間のモデルのこと、またはトルソみたいなものを考えてもらってもいいのですが、モデルは実際の生産のために要請されるものであり、それをそのままの形で再現すべき対象である。モデルというのは模範なのだから、それを変えちゃいけない。ひとつの定型のようなものを、まずいったん何はともあれ自分の内側に入れるというのがモデルの考え方だと言うわけです。つまり、モデルの場合は限りなくそれに向かって何かをやっていく訳だから、当然ある理想的なものに対して似通っていかなくてはいけない。
他方類型は発散していく、ある種の自由度みたいなものがある。当然A、B、Cがつくった作品は全部違ってくる。アナリシスとアナロジーで考えれば、アナリシスは分析してこうなればこうなる、と強く結びつけられているものです。アナロジーというのは類比、類推。ロッシにとってはタイプ、アナロジーが非常に大きな方法になるのです。
ですから、ロッシの考える「類推的都市」は、現実の都市とは違うサーヴェイの中、記憶の中、アーティファクトの関係の中で再構成され、そこに自分のつくった建築が関わっていくのだという考え方に基づいています。彼の言葉を少し追ってみます。

そこで避けがたいことであるのが人類のあらゆる創意を応用するということなのである。


自分自身が何か特別なことをやっていたようでも、実はすべて分析可能である。君はこういう風に思ったからこうなったんだ、となってしまう。一番最初のところにはブラックボックスがあるのではなくて、さまざまな既定の辞書のようなものに載っかっている。僕も今しゃべっていて辞書にないような言葉をぱっと言いたいわけですがなかなか言えないんですね。

かくて我々が悟るのは、すべてのものが、後代のあまたの改変にもかかわらず、常に明確に、感覚に対しても理性に対しても同様に明白に、その基本的原理を保持してきているということだ。


君たちはまったくの自由にはいない。建築にしろ絵画にしろ彫刻にしろさまざまな法則のひとつの場にすぎない。

こちらはミラーノのポルタ・ティチネーゼなんですが[図2]、テラーニの建物のある地方、城楼近くの下町の写真です。この地方に発達した、あまり裕福でない人たちのための、バルコニーがずーっと回廊で結ばれているタイプの住居があります。彼はこうしたものに異常な関心を示すわけです。
ロッシの初期の作品である《ガララテーゼ》という味も素っ気もない集合住宅はまさにこういったイメージと重なっている。キリコの絵のような寂しい風景ですが、めくら窓の使い方がすごくうまいと思います。

論理学用語を用いるなら、その何ものかとは、一個の定数であると言うことができる。


ここでは定数という言葉が出てきます。「建築的創成物」はひとつの構造体であって、その中に当の構造を実現し、またそれが認識されるようなものです。それは、類型の要素に繰り返しでてくる方程式の定数なんだということですね。それはさらに文化の要素でもある、そうであるが故に多様な建築的創成物の中に探し求めうるのだ、と断言している訳なんです。

私の持論は、集合住宅の類型は古代から現代に至るまで全く変わることがなかったのではないかということが……。


僕もポンペイの住宅に行ったときに、小さい長屋の一室を見ました。行った方は分かると思いますが大体一室です。今のワンルームタイプと全く同じで、僕が名古屋で最初住んでいた最小限のタイプのものと大体同じ広さです。だから本当に歴史が始まって以来、貧乏なかつかつの学生だとかそういう人間が住むところは決まっているんです(笑)。

……集合住宅というのは昔も今も変わらぬ都市住宅の図式であり、そのことを分析してみようというのだ。廊下でもって部屋を区切るというものも一つの必然的図式だが、しかし何と多様な相違が同じ時代の家々に、それもこの類型に基づくそれら同士のなかに、認められることであろうか。


とロッシは言っています。ですから類型というのは縛るものであると同時に、構造的、弁証法的に変化し、異なるパターンをどんどん生み出していく、動的な存在というふうに見たほうがいい。

つまるところ、類型というのは、建築の理念そのものだと言える。すなわち、建築の本質により近いところにあるものなのだ。しかもそれはいかに姿を変えたとしても、常に根ざすところは「感性と理性」(論理とか歴史的必然性とかいうのではなくて)であって、建築や都市の論がそうであるのと同断である。


