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データベース映画 2 | 堀潤之
Database-Cinema 2 | Junji Hori
掲載『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること) pp.19-21

レフ・マノヴィッチが映画の将来的な可能性のひとつとして提示する「データベース映画」がどれほど有効なものたりうるかを考えるために、前回は、ショアー財団によるホロコーストの生き残りの証言データベースと、クロード・ランズマンによる映画『ショアー』(一九八五)を比較して、前者が膨大なデータの集積を指向しているのに対して、後者が「動態的かつ主観的」なデータの切り詰めによってかえって興味深い作品となっていることを指摘した。今回は、別の例を挙げることで、「データベース映画」の可能性をさらに探ってみたい。
一九九五年に映画が生誕一〇〇周年を迎えたとき、さまざまなかたちで映画史を振り返る試みがなされた。そのうち、最も大がかりなもののひとつは、BFI(British Film Institute)が世界各地の監督たちに委嘱した、映画一〇〇年を振り返るTVドキュメンタリー・シリーズである。このシリーズは国別に分かれていて、たとえばアメリカ篇はマーティン・スコセッシ、イギリス篇はスティーヴン・フリアーズとマイク・ディブ、ドイツ篇はエドガー・ライツ、日本篇は大島渚、中国語圏の映画はスタンリー・クワン、フランス篇はジャン=リュック・ゴダールとアンヌ=マリ・ミエヴィルが、それぞれ監督しているといった具合だ。監督たちは、いわば自分の国を代表して、自国の映画史だけを語ることが求められていると言ってよい。確かに、その枠内では、各監督に大きな自由が与えられており、実際の作品は、標準的な映画史を語るものから、映画史に対してきわめて私的なアプローチをしているものまで、さまざまだ。たとえば、スコセッシによるアメリカ篇は、基本的にはアメリカ映画の流れを教科書的に追っているが、サミュエル・フラーやジャック・ターナーを大きく取り上げるなど、随所にスコセッシならではの「偏向」が見て取れる。あるいは、スタンリー・クワンは、ジェンダーという観点を設定し、中国、台湾、香港の映画を横断的に扱っている。また、大島による日本篇は、映画史のおさらいをごく簡単に終えて、一人称によるコメント付きで、自作を含めた戦後映画と社会との関連を回想している。したがって、このシリーズ全体が構築しようとしている「データベース」は、必ずしも「静態的で客観的」であるわけではない。しかしながら、シリーズを各国別に組織するというやり方は、ジョナサン・ローゼンバウムが指摘する通り、「島国根性を促進し、越境的あるいは多国籍的な多くの重要な人物を扱い損ね(…中略…)、多くの場合、美学に対して社会学、例外的なものに対して典型的なものに名誉を与えることになる」★一。このいわば反ラングロワ的とも言える官僚的制約のせいで、ナショナルな要素にきれいに整理できるはずのない豊穣な映画の歴史が、あるひとつの国の中の単線的な物語に還元されてしまいかねないのだ。「データベース」という観点から言えば、各国別という枠組みは、世界の重要な映画を過不足なくカヴァーし、シリーズが全体として過度に私的なものにならないようにするための方策であろうが、それが同時にこのシリーズの限界でもあると言える。
ゴダールとミエヴィルによるフランス篇『フランス映画の2×50年』は、シリーズ全体を統括する「各国別の映画史」という枠組みに反旗を翻しているわけではないが★二、それでもシリーズ全体の方向性に対する興味深いアンチテーゼを突きつけている。映画の冒頭部で、映画一〇〇年を祝う協会の会長を務めた俳優ミシェル・ピコリが、レマン湖畔のホテルにゴダールを訪ねる。そこでゴダールはピコリに対して、「なぜ映画を祝うのか?」と問いかける。しどろもどろの回答をするピコリに、ゴダールは「映画はすでに十分、有名ではないか」、「なぜカメラの発明を祝わないのか」などと人を食った質問を続ける。これはいわば、BFIのシリーズの前提そのものを切り崩す問いかけと言えるが、より興味深いのは、「映画は忘却されている」というテーゼである。ゴダールによれば、人々はもはや過去のフランス映画をまるで知らないという。実際、映画の後半で、ピコリは滞在しているホテルの従業員に、フランス映画の著名な作品や人物の名前を知っているかどうか尋ねるのだが、ごく一般的な趣味の持ち主と思われる従業員たちはそれらの固有名詞にまったく思い当たるところがなく、ただ当惑するばかりなのだ。過去の作品を網羅的に登録して、いつでも好きなときにそれらを現在に呼び戻せるようにするのが「データベースの論理」であるとすれば、ゴダールとミエヴィルはそれにいわば「忘却の論理」を対置している。前者が否応なく非時間性・非歴史性を指向するのに対して、後者はあくまでも現在における「映画の忘却」という事態を出発点として、映画史を動態的に振り返ろうとしているのである。
膨大な数のフィルム断片、絵画、写真、文学作品、音楽などの引用を四時間半にわたってコラージュしたゴダールの『映画史』(一九八八─九八)は、フランス映画のみならず、映画史全体を対象とした一種のデータベース的な作品である。『映画史』はいわば二重にデータベース的な作品だ。つまり、作品そのものがデータベース的である以前に、まずゴダール自身が二〇世紀のあらゆる映像を集積した仮想的なデータベースから、ありえたかもしれない無数のパラディグムを排除して、『映画史』というひとつのシンタグムを作り出している★三。ゴダールが、『映画史』1Aの最初のほうで、映画のすべての歴史を語るだけでなく、「ありえたかもしれないすべての歴史」を語ると宣言している通り、彼は自分で構築したデータベースの「ありえたかもしれない」という側面にきわめて意識的である。これはとりわけ、複数の映像断片を超高速で反復的にモンタージュする技法を通じて、表現されていると言える。引用源の特定をしばしば困難にするこの技法によって複数の映像断片をぶつけ合わせることで、ゴダールは明らかに、単に複数の「データ」を提示することだけでなく、「データ」そのものの質を転換する作業を行なっている。ゴダールの選択は最終的には『映画史』というひとつの固定した作品に結実しているものの、この作品は決して「静態的で客観的」なデータベースではなく、いくつもの「ありえたかもしれない」別の可能性を喚起させる仕掛けをともなっているのである。
さらに、ゴダールには客観的な映画史を語ろうという意志がいささかもない。引用される映画は膨大ではあれ、ほぼすべてがヌーヴェル・ヴァーグ以前のヨーロッパ映画に限られており、しかもそれらはもっぱらゴダールの個人的な理由によって選ばれている★四。その意味で、BFIのシリーズが映画史を各国別にとらえることで、ある程度の客観性を担保しようとしていたのに対して、『映画史』という「データベース」は非常に強い個人的なバイアスのかかったものになっている。しかし、ちょうど『ショアー』がそうだったように、そのようなバイアスによってこそ、『映画史』は奇妙な「データベース」としてきわめて興味深いものになっているのだ。
七〇年代のゴダールは、当時の「ニューメディア」だったヴィデオを、映像による政治的闘争の有効な武器として、またメディア社会の批判的分析のためのツールとして、いち早く使用した。それに比べると、九〇年代のゴダールは、『愛の世紀』後半をデジタル・ヴィデオで撮影しているものの、クリス・マルケルなどと比較して、現在のニューメディアの状況に即応しているとは言いがたい。とはいえ、『フランス映画の2×50年』や『映画史』は、それ自体はローテクの産物であるにもかかわらず、ニューメディア時代の「象徴形式」である「データベースの論理」に対する有効な批判たりえているのである。