ロッシはこのように結論しています。

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建築の「プログラム=タイポロジーの想定」の発生

今度は図版で若干の説明を試みたいと思います。配りました資料を見ていただきますと、ピラネージの作品があります[図3]。ローマ時代の建物をエッチングで表現したものです。ルイス・カーンが、ピラネージが想像的に復元したローマの町「カンポ・マルツィオ」のイメージを自分の設計所に貼り出していたという有名な話があります。
ピラネージは実際にアマチュアの考古学者でして、平面プランを自分なりにサーヴェイしました。こういった平面プランの、ひとつのモチーフと別のモチーフの間をどうつなげるかという、非常に困難な仕事をこれだけ迫力をもってした人はほかにいないんじゃないかと思います。この大きい金魚をつぶしたような平面図はいったい何なんだといった感じですが、いろんな人に影響を与えていて、ル・コルビュジエもモスクワのソビエト宮のコンペの時に採用したと思うんです。
ポリテクニコ(共同技術学校)の初代教授に就任したデュランによって、病院と刑務所が同じスケールで比較研究されています。こういったことが、この時代から非常に盛んになってきます。いろんな建物がサーヴェイできるようになり、資料が類似してくるわけです。それを描き分けてタイポロジカルに比較検討していく。そこから建築のプログラムという考え方が出てくる。彼らは、こうした方法が科学的で合理的であると強く思っていたわけでしょう。

それから次の図は、デュランがとんでもない人だと考えられているサンピエトロ寺院の調整案です[図4]。一番左のプランはベルニーニがやったものです。この広場です。本体はマデルナという設計家によるものですが、この辺のファサードはミケランジェロがやっています。デュランはこれを、無駄が多い、こういう設計をしちゃいかんと言うわけです。これによって彼は悪名高い機能主義の先駆者と見なされてもいます。下の方のプランは、ある設計プロセスの解説です。
一説によるとデュランはグリッド上にプランを乗せた最初の人間じゃないかと言われていますが、そうすることで、すべての寸法があるコントロールされた定量的な存在に置き換えられていく。彼によれば、アクティヴィティが見えているのは物質の表面なんだけれども、空間が重要で、ボザールの連中は、柱頭をいかにきれいにエレガントに仕上げるかとか壁と柱の収まりをどう関係づけるかとかやっているが、それはナンセンスなんだと彼は言うわけです。

次が、ウィーンの工科大学の教授をやっているロブ・クリエという作家の作品です[図5]。自分である空間タイポロジーを想定してそれを絵に落としていったものです。ですが、僕にいわせればどうもこのやり方は理論的ではなく、全然面白くない。ある種のヴァリエーションを作っているだけに思える。
それからロシア構成主義の体系を使って、建築のプランをタイポロジカルに変奏していくという方法を使った人がいます。パリの《ラ・ヴィレット公園》をデザインしたベルナール・チュミです。
 《ラ・ヴィレット公園》はブローニュの森が一九世紀の人間から二〇世紀への贈り物であるように、二〇世紀の後期工業化時代の人間も二一世紀の人に対して何か贈り物をしなきゃいけないという考えをもとに、旧市場を再開発して作ったのです。フォリーというコンセプトと、ロシア構成主義のタイポロジカルな駒の配置、ちょうどチェス盤の上にキングとかナイトが動いていくようなイメージで配置をする、そのコンセプトにはわれわれは感動したのですが……。赤のパヴィリオンと芝生がうまくのっかってはいるんですが、なんか違う感じがする。
ジョン・ソーンは《イングランド銀行》を設計中に廃墟図を描いています。これは安易な着想で、ある種のタイポロジーが平面的に羅列されているだけだと考えることもできるし、廃墟になるということは断面模型、あるいはアイソメトリックのような空間が目の前に実現するわけだから、完成された建物よりもより空間の構造だとか、また考古学的なあるプロセスのようなものが立ち現われてくる、非常に興味深い存在であるとも言うことができる。

これがローマ郊外のティポリにあるハドリアヌス帝のヴィラです。ハドリアヌス帝はローマのもっとも栄えた時代の皇帝で、遠征から帰ってくるとエジプトで見たお気に入りの建築の空間を再現したので、いろいろな建物の類型がローマの郊外にできあがる。ピラネージがドローイングをたくさん描いていますから、これは例のサンタンジェロ城なんだと思って見ると、一つひとつが違った意味を持って見えてくると思います。

これもハドリアヌス帝のヴィラの中のひとつですが、なかなか特徴的なモチーフで想像力を刺激するものです。古い建物というのは非常にタイポロジカルにできている。開口部の扱いやレンガの積み上げた形。勘のいい人はカーンがこういう類型を上手に使っていることを思い出すでしょう。

墓地の建築、建物として墓地は死者の家である。家と墓のタイポロジーは別のものではない。家と墓というのは同じである。


これを読んでいただくとロッシがどんな気持ちでモデナの《サン・カタルドの墓地》を設計したかがおわかりいただけるでしょう[図6]。
キリスト教では魚がひとつのイコンで、魚を食べた後に残る骨組みを念頭に置いて、この墓地の配置を考えているのがなかなか面白いと思います。実際に骨の部分にカプセル式のお墓が、しっぽのところに円柱が配置されています。頭の部分に四角いヴォリュームが立ち上がって、ここにもカプセル式のお墓が収納されるようになっている。円柱の部分は生前恵まれなかった人たち、行き倒れになった人、病没した人、戦争で死んだ人などのためにあり、そういった人たちこそこの特別な場所に葬られる権利があるんだ、と彼は言っています。

ですから僕は思うんですけれど、どうも類型学というのは、学者が考えているようなものではない。彼らはひとつの緻密な発展過程をみようとします。例えば何年の何聖堂はこうで、その後どのような聖堂がつくられていくか、を考えるのは普通だと思うんです。けれどもどうもそう考えるよりは、ある種の抽象的な展開性みたいなものを秘めた中にむしろタイポロジーの本質を見た方がいいんじゃないか、というのが僕のひとつの考えです。

じっくりとお読みいただくと、どうもロッシという人間は、デザインが上手だとかいうことよりも、墓地の例で見たように、ある種単純ともいえる理念の中で意味深い建築的な構成を引き出したのではないか、と考えられるかもしれません。でもむしろ僕はタイポロジーという方法を考えた場合、こうした形である種の飛躍とある種の論理的な断裂を伴って空間を作り上げていったほうがうまくいくのではないかなと思います。七〇年代のポストモダンの時代にモダニズム批判の方法としてタイポロジーが重要だった、ということも納得がいくことだと思います。

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ミニマリズム──ドナルド・ジャッドについて

第二次大戦後、アメリカのアート界で主流となった抽象表現主義の作家の多くが、大戦中に海外から亡命してきました。彼らとは別にネイティヴの作家たちは世界に通用する作品を次々と発表していきました。その後六〇年代のミニマリズムは、文字通り世界のアート界をリードする存在になり、そうしたアメリカ美術界の動向に対しての巻き返しが、フランスのポンピドゥー・センター竣工だったといっても過言ではないでしょう。

ミニマリズムの代表的な作家であるドナルド・ジャッドは変わった人で、自分の作品だけでなく、ほかの作家の気に入った作品をコレクションし、それらを置くスペースとして一九六八年にマンハッタンのこのビルを買いました[図7]。ジャッドは、建物は以前どうなっていたのかを調べて巧みに自分の新しいニーズとうまくつきあわせ、復元的にリコンストラクションしていくべきだと考えた人です。

これがそのビルの一階です[図8]。収集している骨董品のようなライティングデスクを、外から見える位置にガシッと置いています。外から見ても何となく嫌みなスペースですね(笑)。こちらが彼の作品、金属製の四角い箱のようなものがポコポコポコッと置いてあるだけのものです。床は使っており、細い板が張ってあります。

たぶんこれは二階です[図9]。同じようなライティングデスクの作品があります。彼は建築の設計もし、家具もつくっていきます。そのスタディのために家具を置いて自分でも使いながら、その使い勝手、出来具合、オブジェとしての力のようなものを推し量っていたんじゃないでしょうか。
よく知られたこの作品は単なる箱でして、向こう側が開口している。外皮が透けた箱のようなヴォリュームです。そして作品と周りの空間、例えば六分割された窓のプロポーションとの対比などによってここの空間性が決定されていく。