R:Anne Mieville, Jean-Luc Godard, Jahrhundert des Kinos 5: 2x50 ans de cinéma français 出典=http://www.film-neuigkeiten.de/jahrhundert_des_kinos_1732328.htm

R:Anne Mieville, Jean-Luc Godard, Jahrhundert des Kinos 5: 2x50 ans de cinéma français
出典=http://www.film-neuigkeiten.de/jahrhundert_des_kinos_1732328.htm


★一──Jonathan Rosenbaum,"International Harvest: National Film Histories on Video", Essential Cinema: On the Necessity of Film Canons, The Johns Hopkins University Press, 2003, p.210-15.
★二──マイケル・ウィットは、ナショナル・シネマの枠組みで映画史を捉える仕方こそが、ゴダールの映画の概念そのものの根幹を成していると論じている。ウィット「映画とは何だったのか、ジャン=リュック・ゴダール?」、(四方田犬彦+堀潤之編著『ゴダール・映像・歴史』産業図書、二〇〇一、一七五─二〇二頁)を参照。
★三──この点について、詳しくは拙論「ゴダールと『ニュー・メディア』の文法」(『InterCommunication』No.45、NTT出版、二〇〇三)。
★四──四方田犬彦「パッチョロ」(『ゴダール・映像・歴史』、二〇三─三六頁)。

>堀潤之(ホリジュンジ)

1976年生
関西大学文学部准教授。映画研究・表象文化論。

>『10+1』 No.38

特集=建築と書物──読むこと、書くこと、つくること

>堀潤之(ホリジュンジ)

1976年 -
映画研究・表象文化論。関西大学文学部准教授。