次は三階です[図10]。彼がここで強調しているのは床と天井が同じ素材であるということ。彼の頭の中では天井と床が逆転できる、それに伴って開口も逆転できるのです。

ここにあるのはたぶんリートフェルトのレッドチェアです。こちらは自分で設計したものなんじゃないかな[図11]。自分がいいと思う家具とはどういう存在なのかという問題意識をもち、鉢やワインの栓抜きとかを注意深く配置しています。

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イリュージョン──アーティファクトの排斥

これは一番上にあるダン・フレイヴィンの作品です。こんな風に四角くあって窓があり、互いに映り込み合って複雑なシークエンスが生まれている。
ウィレム・デ・クーニングあるいはジャクソン・ポロックの絵画には確固とした理論があります。絵画は絵具の厚みは別として物質的には二次元なのに三次元=イリュージョンを表現しようとする。ルネッサンスあるいはそれ以前から画面の内部に奥行きを感じ取るようなさまざまな方法を試みてきたわけです。ところがジャッドはイリュージョンを排する。四角い箱などはふつう彫刻と説明されますが、彼自身は彫刻じゃない、絵画からきているから台座がないんだと言い、絵画も同様です。そこでは物質のマテリアリティそのものを感じなければならない。そこに何が描かれているかよりも、絵画を支持するもの、キャンバスが見えてくる。
さらに、ポロックの作品は入念にコントロールされた、非常に高度な技術で描かれ、デ・クーニングの作品も丹念な塗り絵のようなのですが、それらのやり方をジャッドは否定するわけです。ロッシについての説明で「アーティファクト」と言いましたが、彼はアーティストが手を使って入念に技術的に何か作るということは終わった、抽象表現主義を乗り越えていこう、そう考えているわけです。ですから彼は直接手を下さずに発注している。図面を書いて、最初に発注したところがだめなときは、より技術の高いところに発注しています。そういうことをやって、表現主義的なテクスチャーが絶対出ないようにする。そしてそこから彼の作品はインダストリアライズされた生産様式の象徴であって、それ以前の手工芸品的なマニファクチュアリズムのアートとは全く次元が違うんだというロジックが展開していく。

ジャッドの発展性

ところがそんなこと言いながら、メキシコの職人を使って日干し煉瓦を積むというコンセプトも同時に展開する、それは矛盾ではなく面白さだと思うのです。彼はさまざまな手段を用いて、独特の作品を発展させたわけですが、同時に変な余裕を持っているんですね(笑)。

彼は一時ニューヨークで成功しましたが、クレイジーなニューヨークのアート界には長居できないといって、それを放棄するようにテキサス州マーファに行ってしまいました[図12]。私はロサンゼルスから車を借りて行きましたが、アクセル踏みっぱなしで向こうから三〇分に一度車が来ればいい方という、延々なにもない道です。

これはマーファの町に入ると見える納屋のような建物です[図13]。ジャッドはスパルタン(スパルタ的な)、簡素なという言葉を使っていますが、ロッシを思わせるような窓、こういった物を彼は非常に高く評価します。意識的に作られたものではないと思いますけど、マレーヴィチの絵ではないのかとさえ思われます。

ここはマンサナ・チナティというところです[図14]。ジャッドがこの灰塚の小学校みたいなところを買い取って作った建物です。実は地面の外側から勾配がちょっと違っていて、ここに水がたまります。そのとき斜めに線ができるので、内側にも傾いた、つまり地面に沿った壁を配しています。外側には鉛直線、水平線で形成された壁があります。この壁は昔の技術、日干し煉瓦でできていまして、わざわざメキシコから労働者を呼び寄せて仕上げています。修復なんだ、新しい建物じゃないんだ、という理念がここに表われています。

彼はマーファに移ってから、次々にスポットを買い占めていきました。これらは今の建物の対面にあります。ジャッドの特徴的な家具模型が二つ見えます[図15]。こうしてショールームにしているんですね。

これはスイス・バーゼル駅をスーパーバイズしたときの模型です[図16]。ヘルツォークのような二重化された建物を彼が作っているのが印象的です。テキサスでの制作と同時にスイスの駅舎を設計するところにも面白さがあります。テキサスの片田舎でこの模型が展示されています。

これらの椅子はちょっとデ・スティルに似ているけど、座るとガシャンといきそう[図17]。

これはマーファのパブリック・ライブラリですね[図18]。何となくサンタフェとかにあるような厚塗りの壁を思わせます。

このファサードの向こう側には[図19]、昔綿織物を積み出していたような倉庫があって、ジャッドはそれを入手し手を加えています。これは通称「偽りのファサード」と言われているもので、二棟に対して一つの壁を作り、道に対しては別の顔を作るという、西部の町ではよくあるパターンです。

窓も、変な位置に非常に大きなものがくる[図20]。こちら側に傾斜がありますが、線路から荷物を上げ下ろしするのにちょうどいい大きさなんでしょう。壁の上端の処理も面白いですね。

この開口部の向こう側に線路があります[図21]。ここで面白いのは全く同じ位置に同様の窓が対置させてあることです。彼はトンネルのような、チューブ状のものが建物の中を通っていると捉えていて、ある種アートをやる人特有な意識だと思います。それが故に当然プロポーションは同じでなければならないのです。ヴィスタが開けると同時に、ここから内部の外部化みたいなことが起こっている。

バーベキュー用の台がコンクリートの作品のように見えます。ジャッドがデザインしたテーブルだそうです。

これが内部ですね[図22]。構造用のコンクリートが見えます。この上に丈夫な板が差し渡してあったわけです。内部にはアクティヴィティがあるので、こういうところの椅子やリヴィング的な空間が必要ですから、間を薄く埋めているわけです。普通だったら反対側のこっちもやっちゃうんですが、彼は賢い人でそうはしていません。非常に印象に残るモチーフです。

これは大砲の格納庫です[図23]。四角い壁が元々あった部分で、上のヴォールトをジャッドが設計しました。この壁の高さとヴォールトの高さがちょうど同じです。細長い建物にこの屋根が載ることによって非常に強烈な蒲鉾型ができるわけですが、実は横から見ますと、側面には彼が新しく作り上げたたくさんの開口部が連続している[図24]。そのため正面から受ける一見マッシヴな印象が、実はスカスカな横軸として読めます。そこに彼の一〇〇点のアルミニウムの箱が置かれている[図25]。箱は形も並びも全部がちょっとずつ違っています。これらをパーマネントに展示しており、そのために彼が建築を作っているんです。
ここでは作品のヴォリュームと開口は明らかに関係づけられている[図26]。彼がこの建物で一番苦労したのは、大きい開口です。敢えて簡単で安定する九分割にはせず、外側から見たスケール、内側の建物のスケールを検討したあげくに、技術的に難しい四分割の窓縁を選びました。こうした細部に苦労するのが建築でしょう。

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身辺に転がるテーマのセッティング

こういった様子で三次元性とは別種のイリュージョナルな感じが漂い、一日のうちに次々と光の具合が変わっていく。その中に自分が含まれながら空間を感じ取っていく舞台になっています。これはジェームス・タレルに繋がっていくような感受性であると考えてもいいんじゃないか。
向こうに見えている建物は、まだこれから手を入れていくんですが。こういうものの中で、 今、新潟県の妻有で開かれているアート・フェアに参加しているイリヤ・カバコフなどの作品がパーマネントにインスタレーションされています。そこに、ジャッドが生前決めていたダン・フレイヴィン、ロニ・ホーンなどの代表的な作品もインスタレーションされています。

このグリッドのちょうど真ん中、そしてその横に作品を展示する[図27]。この軸線がいわば中世のロマネスクの聖堂のように、ジャッドの聖地みたいになっているんじゃないかと思いましたが、私にはそうはなっていないように思え、安心しました。アートである以上はどこかにサンクチュアルな部分が感じられてしまうわけですが、それがある種の宗教性に還元していくようなファクターは、僕には感じられなかった。
ジャッドという人間は何か全く新しいものを作ろうというのではなく、建築のテーマというのは身辺に転がっている、それをどのように見せるか、どうセッティングを施すか、というところに意識を集中しているわけです。
これから建築をやられる方々に希望として申し上げたいのは、こんな形、あんな形と作るのではなく、こういったがらがらになったもののなかに成立する空間性をもっと大切にしていくべきなのではないか、ということです。二一世紀の建築家とはそういうものではないでしょうか。

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後記

このレクチャーは、灰塚アート・ステュディウム二〇〇〇において行なわれた講議「タイポロジーについて」(八月三一日)の記録を編集、構成し、テキストの補足、改校を、坂中俊文・玉井幸絵・布施知範(アート・ステュディウム二〇〇〇事務局)、上条大輔・北浦千尋・田中昭臣・中谷礼仁(大阪市立大学工学研究科都市系専攻中谷ゼミナール)、図版の校閲を新田正樹氏・嶋澤宏美氏・水野和子氏が行なったものである。
「アート・ステュディウム」とは、灰塚アースワークプロジェクト実行委員会が一九九四年から開催していた短期滞在型ワークショップ「サマーキャンプ」を基盤としつつ、造形作家の岡崎乾二郎氏、歴史工学家の中谷礼仁氏(共に専任講師)を中心に、美術や建築の領域的限界を越えた実践的技法を生み出す場所となることをめざして二〇〇〇年度より活動を開始したノンプロフィットの独立した学校である。
二〇〇〇年度メインテーマを「芸術の根と葉」(芸術や建築を成立させている基盤の探究、それらが生活といかに分かちがたく結びついているのか問い直すこと)、メインテキストをGeorge Kublerによる"The shape of time: Remarks on the History of Things, 1962"「時の形」として、夏季集中講座を開催し、ゲスト講師として大島氏を招いた。
ここで扱った「The shape of time」のテキストは、ステュディウムの専任講師である中谷礼仁氏、同大学助手中嶋節子氏と大阪市立大学の学生が中心となって翻訳をすすめていたものである。大島氏は夏季講座の後より参加された。氏自ら多くの在野の若者をひきつれてこられた。彼らは勉強会の中核を占めるまでになった。単純な翻訳会であったから、粛々と事はすすめられた。雨の降る日も、風の吹く日も氏はやってきた。急逝されたのは、ちょうどこの翻訳会の日だった。こなかったこと自体が、何事かを物語っていた。
大島氏は、広島の山奥にある灰塚の会場へまるでふらっと立ち寄るようにお越しになった。講議が始まるや声のボリュームは上がり、教室を早足に歩き回り、映写されたスライドの画像に覆い被さるようにして説明した。その力強いエキサイティングな講議の疾走感は、参加者に強烈な印象を焼きつけている。講議を終えてからも、全ての質問に時間をかけて真剣に答えて下さり、「ジャッドの建築を見たくて塀を乗り越えようとして射撃されかけた」と御自身の経験を述べられていたそのままの好奇心で、私たちの考えにも耳を傾けて下さった。
この講議は、御自身の知を惜しみなく分有し、常に学ぼうとされていた大島氏と、灰塚アート・ステュディウムとの邂逅の記録である。大島氏の講議が正確に伝わればと思い、大島氏の言葉の使い方をそのまま残した。
坂中俊文・玉井幸絵・布施知範

>大島哲蔵(オオシマ・テツゾウ)

1948年生
スクウォッター(建築情報)主宰。批評家。

>『10+1』 No.29

特集=新・東京の地誌学 都市を発見するために

>福田晴虔(フクダ・セイケン)

1938年 -
西日本工業大学教授/建築史。日本建築学会、建築史学会、米国建築史学会。

>ルイス・カーン

1901年 - 1974年
建築家。

>ル・コルビュジエ

1887年 - 1965年
建築家。

>ポストモダン

狭義には、フランスの哲学者ジャン・フランソワ=リオタールによって提唱された時代区...

>ミニマリズム

1960年代のアメリカで主流を占めた美術運動。美術・建築などの芸術分野において必...

>中谷礼仁(ナカタニ・ノリヒト)

1965年 -
歴史工学家。早稲田大学創造理工学部准教授、編集出版組織体アセテート主宰。

>岡崎乾二郎(オカザキ・ケンジロウ)

1955年 -
造形作家、批評家。近畿大学国際人文科学研究所教授、副所長。